『…………』
西村敬吉はひどくドギマギとして、彼の前に立った様子のいい陽気な客の顔を眺め返した。西村敬吉はつい一週間程前にこの××ビルディングの四階に開業したばかりの若い弁護士である。そして彼の前に立った様子のいい陽気な客は彼の開業以来最初の依頼人であった。
室内には明るく秋の陽ざしが流れていて、一千九百――年の九月末の或る美しく晴れた日の午後の話である。
『僕は活動役者の清水茂です。』と、客は正にそんな風な職業らしい愛想のいい微笑や言葉つきで挨拶した。『あんまり有名な方じゃありませんから多分御存知ないでしょうけれど――イヤ、でも僕は坊城君とは非常に親密な間柄なんだから、清水って名前位は坊城君からお聞き及びになっていらっしゃるかも知れませんねえ。今日こうして伺ったのも、じつは坊城君にすすめられたからなのです。』
『おお、清水君でしたか。どうも何処かでお目に掛った事がある様に思われましたが、はッはッはッは。』
左様、西村は彼の古い友である△△映画協会の美術監督をしている坊城の口から幾度となく清水の話は聞かされてもいたのだが、西村自身も相当にそんな方面の趣味を持っていたので、しばしば映写幕(スクリイン)の上では清水の本物の数十倍も大きい顔に接して、よく見知っていた。しかも大ていの場合主役を演(つと)めていた清水は、決して彼自身が謙遜して言う程有名でない役者ではなかったのだから……
『坊城君が大変熱心にあなたをおすすめしてくれたものでしたから――それに僕にしたって並の依頼事件とは少し違うんだしなるべくならやっぱり気心のよく知れた方がいいと思いまして……』と言って清水はふと暗い眼つきをした。
『オヤオヤ、では離婚訴訟じゃァなかったのですね。僕ァまたてっきりそうだと思ったんですが…』
『恐れ入ります。尤もあまり違わないかも知れません。どっち道、縁切り話には相違ないのですから――しかし、同じ縁切りでも、いや縁切られですよ――こいつァ、つまりこの世との縁切られ話なのです。はッはッはッ。』
『はッはッはッ――』西村も清水も共に陽気な笑声を立てた。
『閻魔の庁で公事を起こそうってわけですね。』
『いいえ。けれども、冗談ではないのです。西村さん! 僕は遺言状を作成して頂きたいのです。』清水の声音は本当に真面目であった。
そうして再びその眼にはふい[#「ふい」に傍点]と暗い影がさした。
『え? 何だって! 清水君! 遺言状だって? ――これァまた途方もない。君は何か、そんな危険な活劇物でも撮ろうって云うのですか――だが、それにしてもちっと可笑しいじゃありませんか。』
『西村さん。愕かないでください。本当を言うと僕は――』と清水は一流の名優らしく、突き出した両手を蟹の様にひらいて、それをはげしく慄わせながら、そうして双眼をまるくみはりながら云った。『本当を云うと――僕は今日死ななければ、しかも殺されなければならなかったのです。』
『はッはッはッ。君は黙劇(パントマイム)専門かと思っていたら、いや中々どうして! 素晴らしく深刻な科白(せりふ)を聞かせますねえ。』
『いいえ。本当になさらないのも御尤もですけれど、今も申し上げた通りこれは決して冗談や洒落じゃないのです。』
『本当にするもしないも――君……』
と、云いかけたが西村はこの時始めて清水の眼に宿る満更芝居でもなさ相な、ただならぬ暗いかげに気がついてハッとした。
『そう――やっぱり比処からお話しした方がいい――西村さん。あなたは坊城君から八日の日に撮影場(スタジオ)で撮影技師(カメラマン)の中根が誤って射殺されたと云う話をお聞きになりはしませんでしたか。』
『彼とはしばらく会いませんから聞く機会もなかったですが、新聞でみましたよ。何とか云った女優が、撮影中に真っ向から撃ったんですってねえ。』
