曾て姉妹とも同時に流行の麻疹に罹つたことがある。最初は非常の熱で、食事も何も進まなかつた。その當時の或る夜自分は十時頃でもあつたか外出先から歸つて來た。所が、しきりに子供が泣いて居る。それも病體ではあるしよほど久しく泣いてゐたものと見えその聲もすつかり勞れ切つて呻吟くやうになつてゐた。兩人の病人を殘して夫婦とも何處へ行つたのだらうと一度昇りかけた階子段から降りて子供の寢てをる室を窺いて見ると、驚くべし細君はその子供の泣く枕上に坐つてせつせと白河夜舟を漕いで居るのであつた。それのみならず酷く子供の看護を五月蠅がつて仕事が出來ずに困りますと言ひきつてゐた。そのくせ仕事と云つては手内職の編物一つもしてゐないのである。その代りまた斯んな風で烈しく子供を叱るといふこともない。と同時に子供もまた少しも母を重んじない、頭から馬鹿にしてかかつて居る。夜でも競うて父親の懷ろに眠らうと力めて居るといふ有樣、それが實に今年八歳と十歳になる女の子の行爲である。頑是のない子供心にも尚ほ且つこの母の他と異つて居る性質を何となく飽き足らず忌み嫌ふて居るのであるかと思ふと、そぞろにうら寂しい感に撲たれざるを得ないのである。
それかあらぬか兩人の娘の性質も何となく一種異つた傾向を帶びて行きつつあるかの觀がある。娘共の懷しがつて居る父親といふのも曾ては獄窓の臭い飯をも食つて來たとかいふ程で、根からの惡人ではなさ相だが何となく陰險らしい大酒家、家に居るのは稀なほど外出がちで、いつも凄いやうな眼光で家内中を睨めして居る。その胸に包まれたものであつて見れば子に對する愛情といふのも略ぼ推せらるるのである。それに子に取つては先づ第一に親しかるべき母親は以上のやうな有樣、萬事母親讓りに出來て居る姉娘の虚心したのは虚心したままに拗けて行き、それとはまた打つて變つた癇癪持の負嫌ひの意地惡な妹娘は今でさへ見てゐて心を寒うするやうな行爲を年齡と共に漸々積み重ねて行きつつあるのである。で、從つて近所の娘連中からは遠ざけられ家に入れば母親は斯ういふ状態、自づと彼等の足は歩一歩と暗黒な沙漠の中に進み入らざるを得ないのである。
露ほどの愛情を有たぬ女性の生涯、その女性を中心とした一家の運命、見る聞くに如何ばかり吾等若い者の胸を凍らしめて居るであらう。
然ればと云つて彼女に常識の缺けて居る所でもあるかといふと、それは全然ちがひで、物ごとのよく解りのいい立派な頭を有つて居るのだ。
友と自分とは更にいろ/\と細君の蔭口をきいてゐた。少しも料理法を知らぬといふこと、(これも實際の事で、八百屋に現はれるその時々の珍しい野菜にさへ氣附かぬ風である。自分等の豚肉などと共に三つ葉とか春菊とかを買つて來ると、初めてそれに氣がついたやうに、それからはまた幾久しく一本調子にその一種の野菜が膳に上る。それも時に料理法でも變へるなどといふことは決してないのである。)食器類その他の不潔だといふこと、何だかだと新しくもないことを言ひ合つてゐたが、それにも倦んで、やがては兩人とも默り込んでしまつた。子供の高い聲と細君の例の調子の笑ひ聲とが、また耳に入つて來た。
「あれを聞くと、僕は一種言ひ難い冷氣を感ずる。」
と、突然友は自分の方に寢返りして言つた。丁度自分もそれを感じてゐたところであつたので、無言に點頭いた。
斯くするうち漸く階子段の音がして、細君は鐵瓶を持つて二階に昇つて來た。そしていつものやうに無言に其處にそれを置いて降りて行くだらうと思つて居ると、火鉢の側に一寸膝を下したまま、襷に手をかけながら、いかにも珍奇な事實を發見したといふ風に微笑を含んで、
「不思議なこともあるものですわねえ。」
と、さも不思議だといふ風に兩人をゆつくりと見比べる。兩人とも細君の顏を見てそして次の句を待つてゐたが、容易に出ないので、待ちかねて友は訊いた。
「如何かしたのですか。」
「先日、妾は夢を見ましたがね、郷里で親類中の者が集つて何かして居るところを見ましたがね、何をして居るのやら薩張り解らなかつたのでしたがね……」
と、一寸句を切つて
「そしたら先刻郷里の弟から葉書を寄越しましたがね、父親が死んだのですつて。」
「エ、お父樣が、誰方の?」
「妾の父親ですがね、十日の夕方に死んだ相ですよ……。それも去年妾共は東京に來た時一度知らしたままでまだ郷里の方にはこちらに轉居したことを知らしてやらなかつたものですから、以前の所あてに弟が葉書を寄越したものと見えて附箋附きで先刻それが屆きました。」
「貴女のお父樣ですか?」
友は自己の耳を疑ふやうに眼を眞丸にして訊き返して居る。
「エヽ。」
