十月十九日
降れば馬を雇つて
六里ヶ原と呼ばれてゐる淺間火山の大きな裾野に相對して、白根火山の裾野が南面して起つて居る。これは六里ヶ原ほど廣くないだけに傾斜はそれより急である。その嶮しく起つて來た高原の中腹の一寸した窪みに草津温泉はあるのである。で、宿から出ると直ぐ坂道にかゝり、五六丁もとろ/\と登つた所が白根火山の裾野の引く傾斜の一點に當るのである。其處の眺めは誠に大きい。
正面に淺間山が方六里に渡るといふ裾野を前にその全體を露はして聳えてゐる。聳ゆるといふよりいかにもおつとりと双方に大きな尾を引いて靜かに鎭座してゐるのである。朝あがりのさやかな空を背景に、その頂上からは純白な煙が微かに立つてやがて湯氣の樣に消えてゐる。空といひ煙といひ、山といひ野原といひ、すべてが濡れた樣に靜かで鮮かであつた。濕つた
とり/″\に紅葉した雜木林の山を一里半ほども降つて來ると急に嶮しい坂に出會つた。見下す坂下には大きな谷が流れ、その對岸に同じ樣に切り立つた崖の中ほどには家の數十戸か二十戸か一握りにしたほどの村が見えてゐた。
おもはぬに村ありて名のやさしかる
學校にもの讀める聲のなつかしさ身にしみとほる山里過ぎて
流石に廣かつた林も次第に淺く、やがて、立枯の木の白々と立つ廣やかな野が見えて來た。林から野原へ移らうとする處であつた。我等は双方からおほどかになだれて來た山あひに流るゝ小さな溪端を歩いてゐた。そして溪の上にさし出でて、眼覺むるばかりに紅葉した楓の木を見出した。
我等は今朝草津を立つときからずつと續いて紅葉のなかをくゞつて來たのである。楓を初め山の雜木は悉く紅葉してゐた。恰も昨日今日がその眞盛りであるらしく見受けられた。けれどいま眼の前に見出でて立ち留つて思はずも聲を擧げて眺めた紅葉の色はまた別であつた。楓とは思はれぬ大きな古株から六七本に分れた幹が一齊に溪に傾いて伸びてゐる。その幹とてもすべて一抱への大きさで丈も高い。漸く今日あたりから一葉二葉と散りそめたといふ樣に風も無いのに散つてゐる靜かな輝かしい姿は、自づから呼吸を引いて眺め入らずにはゐられぬものであつた。二人は路から降り、そのさし出でた木の眞下の川原に坐つて晝飯をたべた。手を洗ひ顏を洗ひ、つぎつぎに織りついだ樣に小さな瀬をなして流れてゐる水を掬んでゆつくりと喰べながら、日の光を含んで滴る樣に輝いてゐる眞上の紅葉を仰ぎ、また
露霜のとくるがごとく天つ日の光をふくみにほふもみぢ葉
溪川の眞白川原にわれ等ゐてうちたたへたり山の紅葉を
もみぢ葉のいま照り匂ふ秋山の澄みぬるすがた寂しとぞ見し
帽子に肩にしつとりと匂つてゐる日の光をうら寂しく感じながら野原の中の一本路を歩いてゐると、をり/\鋭い鳥の啼聲を聞いた。久し振りに聞く聲だとは思ひながら定かに思ひあたらずにゐると、やがて木から木へとび移るその姿を見た。啄木鳥である。一羽や二羽でなく、廣い野原のあちこちで啼いてゐる。更にまたそれよりも澄んで暢びやかな聲を聞いた。高々と空に
楢の木ぞ何にもならぬ
木々の根の皮剥ぎとりて木々をみな枯木とはしつ枯野とはしつ
伸びかねし枯野が原の落葉松は枯芒よりいぶせくぞ見ゆ
下草のすすきほうけて光りたる枯木が原の
枯るる木にわく蟲けらをついばむと啄木鳥は啼く此處の林に
立枯の木々しらじらと立つところたまたまにして啄木鳥の飛ぶ
