「まアそんな事だろう、なにしろ後家ばあさん、大いに
私はうなずきました、樋口が鸚鵡を持ちこんだ日から二日目か三日目です、今では上田も鷹見もばあさんと言っています、かの時分のおッ
「けれども君は、かの後の事はよく知るまい、まもなく君は木村と二人で転宿してしまったから……なんでも君と木村が去ってしまって一週間もたたないうちだよ、ばあさんたまらなくなって、とうとう樋口をくどいて
それから樋口の話ばかりでなく、木村の事なども話題にのぼり、夜の十一時ごろまでおもしろく話して別れましたが、私は帰路に木村の事を思い出して、なつかしくなってたまりませんでした、どうして彼はいるだろう、どうかして会ってみたいものだ、たれに聞き合わすればあの人の様子や
私がおッ
木村は細長い顔の、目じりの長く切れた、口の小さな男で、背たけは人並みに高く、やせてひょろりとした上につんつるてんの着物を着ていましたから、ずいぶんと見すぼらしいふうでしたけれども、私の目にはそれがなんとなくありがたくって、聖者のおもかげを見る気がしたのです。朝一度晩一度、彼は必ず
他の下宿に移ってまもなくの事でありました、木村が、今夜、説教を聞きに行かないかと言います。それもたって勧めるではなく、彼の癖として少し顔を赤らめて、もじもじして、丁寧に
私はいやと言うことができないどころでなく、うれしいような気がして、すぐ同意しました。
雪がちらつく晩でした。
木村の教会は
道々二人はいろいろな話をしたでしょうがよく覚えていません。ただこれだけ頭に残っています。木村はいつもになくまじめな、人をおしつけるような声で、
「君はベツレヘムで生まれた人類が救い主エス、クリストを信じないか。」
別に変わった文句ではありませんが、『ベツレヘム』という言葉に一種の力がこもっていて、私の心にかつてないものを感じさせました。
会堂に着くと、入口の所へ
木村が私を前の席に導こうとしましたが、私は
牧師が賛美歌の番号を知らすと、堂のすみから、ものものしい重い、低い調子でオルガンの一くさり、それを合図に一同が立つ。そして男子の太い声と婦人の清く澄んだ声と相和して、肉声の一高一低が巧妙な楽器に導かれるのです、そして「たえなるめぐみ」とか「まことのちから」とか「愛の泉」とかいう言葉をもって織り出された幾節かの歌を聞きながら立っていますと、総身に、ある
それから牧師の祈りと、熱心な説教、そしてすべてが終わって、堂の内の人々
帰りは
木村はその後
そのわけはなんであろうか知りませんが、たぶん学資のことだろうと私は覚えています。そして私には木村が、たといあの時、
先夜鷹見の
「樋口は何を勉強していたのかね」と二人に問いました。記憶のいい上田も小首を傾けて、
「そうサ、何を読んでいたかしらん、まさかまるきり遊んでもいなかったろうが」と考えていましたが、
「机に向いていた事はよく見たが、何を専門にやっていたか、どうも思いつかれぬ、窪田君、覚えているかい」と問われて、私も樋口とは半年以上も同宿して懇意にしていたにかかわらず、さて思い返してみて樋口が何をまじめに勉強していたか、ついに思い出すことができませんでした。
そこで木村のことを思うにつけて、やはり同じ事であります。木村は常に机に向いていました、そして
そう思うと樋口も木村もどこか似ている性質があるようにも思われますが、それは性質が似ているのか、同じ似たそのころの青年の気風に染んでいたのか、しかと私には判断がつきませんけれども、この二人はとにかくある類似した色を持っていることは確かです。
そう言いますと、あの時分は私も朝早くから起きて寝るまで、学校の課業のほかに、やたらむしょうに読書したものです。欧州の政治史も読めば、スペンサーも読む、哲学書も読む、伝記も読む、一時間三十ページの割合で、日に十時間、三百ページ読んでまだ読書の速力がおそいと思ったことすらありました。そしてただいろんな事を止め度もなく考えて、思いにふけったものです。
そうすると、私もただ乱読したというだけで、樋口や木村と同じように夢の世界の人であったかも知れません。そうです、私ばかりではありません。あの時分は、だれもみんなやたらに乱読したものです。
底本:「号外・少年の悲哀 他六編」岩波文庫、岩波書店
1939(昭和14)年4月17日第1刷発行
1960(昭和35)年1月25日第14刷改版発行
1981(昭和56)年4月10日第34刷発行
入力:紅 邪鬼
校正:LUNA CAT
2000年8月21日公開
2006年5月19日修正
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