眼の覺めたままぼんやりと船室の天井を眺めてゐると、船は大分搖れてゐる。徐ろに傾いては、また徐ろに立ち直る。耳を澄ましても濤も風も聞えない。すぐ隣に寢てゐるすと、室内の人は悉くひつそりと横になつて誰一人煙草を吸つてる者もない。
船室を出て甲板に登つてみると、こまかい雨が降つてゐた。沖一帶はほの白い光を包んだ雲に閉されて、左手にはツイ眼近に切りそいだ樣な斷崖が迫り、浪が白々と上つてゐる。午前の八時か九時、しつとりとした大氣のなかに身に浸む樣な鮮さが漂うて自づから眼も心も冴えて來る。小雨に濡れて一層青やかになつた斷崖の上の木立の續きに眼をとめてゐると、そのはづれの岩の上に燈臺らしい白塗の建物のあるのに氣がついた。
「ハヽア、此處が潮岬だナ。」
と、
小雨に濡れながら欄干につてゐるのだ。舵機を動かすらしい鎖がツイ足の爪先を斷えずギイ/\、ゴロ/\と動いて、眼前の斷崖や岩の形が次第に變つてゆく。そして程なくまた地圖で知つてゐた大島の端が右手に見えて來た。
「此處が日本の南の端でナ。」
氣がつかなかつたが私の側に一人の老人が來て立つてゐた。そして不意に斯う、誰にともなく(と云つて附近には私一人しかゐなかつた)言ひかけた。
「
「左樣だネ、此處が名高い熊野の潮岬で、昔から聞えた難所だよ。」
日本の南の端、臺灣や南洋などの事の無かつた昔ならばなるほど此處がさうであつたかも知れぬと、そんな事を考へてゐると老人は更に
かなりの時間をかけてこの大きな岬の端を通り過ぎると、汽船の搖は次第に直つて來た。そして程なく串本港に寄り、次いで古座港に寄つて勝浦に向つた。
日の岬潮岬は過ぎぬれどなほはるけしや志摩の
雨雲の
勝浦の港に入る時は雨はなほ降つてゐた。初め不思議に思つた位ゐ汽船は速力をゆるめて形の面白い無數の島、若しくは大小の岩の間をすれすれに縫ひながら港へ入り込んで行つた。その島や岩、またはその間に湛へた紺碧の潮の深いのに見惚れながら、此處で降りる用意をするのも忘れて甲板に突つ立つてゐると、ふと私は或事を思ひ出した。そして心あての方角を其處此處と見

入つて見れば此處の港は意外な廣さを持つて居る。双方から蜒曲して中の水を抱く樣に突き出た崎の先には、例の島や岩が樹木の茂りを見せながら次々と並んで、まるで山中の湖水の樣な形になつて居る。そして深さもまた深いらしく、次第に奧深く入り込んだ汽船はたうとう棧橋に横づけになつてしまつた。熊野一の港だと聞いたがなるほど

幾ら歩いてゐても
小さな船で五六分間も漕がれてゐると、直ぐに着いた。
凪ぎ果てた港には發動船の走る音が斷間なく起つて居る。みな鰹船で、この二三日とりわけても出入が繁いのださうだ。夕方、特に注文して大ぎりにした鰹を澤山に取り寄せた。そして女中をも遠ざけて唯一人、いかにも遠くの旅さきの温泉場に來て居る靜かな心になつて、夜遲くまでちび/\と盃を嘗めてゐた。
熊野なる鰹の頃に行きあひしかたりぐさぞも
いまは早やとぼしき錢のことも思はず一心に喰へこれの鰹を
むさぼりて腹な破りそ大ぎりのこれの鰹をうまし/\と
あなかしこ胡瓜もみにも入れてあるこれの鰹を殘さうべしや
六月三日、久しぶりにぐつすりと一夜を睡つて眼を覺すとまた雨の音である。戸をあけてみると港内一帶しら/″\と煙り合つて、手近の山すら判然とは見わかない。たゞ發動機の音のみ冴えてゐる。
朝の膳にもまた酒を取り寄せて今日は一日この雨を聞きながらゆつくりと休むことにした。東京の宅を立つたのが先月の八日、二週間ほどの豫定で出て來た旅が既うかれこれ一月に及ぼうとしてゐるのである。京都つて紀州に入り込んだ時はかなり身心ともに疲れてゐた。それに今までは到る所晝となく夜となく、歌に關係した多勢の人、それも多くは初對面の人たちに會つてばかり歩いて來たので心の靜まるひまとては無かつた。それが昨夜、和歌の浦からこの熊野
りの汽船に乘り込んで漸く初めて一人きりの旅の身になつた樣な心安さを感じて、われ知らずほつかりとしてゐた所である。初めの豫定では勝浦あたりに泊る心はなく、汽船から直ぐ奈智に登つて、