啄木鳥の聲のさびしさ飛び立つとはしなく啼ける聲のさびしさ
紅ゐの胸毛を見せてうちつけに啼く啄木鳥の聲のさびしさ
白木なす枯木が原のうへにまふ鷹ひとつ居りて啄木鳥は啼く
ましぐらにまひくだり來てものを追ふ鷹あらはなり枯木が原に
耳につく啄木鳥の聲あはれなり啼けるをとほく
枯芒を押し分けてこの古ぼけた道標の消えかゝつた文字を辛うじて讀んでしまふと、私の頭にふらりと一つの追憶が來て浮んだ。そして思はず私は獨りごちた、「ほゝオ、斯んな處から行くのか、花敷温泉には」と。
私は
「K―君、どうだ、これから一つあつちの路を行つて見ようぢやアないか。そして今夜その花敷温泉といふのへ泊つて見よう。」
不思議な顏をして立ち留つた彼に、私は立ちながらいま頭に影の如くに來て浮んだといふ花敷温泉に就いての思ひ出を語つた。三四年も前である。今度とは反對に
「どうだね、君行つて見ようよ、二度とこの道を通りもすまいし、……その不思議な温泉をも見ずにしまふ事になるぢやアないか。」
その話に私と同じく心を動かしたらしい彼は、一も二もなく私のこの提議に應じた。そして少し後戻つて、再びよく道標の文字を調べながら文字のさし示す方角へ曲つて行つた。
今までよりは嶮しい野路の登りとなつてゐた。立枯の楢がつゞき、をり/\栗の木も混つて毬と共に笑みわれたその實を根がたに落してゐた。
音さやぐ落葉が下に散りてをるこの栗の實の色のよろしさ
柴栗の柴の枯葉のなかばだに
おのづから干て
この枯野
かりそめにひとつ拾ひつ二つ三つ拾ひやめられぬ栗にしありけり
ひたひたと土踏み鳴らし眞裸足に先生は教ふその體操を
先生の頭の禿もたふとけれ此處に死なむと教ふるならめ
崖を降り橋を渡り一軒の湯宿に入つて先づ湯を訊くと、庭さきを流れてゐる溪流の川下の方を指ざしながら、川向うの山の蔭に在るといふ。不思議に思ひながら借下駄を提げて一二丁ほど行つて見ると、其處には今まで我等の見下して來た谷とはまた異つた一つの谷が、折り疊んだ樣な岩山の裂け目から流れ出して來てゐるのであつた。ひた/\と瀬につきさうな危い板橋を渡つてみると、なるほど其處の切りそいだ樣な崖の根に湯が湛へてゐた。相竝んで二個所に湧いてゐる。一つには茅葺の屋根があり、一方には何も無い。
相顧みて苦笑しながら二人は屋根のない方へ寄つて手を浸してみると恰好な温度である。もう日も

「何だか溪まで温かさうに見えますね。」と年若い友は言ひながら手をさし延ばしたが、慌てゝ引つ込めて「氷の樣だ。」と言つて笑つた。
溪向うもそゝり立つた岩の崖、うしろを仰げば更に膽も冷ゆべき斷崖がのしかゝつてゐる。崖から眞横にいろ/\な灌木が枝を張つて生ひ出で、大方散りつくした紅葉がなほ僅かにその小枝に名殘をとゞめてゐる。それが一ひら二ひらと絶え間まなく我等の上に散つて來る。見れば其處に一二羽の樫鳥が遊んでゐるのであつた。
折からや風吹きたちてはらはらと紅葉は散り
樫鳥が踏みこぼす紅葉くれなゐに透きてぞ散り來わが見てあれば
二羽とのみ思ひしものを三羽四羽樫鳥ゐたりその紅葉の木に
十月二十日
未明に起き、洋燈の下で朝食をとり、まだ足もとのうす暗いうちに其處を立ち出でた。驚いたのはその、足もとに斑らに雪の落ちてゐることであつた。慌てゝ
