二
箱根細工の店では大友が種々の談話(はなし)の末、やっとお正の事に及んで
「それじゃア此(この)二月に嫁入したのだね、随分遅い方だね。」
「まア遅いほうでしょうね。貴下(あなた)は何時ごろお正(しょう)さんを御存知で御座います?」
「左様(そう)サ、お正さんが二十位の時だろう、四年前の事だ、だからお正(しょう)さんは二十四の春嫁(かたず)いたというものだ。」
「全く左様(そう)で御座います。」と女主人(じょしゅじん)は言って、急に声をひそめて、「処(ところ)が可哀そうに余り面白く行かないとか大(だい)ぶん紛糾(ごたごた)があるようで御座います。お正さんは二十四でも未(ま)だ若い盛で御座いますが、旦那は五十幾歳(いくつ)とかで、二度目だそうで御座いますから無理も御座いませんよ。」
大友は心に頗る驚いたが別に顔色も変ず、「それは気の毒だ」と言いさま直ぐ起ち上って、「大きにお邪魔をした」とばかり、店を出た。
大友の心にはこの二三年前来(ぜんらい)、どうか此世に於て今一度、お正さんに会いたいものだという一念が蟠(わだかま)っていたのである、この女のことを思うと、悲しい、懐しい情感(おもい)に堪え得ないことがある。そして此(この)情想(おもい)に耽る時は人間の浅間しサから我知らず脱れ出ずるような心持になる。あたかも野辺にさすらいて秋の月のさやかに照るをしみじみと眺め入る心持と或は似通えるか。さりとて矢も楯もたまらずお正の許に飛んで行くような激越の情は起らないのであった。
ただ会いたい。この世で今一度会いたい。縁あらば、せめて一度此世で会いたい。とのみ大友は思いつづけていた。何(なん)ぞその心根の哀しさや。会い度(た)くば幾度(いくたび)にても逢(あえ)る、又た逢える筈の情縁あらば如斯(こん)な哀しい情緒(おもい)は起らぬものである。別れたる、離れたる親子、兄弟、夫婦、朋友、恋人の仲間(あいだ)の、逢いたき情(おもい)とは全然(まる)で異(ちが)っている、「縁あらばこの世で今一度会いたい」との願いの深い哀しみは常に大友の心に潜んでいたのである。
或夜大友は二三の友と会食して酒のやや廻った時、斯ういう事を言ったことがある「僕の知っている女でお正さんというのがあるが、容貌(きりょう)は十人並で、ただ愛嬌のある女というに過(すぎ)ないけれど、如何にも柔和な、どちらかと言えば今少しはハキハキしてもと思わるる程の性分で何処(どこ)までも正直な、同情(おもいやり)の深そうな娘である。肉づきまでがふっくりして、温かそうに思われたが、若し、僕に女房(かかあ)を世話してくれる者があるなら彼様(あんな)のが欲しいものだ」
それならば大友はお正さんに恋い焦がれていたかというと、全然(まったく)、左様(そう)でない。ただ大友がその時、一寸左様(そう)思っただけである。
四年前、やはり秋の初であった。大友がこの温泉場に来て大東館に宿ったのは。
避暑の客が大方帰ったので居残りの者は我儘放題、女中の手もすいたので或夕(あるゆうべ)、大友は宿の娘のお正(しょう)を占領して飲んでいたが、初めは戯談のほれたはれた問題が、次第に本物になって、大友は遂にその時から三年前の失恋談をはじめた。女中なら「御馳走様」位でお止(やめ)になるところが、お正は本気で聞いている、大友は無論真剣に話している。
「それほどまでに二人が艱難辛苦してやッと結婚して、一緒になったかと思うと間もなく、ポカンと僕を捨てて逃げ出して了ったのです」
「まア痛(ひど)いこと! それで貴下(あなた)はどうなさいました。」とお正の眼は最早(もう)潤んでいる。
「女に捨てられる男は意気地なしだとの、今では、人の噂も理会(わか)りますが、その時の僕は左(さ)まで世にすれていなかったのです。ただ夢中です、身も世もあられぬ悲嘆(かなし)さを堪え忍びながら如何(いか)にもして前(もと)の通りに為(し)たいと、恥も外聞もかまわず、出来るだけのことをしたものです。」
「それで駄目なんですか。」
「無論です。」
「まア、」とお正(しょう)は眼に涙を一ぱい含ませている。
