一尾を釣り得て彼は少なからず
その翌年の夏、自分がまた村に歸つた時には初太郎は死んでゐた。或日わざ/\前年彼を見た
不幸は靜かな湖面に石を投げたやうなものであらう、一點から起つて次第に四邊に同じ波紋を
その翌春、自分は中學を卒業すると同時にひそかに郷國を逃げ出して東京へ出て、或る私立學校の文學科に入つて了つた。卒業前、父はわざ/\村から自分を中學の寄宿舍まで訪ねて來て、いつもに似ず悄然と、何卒この場合精紳を堅固にして迷はぬやうに心がけて呉れと寧ろ哀訴するやうに自分に注意した。迷はぬやうにとは、父はかねて自分を直實な醫者にするつもりであり、自分は文學をやると言ひ張つて、久しく言ひ合つてゐたのであつたが、
三年目に自分は重い病氣にかゝり父母から招かれて國へ歸つた。二階のお寺のやうな廣い冷たい座敷に寢て居ると、溪を越して小高く圓い丘に眞青に麻の茂つて居るのが見える。其丘は二三年前まで松や檜の鬱蒼と茂つてゐた所である。その森は父より三代目以前の人とかゞ植ゑ始めたものだと傳へられてゐた。森をめぐつて深い溪がある。丁度我家から見れば淵は青く瀬は白く、ずうつと森を取卷いてゐるやうに見えて、その邊一帶が大きな自然のまゝの庭園ともなつて居るし、朝夕斯う見馴れては他の處と違つてどうしても手離しがたい、こればかりはどうとかして賣らずに置きませうと家中皆が話し合つて居たその森もとうとう斯んな青い畑になつて了つた。よく見れば麻畑の隅の方に粟らしいものが作つてある。もうよく實つてゐると見えて、うす黄に色づいたその畑中に男が一人女が二人、眞晝の日光を浴びてせつせとそれを刈つて居る。唄もうたはず、鎌のみが時々ぴか/\と光る。
或日のこと、母が幼い子供を抱いて笑ひながら二階に上つて來た。不思議に思つて見て居ると、母は自分の枕もとに坐つて、その子を自分の方に押し向けて、なほ笑つて居る。田舍者の産んだらしくもない可愛らしい男の子だ。
『何處の子です?』
と訊くと、
『それ、あの初さんのだよ。』
といふ。自分は驚いた。いつの間に初太郎は斯んなのを
自分の病氣は二ヶ月あまりで辛くも快くなつた。それを待つて暇を告げて自分は郷里を去つた。いよ/\明日出立するといふ前の晩、兩人の親と一人の子とは、臺所に近い小座敷で向き合つて他人入らずの酒を酌んだ。そのころ、山の深い所だけにこゝらの天地には既う秋が立つてゐた。言葉數も少なく、杯も一向に
『お前、一體そのお前の學校を卒業すると何になれるのだとか云つたな?』
暫く何か考へてゐて彼は斯う問ひかけた。
『左樣ですね、まア新聞記者とか中學校の教師とかでせう。』
『すると何かい、月給でいふとどの位ゐ貰へるのかい?』
自分は窮した。まさかD氏が何新聞で二十二圓、S氏が何中學で二十五圓貰つて居ると、自分の先輩の先例を引くわけにも行かなかつた。自分の默つて居るのをじろ/\と見てゐて、
『せめて五十圓も取れるのかい?』
『え、まア確かにとは言へませんがね……それに何です、私はそんな者にならうとは思つてゐませんのですから……』
『そんな者つて……では一體何になるのや?』
『文學……純文學を目下研究してゐますので……』
とは言ひかけたが、是にも
母も常に不安の眼をおど/\させて自分等の話を聽いてゐたが、自分がいよ/\答へに困つて來るのを見ると、
『とにかく何かになつて呉れるのだらうね、お前のことだからまさかのこともあるまいと思つて、まア安心はして待つてゐるよ。
母の愚痴は長かつた。常には大の愚痴嫌ひの父もその夜はたゞ母の言ふがまゝに任せた。その間自分はつとめて他のことを心に思ひ浮べてゐたが、それでもいつしかいかにも胸が
自分の村を出はづれたところに、大きな河が流れて居る。其處を
『僕ですよ、私ですよ、田口の藤太ですよ。』
と押しかけて言ふと、初めて合點が行つたらしく、
『ほう左樣ですけねえ。』
自分が改めて初太郎のくやみを述べると、それには殆んど返事もせず、何處へおいでなさると訊く。また東京へ行つて來ますと答へると、へえと言ひながら懷中へ兩手を入れてやがて紙にひねつて、ほんの草鞋錢だが持つて行つて呉れとさし出した。自分はうれしく頂いて袂に入れて、何かまだ話し出さうとすると、彼はすぐ一人でお辭儀をしてとぼ/\と坂下の方に降りて行つた。
自分はその次の驛から馬車に乘つた。思ひ出して袂から先刻のひねりを取出して見ると、五十錢銀貨が三枚包んであつた。
底本:「若山牧水全集 第九卷」雄鶏社
1958(昭和33)年12月30日発行
初出:「新潮」
1909(明治42)年6月号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:林 幸雄
校正:今井忠夫
2004年1月20日作成
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