夕闇の部屋の中へ流れ込むのさへはつきりと見えてゐた霧はいつとなく消えて行つて、たうとう雨は本降りとなつた。あまりの音のすさまじさに縁側に出て見ると、庭さきから直ぐ立ち竝んだ深い杉の木立の中へさん/\と降り注ぐ雨脚は一帶にただ見渡されて、木立から木立の梢にかけて濛々と水煙が立ち靡いてゐる。
其處へ寺男の爺さんが洋燈に火を點けて持つて來た。ひどい降りだ、斯んな日は火でも澤山おこさないと座敷がさざるを得なかつた。
爺さんはやがて膳を運んで來た。見れば私の分だけである。
爺さんの喜び樣は
難有い/\と言ひ續けながら、やがてはどうせ私も
今夜死んでもいいなどといふのを聞いてから、急に斯う飮ませていいか知らと私も氣になり出したのであつたが、いつの間にか二本の壜を空にしてしまつた。私だけは輕く茶漬を掻き込んだが、爺さんはたうとう飯をよう食はず、膳も何も其儘にしておいて何か鼻唄をうたひながら自分の部屋に寢に行つた。私も獨りで部屋の隅に床を延べて横になつたが妙に眼が冴えて眠られず、まじ/\としてゐるとまた耳につくのは雨の音である。まだ盛んに降つてゐる。のみならず、妙な音が部屋の中でする樣なので細めた灯をかきあげてみると果して隅の一本の柱がべつとりと濡れて、そのあたりにぽとぽとと雨が漏つてゐるのである。枕許まで來ねばよいがと、氣を揉みながらいつか其儘に眠つてしまつた。
眼が覺めて見ると雨戸の隙間が明るくなつてゐる。雨は、と思ふと何の音もせぬ。もう爺さんも起きた頃だと勝手元の方に耳を澄ませても何の音もせぬ。まさか何事もあつたのではあるまいと流石に胸をときめかせながら寢たまゝ煙草に火をつけてゐると、朗かに啼く鳥の聲が耳に入つて來た。
何といふその鳥の多さだらう。あれかこれかと心あたりの鳥の名を思ひ出してゐても、とても數へ切れぬほどの種々の音色が枕の上に落ちて來る。私は耐へ難くなつて飛び起きた。そして雨戸を引きあけた。
照るともなく、曇るともなく、
餘りに靜かな眺めなので私はわれを忘れてぼんやりと其處らを見してゐたが、また一つのものを見出した。丁度溪間の樣になつて眼前から直ぐ落ち込んで行つてゐる窪地一帶には僅かの間杉木立が途斷えて細長い雜木林となつてゐるが、その藪の中をのそり/\と半身を屈めながら何か探してゐる人がゐるのである。頭を丸々と剃つた大男の、紛ふ方なき寺男の爺さんである。それを見ると妙に私は嬉しくなつて大聲に呼びかけたが、案の定、彼は振向かうともしなかつた。
後、庭に降りて筧の前で顏を洗つて居ると爺さんは青々とした野生の
この××院といふのは比叡の山中に殘つてゐる十六七の古寺のうち、最も奧に在つて、また最も廢れた寺であつた。住持もあるにはあるが、麓の寺とかけ持ちで、何か事のある時のほか滅多には登つて來ず、年中殆んどこの寺男の爺さんが一人で留守居をして居るのである。四方唯だ杉の林があるのみで、しかも溪間の行きどまりになつた所に在るために根本中堂だの淨土院だの釋迦堂だの、または四明嶽、元黒谷などへ往來する參詣人たちも殆んど立ち寄る事なく、まる一週間滯在してゐる間、私はこの金聾の爺さんのほか、人間の顏といふものを餘り見る事なくして過してしまつた。
多いのは唯だ鳥の聲である。この大正十年が當山開祖傳教大師の一千一百年忌に當るといふ舊い山、そして五里四方に亙ると稱へらるる廣い森林、その到る所が殆んど鳥の聲で滿ちてゐる。
山寺(やまでら)
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