九段坂の
先客の三人も今来た一人も、みな土方か立ちんぼうぐらいのごく下等な労働者である。よほど都合のいい日でないと
「
「ありがとう、どうせ長くはあるまい。」と今来た男は捨てばちに言って、投げるように腰掛けに身をおろして、両手で額を押え、苦しい
「そう気を落とすものじゃアない、しっかりなさい」と、この店の
「六銭しかない、これでなんでもいいから……」と言いさして、
めそめそ泣いている赤んぼを背負ったおかみさんは、ランプをつけながら、
「苦しそうだ、水をあげようか。」と振り向いた。文公は頭を横に振った。
「水よりかこのほうがいい、これなら元気がつく」と三人の一人の大男が言った。この男はこの店にはなじみでないと見えてさっきから口をきかなかったのである。突き出したのが
「一本つけよう。やっぱりこれでないと元気がつかない。
「なアに文公が払えない時は、わしがどうにでもする。えッ、文公、だから一ツ
それでも文公は頭を押えたまま黙っていると、まもなく白馬一本と野菜の煮つけを少しばかり載せた小ざら一つが文公の前に置かれた。この時やっと頭を上げて、
「親方どうも済まない。」と弱い声で言ってまたも
文公のおかげで陰気がちになるのもしかたがない、しかしたれもそれを不平に思う者はないらしい。文公は続けざまに三四杯ひっかけてまたも頭を押えたが、人々の親切を思わぬでもなく、また深く思うでもない。まるで別の世界から言葉をかけられたような気持ちもするし、うれしいけれど、それがそれまでの事である事を知っているから「どうせ長くはない」との感じを、しばしの間でもよいから忘れたくても忘れる事ができないのである。
からだにも心にも、ぽかんとしたような絶望的
すき腹に飲んだので、まもなく酔いがまわり、やや元気づいて来た。顔を上げて我れ知らずにやりと笑った時は、四角の顔がすぐ、
「そら見ろ、気持ちが直ったろう。
この時、外から二人の男が駆けこんで来た。いずれも土方ふうの者である。
「とうとう
「なに、すぐ
二人が飛びこんでから急ににぎおうて来て、いつしか文公に気をつける者もなくなった。外はどしゃ降りである。二つのランプの光は赤くかすかに、
文公は恵まれた
「まだ降ってるだろう、やんでから行きな。」
「たいしたことはあるまい。みなさん、どうもありがとう」と、穴だらけの
めし屋の連中も文公がどこへ行くか、もちろん知らないがしかしどこへ行こうと、それは問題でない。なぜなれば居残っている者のうちでも、今夜はどこへ泊まるかを決めていないものがある。この人々は大概、いわゆる居所不明、もしくは不定な連中であるから文公の今夜の行く先など気にしないのも無理はない。しかしあの容態では遠からずまいってしまうだろうとは文公の去ったあとでのうわさであった。
「かわいそうに。養育院へでもはいればいい。」と
「ところがその養育院というやつは、めんどうくさくってなかなかはいられないという事だぜ。」と客の土方の一人が言う。
「それじゃア行き倒れだ!」と一人が言う。
「たれか引き取り手がないものかナ。ぜんたい野郎はどこの者だ。」と一人が言う。
「自分でも知るまい。」
実際文公は自分がどこで生まれたのか全く知らない、親も兄弟もあるのかないのかすら知らない、文公という名も、たれ言うとなくひとりでにできたのである。十二歳ごろの時、浮浪少年とのかどで、しばらく監獄に飼われていたが、いろいろの身のためになるお話を聞かされた後、門から追い出された。それから三十いくつになるまで種々な労働に身を任して、やはり以前の浮浪生活を続けて来たのである。この冬に肺を病んでから薬一滴飲むことすらできず、土方にせよ、立ちん坊にせよ、それを休めばすぐ食うことができないのであった。
「もうだめだ」と、十日ぐらい前から文公は思っていた。それでもかせげるだけはかせがなければならぬ。それできょうも朝五銭、
さて文公はどこへ行く? ぼんやり軒下に立って目の前のこの世のさまをじっと見ているうちに、
「アヽいっそ死んでしまいたいなア」と思った。この時、
ふと思いついたのは、今から二月前に日本橋のある所で土方をした時知り合いになった弁公という
たどり着いて、それでも思い切って、
「弁公、
「たれだい。」と内からすぐ返事がした。
「文公だ。」
戸があいて「なんの用だ。」
「一晩泊めてくれ。」と言われて弁公すぐ身を横によけて
「まアこれを見てくれ、どこへ寝られる?」
見ればなるほど三畳敷の
文公の黙っているのを見て、
「いつものばばアの宿へなんで行かねえ?」
「
「三晩や四晩借りたってなんだ。」
「ウンと借りができて、もう行けねえんだ。」と言いさま、
「からだもよくないようだナ。」と、弁公初めて気がつく。
「すっかりだめになっちゃった。」
「そいつは気の毒だなア」と内と外でしばし無言でつっ立っている。するとまだ寝つかれないでいた親父が頭をもたげて、
「弁公、泊めてやれ、二人寝るのも三人寝るのも同じことだ。」
「同じことは一つこった。それじゃア足を洗うんだ。この
そこで文公はやっと宿を得て、二人の足のすそに丸くなった。
窮死(きゅうし)
作家录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语
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