娘二人を島に揚げし後は若者ら寒しとて毛布被り足を縮めて臥しぬ。老夫婦は孫に菓子与えなどし、家の事どもひそひそと語りあえり。浦に着きしころは日落ちて夕煙村を罩め浦を包みつ。帰舟は客なかりき。醍醐の入江の口を出る時彦岳嵐身にみ、顧みれば大白の光漣に砕け、こなたには大入島の火影早きらめきそめぬ。静かに櫓こぐ翁の影黒く水に映れり。舳軽く浮かべば舟底たたく水音、あわれ何をか囁く。人の眠催す様なるこの水音を源叔父は聞くともなく聞きてさまざまの楽しきことのみ思いつづけ、悲しきこと、気がかりのこと、胸に浮かぶ時は櫓握る手に力入れて頭振りたり。物を追いやるようなり。
家には待つものあり、彼は炉の前に坐りて居眠りてやおらん、乞食せし時に比べて我家のうちの楽しさ煖かさに心溶け、思うこともなく燈火うち見やりてやおらん、わが帰るを待たで夕餉おえしか、櫓こぐ術教うべしといいし時、うれしげにうなずきぬ、言葉すくなく絶えずもの思わしげなるはこれまでの慣いなるべし、月日経たば肉づきて頬赤らむ時もあらん、されどされど。源叔父は頭を振りぬ。否々彼も人の子なり、我子なり、吾に習いて巧みにうたい出る彼が声こそ聞かまほしけれ、少女一人乗せて月夜に舟こぐこともあらば彼も人の子なりその少女ふたたび見たき情起こさでやむべき、われにその情見ぬく眼ありかならずよそには見じ。
波止場に入りし時、翁は夢みるごときまなざしして問屋の燈火、影長く水にゆらぐを見たり。舟繋ぎおわれば臥席巻きて腋に抱き櫓を肩にして岸に上りぬ。日暮れて間もなきに問屋三軒皆な戸ざして人影絶え人声なし。源叔父は眼閉じて歩み我家の前に来たりし時、丸き眼りてあたりを見廻わしぬ。
「我子よ今帰りしぞ」と呼び櫓置くべきところに櫓置きて内に入りぬ。家内暗し。
「こはいかに、わが子よ今帰りぬ、早く燈点けずや」寂として応えなし。
「紀州紀州」竈馬のふつづかに喞くあるのみ。
翁は狼狽てて懐中よりまっち取りだし、一摺りすれば一間のうちにわかに明くなりつ、人らしきもの見えず、しばししてまた暗し。陰森の気床下より起こりて翁が懐に入りぬ。手早く豆洋燈に火を移しあたりを見廻わすまなざし鈍く、耳そばだてて「我子よ」と呼びし声嗄れて呼吸も迫りぬと覚し。
炉には灰白く冷え夕餉たべしあとだになし。家内捜すまでもなく、ただ一間のうちを翁はゆるやかに見廻わしぬ。煤けし壁の四隅は光届きかねつ心ありて見れば、人あるに似たり。源叔父は顔を両手に埋め深き嘆息せり。この時もしやと思うこと胸を衝きしに、つと起てば大粒の涙流れて煩をつたうを拭わんとはせず、柱に掛けし舷燈に火を移していそがわしく家を出で、城下の方指して走りぬ。
蟹田なる鍛冶の夜業の火花闇に散る前を行過ぎんとして立ちどまり、日暮のころ紀州この前を通らざりしかと問えば、気つかざりしと槌持てる若者の一人答えて訝しげなる顔す。こは夜業を妨げぬと笑面作りつ、また急ぎゆけり。右は畑、左は堤の上を一列に老松並ぶ真直の道をなかば来たりし時、行先をゆくものあり。急ぎて燈火さし向くるに後姿紀州にまぎれなし。彼は両手を懐にし、身を前に屈めて歩めり。
「紀州ならずや」呼びかけてその肩に手を掛けつ、
「独りいずこに行かんとはする」怒り、はた喜び、はた悲しみ、はた限りなき失望をただこの一言に包みしようなり。紀州は源叔父が顔見て驚きし様もなく、道ゆく人を門に立ちて心なく見やるごとき様にてうち守りぬ。翁は呆れてしばし言葉なし。
「寒からずや、早く帰れ我子」いいつつ紀州の手取りて連れ帰りぬ。みちみち源叔父は、わが帰りの遅かりしゆえ淋しさに堪えざりしか、夕餉は戸棚に調えおきしものをなどいいいい行けり。紀州は一言もいわず、生憎に嘆息もらすは翁なり。
家に帰るや、炉に火を盛に燃きてそのわきに紀州を坐らせ、戸棚より膳取り出だして自身は食らわず紀州にのみたべさす。紀州は翁のいうがままに翁のものまで食いつくしぬ。その間源叔父はおりおり紀州の顔見ては眼閉じ嘆息せり。たべおわりなば火にあたれといいて、うまかりしかと問う紀州は眠気なる眼にて翁が顔を見てかすかにうなずきしのみ。源叔父はこの様見るや、眠くば寝よと優しくいい、みずから床敷きて布団かけてやりなどす。紀州の寝し後、翁は一人炉の前に坐り、眼を閉じて動かず。炉の火燃えつきんとすれども柴くべず、五十年の永き年月を潮風にのみ晒せし顔には赤き焔の影おぼつかなく漂えり。頬を連いてきらめくものは涙なるかも。屋根を渡る風の音す、門に立てる松の梢を嘯きて過ぎぬ。