『そうですよ。(嘆ける月)の撮影中でした。丁度その女優が――松島順子が、大写(クローズアップ)でカメラに向ってピストルを射つところだったです。射つ当人は勿論のこと、その場に居合せたほどの総ての人、むろん僕もおりました、誰だってそのピストルに実弾が込っていようなんて思いもかけやしませんでした。ドオン! と云う銃声ともろとも仰のけざまにぶッ倒れた時には、実にすさまじい勢で打ち倒れたのですが、私たちは鳥渡、本気にしませんでしたよ。何時の間にか、そのピストルには何人かの手に依って故意に実弾がこめられてあったのですね。誰がやったものやら未だに判りませんが、何しろ二間とははなれないで射ったのですから堪りませんや。大ていの心得のない奴だって外しっこありません。可哀相に――中根は僕の身代りに立ったのです。』
ここ迄云うと言葉は途切れた。そして到頭、一層暗くなっていたその眼からは涙がぽとぽとと流れ出したのであった。
西村はすっかりたじたじとなった。這入って来た時はひどく陽気な顔をしていたくせに、涙なんぞ滾して、柄にもなく案外感情家のこの活動役者は、すでに充分こっちを戸惑いさしておきながら、この先更に何を云い出すか解らない――
『身代りに? ――わからない。』
『左様――たしかに中根は僕の身代りに立ったのです。と云うのは、恰度その時の場面は僕の扮したある青年が順子の扮しているある若い女に嫉妬のためピストルで撃たれると云う筋なので、脚本通りに演れば無論僕は本当に撃ち殺されていたのです、所が、その時ヒョイと、しかも中根自らの思いつきで、射撃する瞬間の順子の大写を其処に挿むことになったのでした。哀れな中根は自分で引金をひいたも同然、見事に額の真中を射ぬかれてしまいました。』
『併し……ただそれだけの事で、どうして君の命をねらう曲者がある――と仰言るのでしょう? ――どうしてそんな事を云われるのです。ほんの何かの不幸な偶然から、そのピストルに実弾がこもっていたのかも知れないじゃありませんか。』
『いいえ。中根の心の中からこそ恐しい偶然は飛び出しましたけれど、ピストルには、少くともピストルだけには如何な意地の悪い偶然だってひそみ得るスキはなかったのです。その一時間程前に、僕自身がその武器の空弾の装填をしたのですからね。今はともかく、その時分はたしかに僕は未だ自殺したいなんて不仕合せな考を起してやしませんでしたよ。が、そんな事よりも一層たしかな証拠は、その前夜かかって来た電話なのです――』
『ほう! 電話?! ……フム。』と西村は少からずつりこまれたかたちで、ぐいと椅子を乗り出して、相手の眼の中をのぞき込んだ。
『聞き覚えのない様なある様な、ですからよし聞いた事があったとしても余程古い昔に違いないのです。男の声で、「清水君。清水君! 君は明日スペエドのジャックをひきますよ」と云うのです。けれどもその時は、それが果して如何な意味であるか、僕にはまるでわからなかったのです。が、誰かの――たとえば、よくある活動好きの少年の悪戯位に考えて別に気にも止めませんでした。それが中根の死の何かの係り合いを持つ不吉な電話であろうとは、つい昨夜まで気がつかなかったのです。』
『なる程――ところが、それと全く同じ様な電話が昨夜再び君のもとへ掛って来たと云うのですね。それで君は、俄に恐しく神経を悩ましはじめたのだ――』
西村はシャアロック・ホルムズの様な口調でこう云うと、少し勿体ぶった手つきでスリーカッスルをつめたマドロスパイプを脂(やに)さがりに斜めに銜えた。
『御推察の通りです。如何にも昨夜、七日の晩と少しも違わない電話が、矢張り同じ声で掛って来たのです。オヤ?! と思った途端、まざまざと僕の頭に浮んだのは、不幸な中根の死骸でした。スペエドのジャック! スペエドのジャック! 西村さん! それは舟乗(マドロス)仲間で使われる死骸って云う言葉であったのじゃありませんか。ヒョイと、忘れかけていた僕の過去の生活の暗い記憶が思い出させてくれたのです。今度こそは駄目だ! 僕はもうすっかり諦めてしまいましたよ。こいつァ、今更どう悪あがきしたところで始まらない――それで僕は、もとより極く少額ではあるが、たった一人身の僕が有(も)っている財産――て程のものじゃない、身のまわりの物全部を、アメリカに行っている弟へ遺して行く手続でもしようと思って、こうやってあなたの所にあがった次第なのです。ははははは。』
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