すると背後の中門の所から何時の間に來たのか、
「
と千代が私に聲かけた。
返事はせずに振向くと、例の浴衣の姿が半ば月光を浴びてしよんぼりと立つて居る。
「
「ウム、いま、行く。」
と言つておいて私は動きもせず千代を見上げて居る。千代もまたもの言はず其處を去らずに私を見下して居る。
やがてして私は驚いた。千代の背後にお米が靜かに歩み寄つて物をも言はずに一寸の間立つてゐて、そうして、
「何してるのけえ?」
と千代に云つた。
「マア!」
としたゝかに千代は打驚かされて、
「何しなるんだらう!」
と、腹立たしげに叱つた。お米は笑ひもせず返事もせぬ。斯くて千代もお米も私も打ち連れて家に入つた。そして臺所の灯をば其處に寢るお兼に頼んでおいて、私等は床の敷いてある座敷に行つた。
片側には父が端で、次が母、その次が私の床。それと枕を向き合はせて片側には彼等姉妹の床、廣い着布團を下に敷いて兩人一緒に寢るやうにしてある。
父もよく睡入つてゐた。病人の母もこの頃はよく睡れる。一つは涼しくなつた氣候のせゐもあるだらう。それを覺さぬやうに私達は靜かに寢支度をして床に入つた。私の方は男のことで、手輕く寢卷に着換へて直ぐと横になつたが、女だと左樣はゆかぬ。一度次の間に行つて、寢衣の用意もないので襦袢一つになつたまゝ、そゝくさと多く私に見られぬやうにと力めながら、何か低聲で云ひ合ひつゝ床に入つた。私とは少し
それを見て居るとまた種々のことが思ひらされて、胸は痛むまでに亂れて、なか/\に睡られ相にない。千代も左樣らしくあちこち寢返りをして、ふと私と顏を見合はせては淋しく微笑む。
灯を消すと一段と私の眼は冴えた。父の鼾母の寢息、相變らず姉妹の身を動かして居る樣子など交々胸に響いて、いつしか頭はしん/\と痛み始めて居る。これではと私の常に
「伯母さん」
といふ聲が微かに耳に入つた、千代のだ。尚ほ耳を澄ませて居ると、また、
「伯母さん」
と
それから暫く間を置いて、更に一層きゝとれぬ程に低く、
「
といふ。私はどきつとして、
程なく千代は私の枕がみに來て、そしてぶる/″\と打慄ふ聲で、
「
と二聲續けた。そして
「千代坊、何
とあまり騷ぎもせぬはつきりした聲で、お米が突然云ひかけた。
「アラ!」
と消え入るやうに驚き
「何も何も、……灯を點けて……一寸
と、漸次判然と云ひ來つて、そして更めて起き上つてマツチを探し始めた。お米はもう何も言はぬ。私は依然睡入つた風を裝うてゐたのであつたが、動悸は浪のやうで、冷い汗が全身を浸して居る。やがて千代は便所に行つて來た。そして姉に布團を何とやら云ひ乍ら、又灯を消して枕に着いた。
それから暫くはまた私も睡入られなかつたが、疲勞の極でか、そのうちにおど/\と不覺の境に入つて了つた。
次いで眼を覺されたのが
書置の何のといふものもなく、逃げたのか、それとも何處ぞで死んでゐるのか、それすら解らぬ。あの娘のことだ、とても死にはせぬ、若し死ぬにしたら人の
然し、私は思つた、一旦逃げ出してみすみす捉へらるゝやうな半間な眞似はあの娘に限つて
何よりも早くあの父親に告げ知らせねば、と母は此方にも氣を揉んで、早速若い男を使した。半病人の彼女の老父は殆んど狂人のやうになつて、その片意地に凝り固つた兩眼に憤怒の涙を湛へつゝ
「可し、ぢや貴樣が彼奴の
と、血の樣な眼をして娘を睨みすゑた。
幾人も集つて居る中に混つて、私も同じくハラ/\としながら見詰めて居ると、案外にも娘は、お米は、
「ハイ」
と低く云つて、例の大きい鈍い瞳を閉ぢて、そして又開いた。
底本:「若山牧水全集 第九卷」雄鶏社
1958(昭和33)年12月30日発行
初出:「新聲」
1907(明治40)年12月号
入力:林 幸雄
校正:今井忠夫
2004年1月20日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
●表記について
- このファイルは W3C 勧告 XHTML1.1 にそった形式で作成されています。
- [#…]は、入力者による注を表す記号です。
- 「くの字点」は「/\」で、「濁点付きくの字点」は「/″\」で表しました。
- 「くの字点」をのぞくJIS X 0213にある文字は、画像化して埋め込みました。
- この作品には、JIS X 0213にない、以下の文字が用いられています。(数字は、底本中の出現「ページ-行」数。)これらの文字は本文内では「※[#…]」の形で示しました。
「けものへん+非」 30-11