翌朝早く起きいでて源叔父は紀州に朝飯たべさせ自分は頭重く口渇きて堪えがたしと水のみ飲みて何も食わざりき。しばししてこの熱を見よと紀州の手取りて我額に触れしめ、すこし風邪ひきしようなりと、ついに床のべてうち臥しぬ。源叔父の疾みて臥するは稀なることなり。
「明日は癒えん、ここに来たれ、物語して聞かすべし」しいてうちえみ、紀州を枕辺に坐らせて、といきつくづくいろいろの物語して聞かしぬ。そなたは鱶ちょう恐ろしき魚見しことなからんなど七ツ八ツの児に語るがごとし。ややありて。
「母親恋しくは思わずや」紀州の顔見つつ問いぬ。この問を紀州の解しかねしようなれば。
「永く我家にいよ、我をそなたの父と思え、――」
なおいい続がんとして苦しげに息す。
「明後日の夜は芝居見に連れゆくべし。外題は阿波十郎兵衛なる由ききぬ。そなたに見せなば親恋しと思う心かならず起こらん、そのときわれを父と思え、そなたの父はわれなり」
かくて源叔父は昔見し芝居の筋を語りいで、巡礼謡をかすかなる声にてうたい聞かせつ、あわれと思わずやといいてみずから泣きぬ。紀州には何事も解しかぬ様なり。
「よしよし、話のみにては解しがたし、目に見なばそなたもかならず泣かん」いいおわりて苦しげなる息、ほと吐きたり。語り疲れてしばしまどろみぬ。目さめて枕辺を見しに紀州あらざりき。紀州よ我子よと呼びつつ走りゆくほどに顔のなかばを朱に染めし女乞食いずこよりか現われて紀州は我子なりといいしが見るうちに年若き眼に変わりぬ。ゆりならずや幸助をいかにせしぞ、わが眠りし間に幸助いずれにか逃げ亡せたり、来たれ来たれ来たれともに捜せよ、見よ幸助は芥溜のなかより大根の切片掘りだすぞと大声あげて泣けば、後ろより我子よというは母なり。母は舞台見ずやと指さしたまう。舞台には蝋燭の光眼を射るばかり輝きたり。母が眼のふち赤らめて泣きたまうを訝しく思いつ、自分は菓子のみ食いてついに母の膝に小さき頭載せそのまま眠入りぬ。母親ゆり起こしたまう心地して夢破れたり。源叔父は頭をあげて、
「我子よ今恐ろしき夢みたり」いいつつ枕辺を見たり。紀州いざりき。
「わが子よ」嗄がれし声にて呼びぬ。答なし。窓を吹く風の音怪しく鳴りぬ。夢なるか現なるか。翁は布団翻のけ、つと起ちあがりて、紀州よ我子よと呼びし時、目眩みてそのまま布団の上に倒れつ、千尋の底に落入りて波わが頭上に砕けしように覚えぬ。
その日源叔父は布団被りしまま起出でず、何も食わず、頭を布団の外にすらいださざりき。朝より吹きそめし風しだいに荒らく磯打つ浪の音すごし。今日は浦人も城下に出でず、城下より嶋へ渡る者もなければ渡舟頼みに来る者もなし。夜に入りて波ますます狂い波止場の崩れしかと怪しまるる音せり。
朝まだき、東の空ようやく白みしころ、人々皆起きいでて合羽を着、灯燈つけ舷燈携えなどして波止場に集まりぬ。波止場は事なかりき。風落ちたれど波なお高く沖は雷の轟くようなる音し磯打つ波砕けて飛沫雨のごとし。人々荒跡を見廻るうち小舟一艘岩の上に打上げられてなかば砕けしまま残れるを見出しぬ。
「誰の舟ぞ」問屋の主人らしき男問う。
「源叔父の舟にまぎれなし」若者の一人答えぬ。人々顔見あわして言葉なし。
「誰れにてもよし源叔父呼びきたらずや」
「われ行かん」若者は舷燈を地に置きて走りゆきぬ。十歩の先すでに見るべし。道に差出でし松が枝より怪しき物さがれり。胆太き若者はずかずかと寄りて眼定めて見たり。縊れるは源叔父なりき。
桂港にほど近き山ふところに小さき墓地ありて東に向かいぬ。源叔父の妻ゆり独子幸助の墓みなこの処にあり。「池田源太郎之墓」と書きし墓標またここに建てられぬ。幸助を中にして三つの墓並び、冬の夜は霙降ることもあれど、都なる年若き教師は源叔父今もなお一人淋しく磯辺に暮し妻子の事思いて泣きつつありとひとえに哀れがりぬ。
紀州は同じく紀州なり、町のものよりは佐伯附属の品とし視らるること前のごとく、墓より脱け出でし人のようにこの古城市の夜半にさまようこと前のごとし。ある人彼に向かいて、源叔父は縊れて死にたりと告げしに、彼はただその人の顔をうちまもりしのみ。
●表記について
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