3
孟買埠頭の藍色の海に室蘭丸が碇泊していた。午前五時出航なので船客は日が暮れると乗船を始め、私は午後九時頃に及んで荷揚場から黒奴に案内されてデッキに昇っていった。そこから孟買の港に船遊びする富限者船の燈が明滅するのを眺めながらサルーンから響いてくる音楽と歓談の声を聞いた。私をケビンに案内した部屋ボオイは室蘭丸が処女航海でそのために当夜は盛大な宴が開かれている事を告げて私の出席を求めるのであった。日本人のボオイが部屋を去ると、私はふと同室の寝台に乱雑に投げ出された女物の革手袋と粋な持物の下の花模様の部屋靴が私の目にとまるのであった。
私が夜会服に替えてサルーンに設けられた席に着くと、金モールの事務長の植民地通いの海員らしい頑丈な腕がさしのべられて関西訛のある社交的なバスが、ようこそ、Yさん。ミッセスが最前からお待兼です。と云って曙色になった頬に微笑を浮べて私を迎える。いまでは日本食の宴も半ば過ぎてテーブルを囲んだ人々の間を土人街の女が酒盃をみたしてまわっていた。外国人達は彼女達の日本髷を珍らしがって嬉しそうにはしゃいでいた。私は彼女達のCの字に曲った衿元の黒い皮膚から噴火した火山灰が、流浪する女の生活の斑点となっているのを見るのであった。痩せた小柄な船長が船人らしい雄大な抱負を正面の卓子から吹聴していた。そのとき食卓の日本料理の美味のうちに急に鳴物の入った三味線を土人街の坊主頭の幇間が弾き出すと、香港あたりでよく歌われる鴨緑江節を女達が噛むようにうたいだした。すると一座が急に浮かれて酒盃がかるやかに夜目にも白い運河を越えて、日本流の歓待のなかで青い花が満開して、思いがけなくもアダの顔がそこにあらわれてくるのを認めるのであった。
4
孟買の花嫁である万国女のいる孟買市場の裏街では天幕の舞台で、緬甸の女がバゴダ踊をおどっている。町の芸妓達は月光の下でスカリプタの恋愛小説を読みながら顔見世の順番を待っている。私は宴のなかばを抜けて夜の孟買の街を英国の煙管から吐き出される煙で曇らすのだが、印度人の象使いが象の背に古代神の敷物を敷いて外人の子供を乗せて円のなかを大声で叫びながら引張りまわしているのを見ているうちに、アダのことを忘れてしまった。拳闘場では印度人の闘士が負ける度に歓声があがる。興行場ではカイゼル髭を生した国王が臨席して其の昔の首洗の井戸で印度の苦行僧がサロメのヨカナンを演じていた。ガンダラ彫刻した夜の女の手が闇から出て私をシセロの居酒屋に引張ると足とも手ともつかぬ黒い肉体を蛇のように私の首に巻きつけて、蛇酒を調合したソーマ酒の杯をかちあわして一気にあおってしまった。部屋々々の壁の伝説のニデイアの像のかけられた下を快楽のために奴隷にされたフィリッピン人の拳闘家が、床下を犬のように這いながらときどき兇暴なうなり声を出した。
アイルランド人の経営しているホテル・グランド・オリエンタルは夜が更けるにしたがって人力車と馬車が交錯して万国旗の前でとまると各国の夜の女がボーイの腕に抱かれて、昇降するたびにアイオニアの音曲を奏するエレベーターに吸われていった。
フォート区に馬車が出ると各国の若い男女が街路樹の下を腕をくんで逍遙している。夜遊びした孟買女学校の生徒が茶色の肩掛で顔を包んで皮膚には香気ある花を飾って帰途を急いでいる。午後十一時半に閉ねる活動写真館から五色のターバンを巻いた楽士達が通用門から出る時刻であった。カバレット・バビロンの白煉瓦の高層な建物から流れるワルツの曲が街角に直立した赤い帽子の印度巡査をモスモロスの道化役者風にしたててバビロンの入口の廻転ドアの前に金モールのいかめしい英国人の門衛が莞爾とした笑いをたたえている。ダンシングホールでは華やかな腰を振って踊子がシンミイダンスを踊っていた。いつのまにか私の片隅の卓子に私の夜の恋人があらわれるとボーイにシャンパンを命ずる。シャンパンのキルクがボーイの鉤鼻から落下すると私のパートナアが横目をつかってボーイに現金で酒代とチップを渡すように催促して別に靴先につける天花粉の代金十仙を請求する。やがてシンミイダンスが終って素足の踊子達が誇らしげにテーブルのうえに美しく化粧された足の指を投げ出した。場内はビールの満が引かれ人々は五色の陽光に上気するのであった。