十月廿一日
朝、縁に腰かけて草鞋を穿いてゐても誰一人聲をかける者もなかつた。帳場から見て見ぬ振である。もつとも私も一錢をも置かなかつた。旅といへば樂しいもの難有いものと思ひ込んでゐる私は出來るだけその心を深く味はひたいために不自由の中から大抵の處では多少の心づけを帳場なり召使たちなりに渡さずに出た事はないのだが、斯うまでも挑戰状態で出て來られると、さういふ事をしてゐる心の餘裕がなかつたのである。
面白いのは犬であつた。草鞋を穿いてゐるツイ側に三疋の仔犬を連れた大きな犬が遊んでゐた。そしてその仔犬たちは私の手許にとんで來てじやれついた。頭を撫でてやつてゐると親犬までやつて來て私の額や頬に身體をすりつける。やがて立ち上つて門さきを出離れ、何の氣なくうしろを振返ると、その大きな犬が私のうしろについて歩いてゐる。仔犬も門の處まで出ては來たがそれからはよう來ぬらしく、尾を振りながらぴつたり三疋引き添うてこちらを見て立つてゐる。
「犬は犬好きの人を知つてるといふが、ほんたうですね。」
と、幾度追つても私の側を離れない犬を見ながらK―君が言つた。
「とんだ見送がついた、この方がよつぽど正直かも知れない。」
私も笑ひながら犬を撫でて、
「少し旅を貪り過ぎた形があるネ、無理をして此處まで來ないで澤渡にあのまゝ泊つておけば昨夜の不愉快は知らずに過ごせたものを……。」
「それにしても昨夜はひどかつたですネ、あんな目に私初めて遭ひました。」
「さうかネ、僕なんか玄關拂を喰つた事もあるにはあるが……、然しあれは丁度いま此の土地の氣風を表はしてゐるのかも知れない。ソレ上州には伊香保があり草津があるでせう、それに近頃よく
「さう云へば彼處の湯に入つてる客たちだつてそんな奴ばかりでしたよ、長距離電話の利く處に行つていたんぢやア入湯の氣持はせぬ、朝晩は何だ彼だとかゝつて來てうるさくて仕樣がない、なんて。」
「とにかく幻滅だつた、僕は四萬と聞くとずつと溪間の、靜かなおちついた處とばかり思つてゐたんだが……ソレ僕の友人のS―ネ、あれがこの吾妻郡の生れなんだ、だから彼からもよくその樣に聞いてゐたし……、惜しい事をした。」
路には霜が深かつた。峰から辷つた朝日の光が溪間の紅葉に映つて、次第にまた濁りのない旅心地になつて來た。そして石を投げて辛うじて犬をば追ひ返した。不思議さうに立つて見てゐたが、やがて尾を垂れて歸つて行つた。
十一時前中之條着、折よく電車の出る處だつたので直ぐ乘車、日に輝いた吾妻川に沿うて走る。この川は數日前に
看板に出てゐた川魚は何も無かつた。鷄をとり、うどんをとつて別杯を擧げた。輕井澤での不圖した言葉がもとになつて思ひも寄らぬ處を
澁川から沼田まで、不思議な形をした電車が利根川に沿うて走るのである。その電車が二度ほども長い停電をしたりして、沼田町に着いたのは七時半であつた。指さきなど、痛むまでに寒かつた。電車から降りると直ぐ郵便局に行き、留め置になつてゐた郵便物を受取つた。局の事務員が顏を出して、今夜何處へ泊るかと訊く。變に思ひながら澁川で聞いて來た宿屋の名を思ひ出して、その旨を答へると、さうですかと小さな窓を閉めた。
宿屋の名は鳴瀧と云つた。風呂から出て一二杯飮みかけてゐると、來客だといふ。郵便局の人かと訊くと、さうではないといふ。不思議に思ひながらも餘りに疲れてゐたので、明朝來て呉れと斷つた。實際K―君と別れてから急に私は烈しい疲勞を覺えてゐたのだ。然し矢張り氣が濟まぬので自分で玄關まで出て呼び留めて部屋に招じた。四人連の青年たちであつた。矢張り郵便局からの通知で、私の此處にゐるのを知つたのださうだ。そして、