起き出でて見るあかつきの裏山の紅葉の山に雪降りにけり
朝だちの足もと暗しせまりあふ
上野と越後の國のさかひなる峰の高きに雪降りにけり
はだらかに雪の見ゆるは
檜の森の黒木の山にうすらかに降りぬる雪は寒げにし見ゆ
昨日の通りに路を急いでやがてひろ/″\とした枯芒の原、立枯の楢の打續いた暮坂峠の大きな澤に出た。峠を越えて約三里、正午近く澤渡温泉に着き、正榮館といふのゝ三階に上つた。此處は珍しくも双方に窪地を持つた樣な、小高い峠に湯が湧いてゐるのであつた。無色無臭、温泉もよく、いゝ湯であつた。此處に此の儘泊らうか、もう三四里を歩いて
私は此處で順序として四萬温泉の事を書かねばならぬ事を不快におもふ。いかにも不快な印象を其處の温泉宿から受けたからである。我等の入つて行つたのは、といふより馬車から降りるとすぐ其處に立つてゐた二人の男に誘はれて行つたのは田村旅館といふのであつた。馬車から降りた道を眞直ぐに入つてゆく宏大な構への家であつた。
とろ/\と登つてやがてその庭らしい處へ着くと一人の宿屋の男は訊いた。
「ヱヽ、どの位ゐの御滯在の御豫定でいらつしやいますか。」
「いゝや、一泊だ、初めてゞ、見物に來たのだ。」
と答へると彼等はにたりと笑つて顏を見合せた。そしてその男はいま一人の男に馬車から降りた時強ひて私の手から受取つて來た小荷物を押しつけながら早口に言つた。
「一泊だとよ、何の何番に御案内しな。」
さう言ひ捨てゝおいて今一組の商人態の二人連に同じ樣な事を訊き、滯在と聞くや小腰をかゞめて向つて左手の溪に面した方の新しい建築へ連れて行つた。
我等と共に殘された一人の男はまざ/\と當惑と苦笑とを顏に表して立つてゐたが、
「ではこちらへ。」
と我等をその反對の見るからに古びた一棟の方へ導かうとした。私は呼び留めた。
「イヤ僕等は見物に來たので、出來るならいゝ座敷に通して貰ひ度い、たゞ一晩の事だから。」
「へ、承知しました、どうぞこちらへ。」
案のごとくにひどい部屋であつた。小學校の修學旅行の泊りさうな、幾間か打ち續いた一室でしかも間の唐紙なども滿足には締つてゐない部屋であつた。疊、火鉢、座蒲團、すべてこれに相應したものゝみであつた。
私は諦めてその火鉢の側に腰をおろしたが、K―君はまだ洋傘を持つたまゝ立つてゐた。
「先生、移りませう、馬車を降りたツイ横にいゝ宿屋があつた樣です。」
人一倍無口で穩かなこの青年が、明かに怒りを聲に表はして言ひ出した。
私もそれを思はないではなかつたが、移つて行つてまたこれと同じい待遇を受けたならそれこそ更に不快に相違ない。
「止さうよ、これが土地の風かも知れないから。」
となだめて、急いで彼を湯に誘つた。
この分では私には夕餉の膳の上が氣遣はれた。で、定つた物のほかに二品ほど附ける樣にと註文し、酒の事で氣を揉むのを慮つて豫じめ二三本の徳利を取り寄せ自分で燗をすることにしておいた。
やがて十五六歳の小僧が岡持で二品づつの料理を持つて來た。受取つて箸をつけてゐると小僧は其處につき坐つたまゝ、
「代金を戴きます。」
といふ。
「代金?」
と私は
「宿料かい?」
「いゝえ、そのお料理だけです。よそから持つて來たのですから。」
思はず私はK―君の顏を見て噴き出した。
「オヤ/\君、これは一泊者のせゐのみではなかつたのだよ、懷中を踏まれたよ」