源叔父は袂をさぐりて竹の皮包取りだし握飯一つ撮みて紀州の前に突きだせば、乞食は懐より椀をだしてこれを受けぬ。与えしものも言葉なく受けしものも言葉なく、互いに嬉れしとも憐れとも思わぬようなり、紀州はそのまま行き過ぎて後振向きもせず、源叔父はその後影角をめぐりて見えずなるまで目送りつ、大空仰げば降るともなしに降りくるは雪の二片三片なり、今一度乞食のゆきし方を見て太き嘆息せり。小供らは笑を忍びて肱つつきあえど翁は知らず。
源叔父家に帰りしは夕暮なりし。彼が家の窓は道に向かえど開かれしことなく、さなきだに闇きを燈つけず、炉の前に坐り指太き両手を顔に当て、首を垂れて嘆息つきたり。炉には枯枝一掴みくべあり。細き枝に蝋燭の焔ほどの火燃え移りてかわるがわる消えつ燃えつす。燃ゆる時は一間のうちしばらく明し。翁の影太く壁に映りて動き、煤けし壁に浮かびいずるは錦絵なり。幸助五六歳のころ妻の百合が里帰りして貰いきしその時粘りつけしまま十年余の月日経ち今は薄墨塗りしようなり、今宵は風なく波音聞こえず。家を繞りてさらさらと私語くごとき物音を翁は耳そばだてて聴きぬ。こは霙の音なり。源叔父はしばしこのさびしき音を聞入りしが、太息して家内を見まわしぬ。
豆洋燈つけて戸外に出れば寒さ骨に沁むばかり、冬の夜寒むに櫓こぐをつらしとも思わぬ身ながら粟だつを覚えき。山黒く海暗し。火影及ぶかぎりは雪片きらめきて降つるが見ゆ。地は堅く氷れり。この時若き男二人もの語りつつ城下の方より来しが、燈持ちて門に立てる翁を見て、源叔父よ今宵の寒さはいかにという。翁は、さなりとのみ答えて目は城下の方に向かえり。
やや行き過ぎて若者の一人、いつもながら源叔父の今宵の様はいかに、若き女あの顔を見なばそのまま気絶やせんと囁けば相手は、明朝あの松が枝に翁の足のさがれるを見出さんもしれずという、二人は身の毛のよだつを覚えて振向けば翁が門にはもはや燈火見えざりき。
夜は更けたり。雪は霙と変わり霙は雪となり降りつ止みつす。灘山の端を月はなれて雲の海に光を包めば、古城市はさながら乾ける墓原のごとし。山々の麓には村あり、村々の奥には墓あり、墓はこの時覚め、人はこの時眠り、夢の世界にて故人相まみえ泣きつ笑いつす。影のごとき人今しも広辻を横ぎりて小橋の上をゆけり。橋の袂に眠りし犬頭をあげてその後影を見たれど吠えず。あわれこの人墓よりや脱け出でし。誰に遇い誰れと語らんとてかくはさまよう。彼は紀州なり。
源叔父の独子幸助海に溺れて失せし同じ年の秋、一人の女乞食日向の方より迷いきて佐伯の町に足をとどめぬ。伴いしは八歳ばかりの男子なり。母はこの子を連れて家々の門に立てば、貰い物多く、ここの人の慈悲深きは他国にて見ざりしほどなれば、子のために行末よしやと思いはかりけん、次の年の春、母は子を残していずれにか影を隠したり。太宰府訪でし人帰りきての話に、かの女乞食に肖たるが襤褸着し、力士に伴いて鳥居のわきに袖乞いするを見しという。人々皆な思いあたる節なりといえり。町の者母の無情を憎み残されし子をいや増してあわれがりぬ。かくて母の計あたりしとみえし。あらず、村々には寺あれど人々の慈悲には限あり。不憫なりとは語りあえど、まじめに引取りて末永く育てんというものなく、時には庭先の掃除など命じ人らしく扱うものありしかど、永くは続かず。初めは童母を慕いて泣きぬ、人人物与えて慰めたり。童は母を思わずなりぬ、人人の慈悲は童をして母を忘れしめたるのみ。物忘れする子なりともいい、白痴なりともいい、不潔なりともいい、盗すともいう、口実はさまざまなれどこの童を乞食の境に落としつくし人情の世界のそとに葬りし結果はひとつなりき。