「いま自轉車を走らせましたから迫つ附けU―君も此處へ見えます。」
といふ。
「アヽ、さうですか。」
と答へながら、矢つ張り呼び留めてよかつたと思つた。U―君もまた創作社の社友の一人であるのだ。この群馬縣利根郡からその結社に入つてゐる人が三人ある事を出立の時に調べて、それぞれの村をも地圖で見て來たのであつた。そして都合好くばそれ/″\に逢つて行きたいものと思つてゐたのだ。
「それは難有う。然しU―君の村は此處から遠いでせう。」
「なアに、一里位ゐのものです。」
一里の夜道は大變だと思つた。
やがてそのU―君が村の俳人B―君を伴れてやつて來た。もう少しませた人だとその歌から想像してゐたのに反してまだ紅顏の青年であつた。
歌の話、俳句の話、土地の話が十一時過ぎまで續いた。そしてそれ/″\に歸つて行つた。村までは大變だらうからと留めたけれど、U―君たちも元氣よく歸つて行つた。
十月廿二日
今日もよく晴れてゐた。嬬戀以來實によく晴れて呉れるのだ。四時から強ひて眼を覺まして床の中で幾通かの手紙の返事を書き、五時起床、六時過ぎに飯をたべてゐると、U―君がにこ/\しながら入つて來た。
私は河の
矢張りそんなところから大正七年の秋に、ひとつ利根川のみなかみを尋ねて見ようとこの
藤原郷の方から來たのに清水越の山から流れ出して來た一支流が湯檜曾のはづれで落ち合つて利根川の溪流となり沼田の少し手前で赤谷川を入れ、やゝ下つた處で
讀者よ、試みに參謀本部五萬分の一の地圖「四萬」の部を開いて見給へ。眞黒に見えるまでに山の線の引き重ねられた中に唯だ一つ他の部落とは遠くかけ離れて温泉の符號の記入せられてゐるのを、少なからぬ困難の末に發見するであらう。それが即ち法師温泉なのだ。更にまた讀者よ、その少し手前、沼田の方角に近い處に視線を落して來るならば其處に「猿ヶ京村」といふ不思議な名の部落のあるのを見るであらう。私は初め參謀本部のものに據らず他の府縣別の簡單なものを開いて見てこの猿ヶ京村を見出し、サテも斯んな處に村があり、斯んな處にも歌を詠まうと志してゐる人がゐるのかと、少なからず驚嘆したのであつた。先に利根郡に我等の社中の同志が三人ある旨を言つた。その三人の一人は今日一緒に歩かうといふU―君で、他の二人は實にこの猿ヶ京村の人たちであるのである。
月夜野橋に到る間に私は土地の義民
舊沼田領の人々はそれを聞いていよ/\悲しみ、刑場蹟に地藏尊を建立して僅かに謝恩の心を致した。ことにその郷里の人は更に月夜野村に一佛堂を築いて千日の供養をし、これを千日堂と稱へたが、千日はおろか、今日に到るまで一日として供養を怠らなかつた。が、次第にその御堂も荒頽して來たので、この大正六年から改築に着手し、十年十二月竣工、右の地藏尊を本尊として其處に安置する事になつた。
斯うした話をU―君から聞きながら私は彼の佐倉宗吾の事を思ひ出してゐた。事情が全く同じだからである。而して一は大いに表はれ、一は土地の人以外に殆んど知る所がない。さう思ひながらこの勇敢な、氣の毒な義民のためにひどく心を動かされた。そしてU―君にそのお堂へ參詣したい旨を告げた。
月夜野橋を渡ると直ぐ取つ着きの岡の上に御堂はあつた。田舍にある堂宇としては實に立派な壯大なものであつた。そしてその前まで登つて行つて驚いた。寧ろ凄いほどの香煙が捧げられてあつたからである。そして附近には唯だ雀が遊んでゐるばかりで人の影とてもない。百姓たちが朝の仕事に就く前に一人々々此處にこの香を捧げて行つたものなのである。一日として斯うない事はないのださうだ。立ち昇る香煙のなかに佇みながら私は茂左衞門を思ひ、茂左衞門に對する百姓たちの心を思ひ瞼の熱くなるのを感じた。