と、細君は、まだ何か言ふだらうかと云ふ風に友を見詰めて居る。
「さうですか、それはどうも飛んでもない事でしたね、嘸ぞ……」
と自分は起き直つて手短かに弔詞を述べた。
が、斯ういふ具合に述べ立てらるると、世に一人の父親が死んだといふ大きな事實はどうしても頭の中に明らかに映つて來ないので、自然形式的の挨拶しか出て來ない。それでも、其場のつくろひに、まだそれほどのお年でもなかつたでせうに、などと言ふと、
「エ、今年で五十七か八か九かでしたよ。イエもう妾は去年家を出る時にお別れのつもりで居ましたから、どうせ斷念めてはゐました。」
と、例の悟つた風をわざ/\しいやうに現して見せる。いよ/\こちらでも愁傷げに裝ふことすら出來にくい。友はまた驚き切つたといふ風に一語をも發せずに居る。微かな風が窓から流れてランプの白い灯がこころもち動いて居る。黄昏の靜けさはそぞろに室に充ちて居る。
「それでも……さうですな、さう言へばさうですけれど、……阿父さんの方で會ひたかつたでせう。」
「それはね、少しは何とか思つたでせうけれど、……思つたところで仕樣のないことなのですからねえ。」
と、また微笑まうとする。
「阿母さんはまだお達者なのですか。」
自分は今度は他のことを訊いてみた。
「エ、彼女こそ病身なんですが、まだ何とも音信がありません。」
「お寂しいでせうな、その阿母樣が。」
突然友が口を入れた。
「エ、それはね、暫くは淋しうございませうよ。」
「貴女も寂しうございませう。」
にや/\しながら彼は自分の方を見してゆるやかに斯う言つた。でも彼女は頗る平氣で、
「エ、でもね、どうせ女は家を出る時が別離だと言ひますから……」
「で、お歸國にでもなりますか、貴女は?」
自分は見かねてまた彼女の話の腰を折つた。
「アノ良人では歸れと言ひますけれど、歸つたところでね……それに十日に死んだとしますと今日はもう十四日ですから……今から歸つたところで仕樣もありませんし……」
「お墓があるではありませんか。それにその病身の阿母さんも待つておゐでではありませんか。」
耐りかねたといふ樣子で友は詰るやうに言つた。
「さうですね、それはさうですけれど……」
と、苦もなく言つて、茫然窓越しに向うの空を眺めて居る。暮れの遲い空には尚ほ一抹の微光が一片二片のありとも見えぬ薄雲のなかに美しう宿つて居る。この女はいま心の中で父親の死んだといふことよりも、夢の合つたのを珍しがつて居るのかも知れない。
階下ではまだ子供が騷いで居る。そして姉の方が妹から追はれたと見えて、きやつ/\言ひ乍ら母を呼んで階子段を逃げ登つて來ようとする。
「來るでない!」
と言ひ乍ら細君は立つて、子供と共に下に降りて行つた。
あとで兩人はやや暫く無言に眼を見合せてゐた。自分は微笑んで、友はさも情無いといふ風で。
「如何だ、實にどうも!」と友。
「ウフ! 流石に驚いたね!」と自分。
友はいま細君の降りて行つた階子段の方を見送つてゐたが、
「あれでも矢張り生きて居る……」
と、獨言つやうに言つた。
自分もその薄暗い階子段を眺めてゐて、何となく眼のさきの暗くなるやうな氣持になつて來た。
と、友は
「どうしても普通の人間では無い。不具では……白痴では無論ないけれども確に普通ではない。あれで人間としての價値があるだらうか。」
「價値?」
「價値といふと可笑しいが、意味さ、人間として生存する價値が、意味があるだらうか。」
「サア……然し」
と言ひかくると、自身にも解らぬ一種言ひがたい冷たい悲哀の念が霧のやうに胸の底からこみ上がつて來た。
「然し、然し、あれでも子を産んだからな、しかも二個!」
と、口早やに言ひ棄てて埓もなくウハヽヽヽヽと笑ひ倒れた。
倒れると窓越しの大空が廣々と眺めらるる。今は早や凝つた形の雲とては見わけもつかず、一樣に露けく潤んだ皐月の空の朧ろの果てが、言ふやうもなく可懷しい。次いでやや暫くの間、死んだやうな沈默がこの室内に續いてゐた。
附記、この「一家」の一篇は次號を以て完了すべし。然しただ本號のこの一章のみを以て獨立せるものと見做さるるも強ちに差支へなし。(作者)
●表記について
- このファイルは W3C 勧告 XHTML1.1 にそった形式で作成されています。
- 「くの字点」は「/\」で表しました。
- 「くの字点」をのぞくJIS X 0213にある文字は、画像化して埋め込みました。
- 傍点や圏点、傍線の付いた文字は、強調表示にしました。
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