「僕が夢中になるだけ、先方(むこう)は益々(ますます)冷て了(しま)う。終(しま)いには僕を見るもイヤだという風になったのです。」そして大友は種々と詳細(こまか)い談話(はなし)をして、自分がどれほどその女から侮辱せられたかを語った。そして彼自身も今更想い起して感慨に堪えぬ様(さま)であった。
「さぞ憎らしかッたでしょうねエ、」
「否(いいえ)、憎らしいとその時思うことが出来るなら左(さ)まで苦しくは無いのです。ただ悲嘆(かなし)かったのです。」
お正(しょう)の両頬には何時(いつ)しか涙が静かに流れている。
「今は如何なに思っておいでです」とお正(しょう)は声をふるわして聞いた。
「今ですか、今でも憎いとは思っていません。けれどもね、お正(しょう)さん僕が若し彼様(あん)な不幸に会わなかったら、今の僕では無かったろうと思うと、残念で堪らないのです。今日が日まで三年ばかりで大事の月日が、殆(ほとん)ど煙のように過(た)って了いました。僕の心は壊れて了ったのですからねエ」と大友は眼を瞬たいた。お正(しょう)ははんけちを眼にあてて頭(かしら)を垂れて了った。
「まア可(い)いサ、酒でも飲みましょう」と大友は酌(しゃく)を促がして、黙って飲んでいると、隣室に居(お)る川村という富豪(かねもち)の子息(むすこ)が、酔った勢いで、散歩に出かけようと誘うので、大友はお正(しょう)を連れ、川村は女中三人ばかりを引率して宿を出た。川村の組は勝手にふざけ散らして先へ行く、大友とお正(しょう)は相並んで静かに歩む、夜(よ)は冷々として既に膚寒く覚ゆる程の季節ゆえ、渓流(たにがわ)に沿う町はひっそりとして客らしき者の影さえ見えず、月は冴えに冴えて岩に激する流れは雪のようである。
大友とお正(しょう)は何時(いつし)か寄添うて歩みながらも言葉一ツ交さないでいたが、川村の連中が遠く離れて森の彼方で声がする頃になると、
「真実(ほんと)に貴下(あなた)はお可哀そうですねエ」と、突然お正(しょう)は頭(かしら)を垂れたまま言った。
「お正(しょう)さん、お正さん?」
「ハイ」とお正(しょう)は顔を上げた。雙眼(そうがん)涙を含める蒼ざめた顔を月はまともに照らす。
「僕はね、若し彼女(あのおんな)がお正(しょう)さんのように柔和(やさし)い人であったら、こんな不幸な男にはならなかったと思います。」
「そんな事は、」とお正はうつむいた、そして二人は人家から離れた、礫(いし)の多い凸凹道を、静かに歩んでいる。
「否(いいえ)、僕は真実(ほんと)に左様(そう)思います、何故(なぜ)彼女がお正(しょう)さんと同じ人で無かったかと思います。」
お正(しょう)は、そっと大友の顔を見上げた。大友は月影に霞む流れの末を見つめていた。
それから二人は暫時(しばら)く無言で歩いていると先へ行った川村の連中が、がやがやと騒ぎながら帰って来たので、一緒に連れ立って宿に帰った。其後三四日大友は滞留していたけれどお正(しょう)には最早、彼(あ)の事に就いては一言も言わず、お給仕ごとに楽しく四方山の話をして、大友は帰京したのである。
爾来(じらい)、四年、大友の恋の傷は癒え、恋人の姿は彼の心から消え去せて了ったけれども、お正(しょう)には如何(どう)かして今一度、縁あらば会いたいものだと願っていたのである。
そして来て見ると、兼ねて期したる事とは言え、さてお正(しょう)は既にいないので、大いに失望した上に、お正(しょう)の身の上の不幸を箱根細工の店で聞かされたので、不快に堪えず、流れを泝(さかのぼ)って渓(たに)の奥まで一人で散歩して見たが少しも面白くない、気は塞(ふさ)ぐ一方であるから、宿に帰って、少し夕飯には時刻が早いが、酒を命じた。
三
大友は、「用があるなら呼ぶから。」と女中をしりぞけて独酌で種々の事を考えながら淋しく飲んでいると宿の娘が「これをお客様が」と差出したのは封紙(うわづつみ)のない手紙である、大友は不審に思い、開き見ると、
[#改行ごとに二字下げ]前略我等両人当所に於て君を待つこと久しとは申兼候え共、本日御投宿と聞いて愉快に堪えず、女中に命じて膳部を弊室(へいしつ)に御運搬の上、大いに語り度く願い候[#二字下げ終わり]
神 崎
朝 田
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