つて新宮に出て、とのみ思うてゐた。が、斯うして思ひがけぬ靜かな離れ島の樣な温泉などに來てみるとなか/\豫定通りに身體を動かすのが大儀になつてゐた。それにこの雨ではあるし、寧ろ嬉しい氣持で一日を遊んでしまふことに決心したのである。
午前も眠り、午後も眠り、葉書一本書くのが辛くてゐるうちに夜となつた。雨は終日降り續いて、夜は一層ひどくなつた。客は他に三四人あつたらしいが、靜けさに變りはない。
翌日も雨であつた。また滯在ときめる。旅費の方が餘程怪しくなつてゐるが、此處に遊んだ代りに瀞八丁の方を止してしまふことにした。午後は晴れた。釣竿を借りて庭さきから釣る。一向に釣れないが、二時間ほども倦きなかつた。澄んだ海の底を見詰めてゐると實に種々な魚が動いてゐるのだ。
六月五日、また降つてゐた。
でも、今日こそは立たうと思つてゐた。る。見れば見るほど、景色のすぐれた港だと思はれた。そして對岸の港町に上つて停車場へ行つた。雨が烈しいので、袴も羽織も手提も一切まとめて其處に預けて、勝浦新宮間に懸つてゐる輕便鐵道に乘り込んだ。間もなく二つ目の驛、奈智口といふので下車。
雨はまるで土砂降に降つてゐた。幾ら覺悟はしてゐてもこれでは餘にひどいので少し小降になるまで待つてから出かけようと停車場前の宿屋に入つた。そして少し早いが晝食を註文してゐると、突然一人男が奧から馳け出して來て私の前に突つ立つた。その眼は妙に輝いて、聲までつてゐたかと愈々勢込んで來た。そのうちに奧からも勝手からもぞろぞろと家族らしいもの女中らしいものが出て來た。その上、
「え、誰だ、何といふんです、……僕は若山と云ふのだが。」
「へゝえ、
といふ。
この正月の事であつた、私は伊豆の東海岸を旅行して二日の夜に或る温泉場へ泊つた。すると、同じその夜、その土地の、同じ宿屋の、しかも私と襖一重距てた室へ私の友人の一人が泊り合せて、さうして二人ともそれを知らずに、翌日それ/″\分れ去つた事があつたのだ。この番頭らしい怪しき男の今までの話を聞いてゐて、端なく思ひ出したのはその事である。そして私がこの頃この熊野を通つて、奈智へ登るといふ事は東京あたりの親しい者の間には前から知れてゐた事實である。誰か氣まぐれに後から追つて來て、今日それが此處を通つたかも知れぬといふ事は
「え、誰です、何といふ男が來ました?」
あれかこれかと私は逸速くさうした事をしさうな友人を二三心に浮べながら、もう眼の前にそれらの一人の笑ひ崩るる顏を見る樣な心躍りを感じて問ひ詰めた。
今度は相手の方がすつかり落ち着いてしまつた。して、兎に角此處では何だから二階にあがれ、と繰返しながら、一段聲を落して、
「東京では皆さんがえらく御心配で、ことに御袋樣などはたとへ何千圓何萬圓かかつてもあなたを探し出す樣にといふわけだ相で……」
と言ひ出した。
此處まで聞いて私は再びまた呆氣にとられた。何とも言へぬ苦笑を覺えながら、
「さうか、それでは違ふよ、僕は東京者には東京者だが、そんな者ぢアない、人違ひだ。」
と馬鹿々々しいやら、また何かひどくがつかりした樣な氣持にもなつて再び其處へ腰掛けやうとすると、なか/\承知しない。
「いえもうそれは種々な御事情もおありで御座いませうが、……實は高野山から貴下のお出しになつた葉書で、てつきりこちらへおいでになる事も解つてゐましたので、ちやんともうその人相書まで手前の方には解つてゐますので……」
「ナニ、人相書、それなら直ぐその男かどうかといふ事は解りさうなものぢアないか。」
「それがそつくり貴下と符合致しますので、もうお召物の柄まで同じなのですから、……兎に角お二階で暫くお待ち下さいまし、瀧の方へおいでになつた方々にも固く御約束をしておいた事ですから此處でお留め申さないと手前の手落になります樣なわけで……」
私はもうその男に返事をするのを見合せた。そして其處へ來て立つてゐる女中らしいのに、
「オイ、如何した飯は、酒は?」
と言ふと、彼等は惶てて顏を見合せた。
「ええ、どうぞ御酒でもおあがりになりながら、ゆつくり二階でお待ち下さいます樣に……」
と、その男は
「馬鹿するな、違ふ。」
と、言ふなり私は