堂のうしろの落葉を敷いて暫く休んだ。傍らに同じく腰をおろしてゐた年若い友は
「ソレ、あそこに日の當つてゐる村がありませう。あの村の中ほどにやゝ大きな藁葺の屋根が見えませう、あれが高橋お傳の生れた家です。」
これはまた意外であつた。聞けば同君の祖母はお傳の遊び友達であつたといふ。
「今日これから行く途中に鹽原太助の生れた家も、墓もありますよ。」
と、なほ笑ひながら彼は附け加へた。
月夜野村は村とは云へ、古めかしい宿場の形をなしてゐた。昔は此處が
この邊、赤谷川の眺めは非常によかつた。十間から二三十間に及ぶ高さの岸が、楯を並べた樣に並び立つた上に、かなり老木の赤松がずらりと林をなして茂つてゐるのである。三町、五町、十町とその眺めは續いた。松の下草には雜木の紅葉が油繪具をこぼした樣に散らばり、大きく露出した岩の根には微かな青みを宿した清水が瀬をなし淵を作つて流れてゐるのである。
登るともない登りを七時間ばかり登り續けた頃、我等は氣にしてゐた猿ヶ京村の入口にかゝつた。其處も南に谷を控へた坂なりの道ばたにちらほらと家が續いてゐた。中に一軒、古びた煤けた屋根の修繕をしてゐる家があつた。丁度小休みの時間らしく、二三の人が腰をおろして煙草を喫つてゐた。
「ア、さうですか、それは……。」
私の尋ねに應じて一人がわざ/\立上つて煙管で方角を指しながら、道から折れた山の根がたの方に我等の尋ぬるM―君の家の在る事を教へて呉れた。街道から曲り、細い坂を少し登つてゆくと、傾斜を帶びた山畑が其處に開けてゐた。四五町も畦道を登つたけれども、それらしい家が見當らない。桑や粟の畑が日に乾いてゐるばかりである。幸ひ畑中に一人の百姓が働いてゐた。其處へ歩み寄つてやゝ遠くから聲をかけた。
「ア、M―さんの家ですか。」
百姓は自分から頬かむりをとつて、私たちの方へ歩いて來た。そして、畑に挾まれた一つの澤を越し、渡りあがつた向うの山蔭の杉木立の中に在る旨を教へて呉れた。それも道を傳つて行つたのでは廻りになる故、其處の畑の中を通りぬけて……とゆびざししながら教へようとして、
「アツ、其處に來ますよ、M―さんが。」
と、叫んだ。囚人などの冠る樣な編笠をかぶり、辛うじて尻を被ふほどの短い袖無半纏を着、股引を穿いた、老人とも若者ともつかぬ男が其處の澤から登つて來た。そして我等が彼を見詰めて立つてゐるのを不思議さうに見やりながら近づいて來た。
「君はM―君ですか。」
斯う私が呼びかけると、ぢつと私の顏を見詰めたが、やがて合點が行つたらしく、ハツとした風で其處に立ち留つた。そして笠をとつてお辭儀をした。斯うして向き合つて見ると、彼もまだ三十前の青年であつたのである。
私が上州利根郡の方に行く事をば我等の間で出してゐる雜誌で彼も見てゐた筈である。然し、斯うして彼の郷里まで入り込んで來ようとは思ひがけなかつたらしい。驚いたあまりか、彼は其處に突立つたまゝ殆んど言葉を出さなかつた。路を教へて呉れた百姓も頬かむりの手拭を握つたまゝ、ぼんやり其處に立つてゐるのである。私は昨夜沼田に着いた事、一緒にゐるのが沼田在の同志U―君である事、これから法師温泉まで行かうとしてゐる事、一寸でも逢つてゆきたくて立ち寄つた事などを説明した。
「どうぞ、私の家へお出で下さい。」