戯れにいろは教うればいろはを覚え、戯れに読本教うればその一節二節を暗誦し、小供らの歌聞きてまた歌い、笑い語り戯れて、世の常の子と変わらざりき。げに変わらずみえたり。生国を紀州なりと童のいうがままに「紀州」と呼びなされて、はては佐伯町附属の品物のように取扱われつ、街に遊ぶ子はこの童とともに育ちぬ。かくて彼が心は人々の知らぬ間に亡び、人々は彼と朝日照り炊煙棚引き親子あり夫婦あり兄弟あり朋友あり涙ある世界に同居せりと思える間、彼はいつしか無人の島にその淋しき巣を移しここにその心を葬りたり。
彼に物与えても礼言わずなりぬ。笑わずなりぬ。彼の怒りしを見んは難く彼の泣くを見んはたやすからず、彼は恨みも喜びもせず。ただ動き、ただ歩み、ただ食らう。食らう時かたわらよりうまきやと問えばアクセントなき言葉にてうましと答うその声は地の底にて響くがごとし。戯れに棒振りあげて彼の頭上に翳せば、笑うごとき面持してゆるやかに歩みを運ぶ様は主人に叱られし犬の尾振りつつ逃ぐるに似て異なり、彼はけっして媚を人にささげず。世の常の乞食見て憐れと思う心もて彼を憐れというは至らず。浮世の波に漂うて溺るる人を憐れとみる眼には彼を見出さんこと難かるべし、彼は波の底を這うものなれば。
紀州が小橋をかなたに渡りてより間もなく広辻に来かかりてあたりを見廻すものあり。手には小さき舷燈提げたり。舷燈の光射す口をかなたこなたと転らすごとに、薄く積みし雪の上を末広がりし火影走りて雪は美しく閃めき、辻を囲める家々の暗き軒下を丸き火影飛びぬ。この時本町の方より突如と現われしは巡査なり。ずかずかと歩み寄りて何者ぞと声かけ、燈をかかげてこなたの顔を照らしぬ。丸き目、深き皺、太き鼻、逞ましき舟子なり。
「源叔父ならずや」、巡査は呆れし様なり。
「さなり」、嗄れし声にて答う。
「夜更けて何者をか捜す」
「紀州を見たまわざりしか」
「紀州に何の用ありてか」
「今夜はあまりに寒ければ家に伴わんと思いはべり」
「されど彼の寝床は犬も知らざるべし、みずから風ひかぬがよし」
情ある巡査は行きさりぬ。
源叔父は嘆息つきつつ小橋の上まで来しが、火影落ちしところに足跡あり。今踏みしようなり。紀州ならで誰かこの雪を跣足のまま歩まんや。翁は小走りに足跡向きし方へと馳せぬ。
下
源叔父が紀州をその家に引取りたりということ知れわたり、伝えききし人初めは真とせず次に呆れ終は笑わぬものなかりき。この二人が差向いにて夕餉につく様こそ見たけれなど滑稽芝居見まほしき心にて嘲る者もありき。近ごろはあるかなきかに思われし源叔父またもや人の噂にのぼるようになりつ。
雪の夜より七日余り経ちぬ。夕日影あざやかに照り四国地遠く波の上に浮かびて見ゆ。鶴見崎のあたり真帆片帆白し。川口の洲には千鳥飛べり。源叔父は五人の客乗せて纜解かんとす、三人の若者駈けきたりて乗りこめば舟には人満ちたり。島にかえる娘二人は姉妹らしく、頭に手拭かぶり手に小さき包み持ちぬ。残り五人は浦人なり、後れて乗りこみし若者二人のほかの三人は老夫婦と連の小児なり。人々は町のことのみ語りあえり。芝居のことを若者の一人語りいでし時、このたびのは衣裳も格別に美しき由島にはいまだ見物せしものすくなけれど噂のみはいと高しと姉なる娘いう。否さまでならず、ただ去年のものにはすこしく優れりとうち消すようにいうは老婦なり。俳優のうちに久米五郎とて稀なる美男まじれりちょう噂島の娘らが間に高しとききぬ、いかにと若者姉妹に向かっていえば二人は顔赤らめ、老婦は大声に笑いぬ。源叔父は櫓こぎつつ眼を遠き方にのみ注ぎて、ここにも浮世の笑声高きを空耳に聞き、一言も雑えず。