と漸く色々の意味が飮み込めたらしく彼は安心した風に我等を誘つた。なるほど、ツイ手近に來てゐながら見出せないのも道理なほどの山の蔭に彼の家はあつた。一軒家か、乃至は、其處らに一二軒の隣家を持つか、兎に角に深い杉の木立が
お茶や松茸の味噌漬が出た。私は圍爐裡に近く腰をかけながら、
「君は何處で歌を作るのです、此處ですか。」
と、赤々と火の燃えさかる爐端を指した。土間にも、座敷にも、農具が散らかつてゐるのみで書籍も机らしいものも其處らに見えなかつた。
「さア……。」
羞しさうに彼は口籠つたが、
「何處といふ事もありません、山でゝも野良でゝも作ります。」
と、僅かに答へた。私が彼の歌を見始めてから五六年はたつであらう。幼い文字、幼い詠みかた、それらがM―といふ名前と共にすぐ私の頭に思ひ浮べらるゝほど、特色のある歌を彼は作つてゐるのであつた。
收穫時の忙しさを思ひながらも同行を勸めて見た。暫く默つて考へてゐたが、やがて母に耳打して奧へ入ると着物を着換へて出て來た。三人連になつて我等はその杉木立の家を立ち出でた。恐らく二度とは訪ねられないであらうその杉叢が、そゞろに私には振返へられた。時計は午後三時をすぎてゐた。法師までなほ三里、よほどこれから急がねばならぬ。
猿ヶ京村でのいま一人の同志H―君の事をM―君から聞いた。土地の郵便局の息子で、今折惡しく仙臺の方へ行つてゐる事などを。やがてその郵便局の前に來たので私は一寸立寄つてその父親に言葉をかけた。その人はゐないでも、矢張り默つて通られぬ思ひがしたのであつた。
石や岩のあらはに出てゐる村なかの路には煙草の葉がをりをり落ちてゐた。見れば路に沿うた家の壁には悉くこれが掛け乾されてゐるのであつた。此の頃漸く切り取つたらしく、まだ生々しいものであつた。
がらんどうな大きな二階の一室に通され、先づ何よりもと湯殿へ急いだ。そしてその廣いのと湯の豐かなのとに驚いた。十疊敷よりもつと廣からうと思はるゝ湯槽が二つ、それに滿々と湯が湛へてゐるのである。そして、下には頭大の石ころが敷いてあつた。乏しい灯影の下にづぶりつと浸りながら、三人は唯だてんでに微笑を含んだまゝ、殆んどだんまりの儘の永い時間を過した。のび/\と手足を伸ばすもあり、蛙の樣に浮んで泳ぎの形を爲すものもあつた。
部屋に歸ると炭火が山の樣におこしてあつた。なるほど山の夜の寒さは湯あがりの後の身體に浸みて來た。何しろ今夜は飮みませうと、豐かに酒をば取り寄せた。罐詰をも一つ二つと切らせた。U―君は十九か廿歳、M―君は廿六七、その二人のがつしりとした山國人の體格を見、明るい顏を見てゐると私は何かしら嬉しくて、飮めよ喰べよと無理にも強ひずにはゐられぬ氣持になつてゐたのである。
其處へ一升壜を提げた、見知らぬ若者がまた二人入つて來た。一人はK―君といふ人で、今日我等の通つて來た鹽原太助の生れたといふ村の人であつた。一人は沼田の人で、阿米利加に五年行つてゐたといふ畫家であつた。畫家を訪ねて沼田へ行つてゐたK―君は、其處の本屋で私が今日この法師へ登つたといふ事を聞き、畫家を誘つて、あとを追つて來たのださうだ。そして懷中から私の最近に著した歌集『くろ土』を取り出してその口繪の肖像と私とを見比べながら、
「矢張り本物に違ひはありませんねヱ。」
と言つて驚くほど大きな聲で笑つた。
みなかみ紀行(みなかみきこう)
作家录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语
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