「紀州を家に伴えりと聞きぬ、信にや」若者の一人、何をか思い出て問う。
「さなり」翁は見向きもせで答えぬ。
「乞食の子を家に入れしは何ゆえぞ解しがたしと怪しむものすくなからず、独りはあまりに淋しければにや」
「さなり」
「紀州ならずとも、ともに住むほどの子島にも浦にも求めんにはかならずあるべきに」
「げにしかり」と老婦口を入れて源叔父の顔を見上げぬ。源叔父はもの案じ顔にてしばし答えず。西の山懐より真直に立ちのぼる煙の末の夕日に輝きて真青なるをみつめしようなり。
「紀州は親も兄弟も家もなき童なり、我は妻も子もなき翁なり。我彼の父とならば、彼我の子となりなん、ともに幸いならずや」独語のようにいうを人々心のうちにて驚きぬ、この翁がかく滑らかに語りいでしを今まで聞きしことなければ。
「げに月日経つことの早さよ、源叔父。ゆり殿が赤児抱きて磯辺に立てるを視しは、われには昨日のようなる心地す」老婦は嘆息つきて、
「幸助殿今無事ならば何歳ぞ」と問う。
「紀州よりは二ツ三ツ上なるべし」さりげなく答えぬ。
「紀州の歳ほど推しがたきはあらず、垢にて歳も埋れはてしと覚ゆ、十にやはた十八にや」
人々の笑う声しばし止まざりき。
「われもよくは知らず、十六七とかいえり。生の母ならで定に知るものあらんや、哀れとおぼさずや」翁は老夫婦が連れし七歳ばかりの孫とも思わるる児を見かえりつついえり。その声さえ震えるに、人々気の毒がりて笑うことを止めつ。
「げに親子の情二人が間に発らば源叔父が行末楽しかるべし。紀州とても人の子なり、源叔父の帰り遅しと門に待つようなりなば涙流すものは源叔父のみかは」夫なる老人の取繕いげにいうも真意なきにあらず。
「さなり、げにその時はうれしかるべし」と答えし源叔父が言葉には喜び充ちたり。
「紀州連れてこのたびの芝居見る心はなきか」かくいいし若者は源叔父嘲らんとにはあらで、島の娘の笑い顔見たきなり。姉妹は源叔父に気兼ねして微笑しのみ。老婦は舷たたき、そはきわめておもしろからんと笑いぬ。
「阿波十郎兵衛など見せて我子泣かすも益なからん」源叔父は真顔にていう。
「我子とは誰ぞ」老婦は素知らぬ顔にて問いつ、
「幸助殿はかしこにて溺れしと聞きしに」振り向いて妙見の山影黒きあたりを指しぬ、人々皆かなたを見たり。
「我子とは紀州のことなり」源叔父はしばしこぐ手を止めて彦岳の方を見やり、顔赤らめていい放ちぬ。怒りとも悲しみとも恥ともはた喜びともいいわけがたき情胸を衝きつ。足を舷端にかけ櫓に力加えしとみるや、声高らかに歌いいでぬ。
海も山も絶えて久しくこの声を聞かざりき。うたう翁も久しくこの声を聞かざりき。夕凪の海面をわたりてこの声の脈ゆるやかに波紋を描きつつ消えゆくとぞみえし。波紋は渚を打てり。山彦はかすかに応えせり。翁は久しくこの応えをきかざりき。三十年前の我、長き眠りより醒めて山のかなたより今の我を呼ぶならずや。
老夫婦は声も節も昔のごとしと賛め、年若き四人は噂に違わざりけりと聴きほれぬ。源叔父は七人の客わが舟にあるを忘れはてたり。
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