私のパートナアが酒果の祝福を私に与えてから私が日本人である故貴方は油断のならぬ国民である、今後彼女西欧の人種は日本人によって不幸になるであろうことなど臆測を交えて語り出すのであった。私はまた日本人は野心家であるが、それにもまして日本人がお人好しであること、恋を恋とも思わぬ日本人の高潔は畢竟それは日本人に不足した性教育のためである。また西欧人のように感情がデリケートでないためである。我々日本人は武勇を誇る国民であるがその実支那と朝鮮沖で軍艦から鉄砲を打ったことと満州で露西亜人相手に戦ったのだが、日本人の余り近代人ばなれのした乱暴さにさすがに出鱈目の露西亜人も懲々してステッセルと云う将軍が子供をあやすように仲直りをしてくれと云ってきたこと、日本人は極端に臆病であるため虚心坦懐な西欧人の目から見ると、それが陰険にさえうつるので自分のように日本の伝統をもたない日本人の顔をもって生れたものは甚だ迷惑であることをくどくどと私が私のパートナアに話して、であるから自分のような日本人には貴女の美しさとか健康さを直感して貴女を讃美することは、他の国民にも増して劣るものではないことを切々と話す、そのとき場内の電光が絞られてコンダクターの指揮棒がはねかえると数十本の楽士達の手足が渦を巻いて低声で唄いながら踊子達が立上がる。私はパートナアの金髪の波をかきわけてフォックストロットの足並を揃える。すると私の踊友達は中指で私をつつきながら、それでは日本人は野蛮人でもときによると貴方みたいに文明的な日本人もあるので、文明人には国と国の境界はないのだから妾は貴方をわるくは思わないと彼女が云った。
5
私が室蘭丸に帰船したのは午前三時に近かった。船はルビー色の飾をつけて静かに横わっていたが突然黄色い声で外国詩の慟哭する金切声が聞えた。また絶えず石炭を積み込む荷揚ロープの緩急が打ち寄せる波の音と和して、消燈された甲板のゴルフ棒の蔭で船員と港の土人街の女とが抱擁して別離を悲しんでいる。女が一緒に日本へ行きたいと訴えるのだが、船人のたくましい腕の絆も別離が切って落す。サルーンでは数人の英国人が別れの唄を合唱している。一人が女優らしく胸を張ってバイロンの大洋の歌を独吟しては泣き出す。私が部屋に這入ると絹のハンカチに涙の地図をかいた女が私の姿を見ると罵るように、妾は日本が憎い、妾の恋しい人を連れ出すのはこのインボスタ奴! このジャブです。すると若い青年が私をなぐさめるように、女が気狂いであること、生れが悪いので酔うと恋病にかかることを説明した。
水平線に赤いラインが鬼火のように明滅しだすと機関室からエンジンの廻転が響きだす。最初の銅羅が暁を破ると見送人達は鉄梯子を下りて対岸に並ぶと、二度目の銅羅と一斉にわめき出す。下甲板の新嘉坡へ行く印度の行商人相手の物売りが上陸してしまうと汽笛が垂直に空から落下傘となって人々のうえに舞いおりる。すると桟橋をだんだんと船体が離れ出した。椰子の樹下のタクシーに英国人十数人が一人の女を胴あげにして一塊になると喚声の間に泣き叫ぶ女の哀調をのこして砂塵をたてて見えなくなってしまった。私が自分の部屋にかえると隣の寝台にカーテンも引かないでペチ・コートのまま仰向けになったアダが、夢うつつにも寝床で寝るトア・ズン・ドルの女を再び見出した。
6
午後になって、オリブ色の水を皮膚の油ではじきながら私は浴槽に浸って額のアダの唇の跡をぬぐいとるのであった。船はバンマート沖の炎熱の下を進行していた。部屋にかえるとアダは体操を開始してポスト孔から大洋に向って胸の悪気流を吐き出した。起きてから私が一言も口をきかないので、照れかくしに私の胸にボクシングで穴をあける真似をして片足を私の鼻につきだしてがらがらとした声でおしゃべりを始めようとするので、私が扇風機に電流を通じる。
――Y、貴方がそんなにお嫌なのなら妾はアラビア海に身投げしてしまいます。どうせ妾はマルセーユあたりの口髭のはえた女友達とつきあっていた女です。妾がアングロ・サクソンの諾威人によって子宮炎を起し、チュトン族の独逸人によって戦術を会得し、ケント族のフランス人から無意味で得体のしれぬラブ・レタと嬉しがらせの骨を覚え、歓喜の最中夢中独待の下品な言葉をもらすアングロサクソン種の和蘭人、オットマン帝国の土耳古人からは古代のシステムの掟を、アイオニア民族の希臘人からは商売の極意を教わりました。それが貴方とふとしたことからトア・ズン・ドルで背中合せになってから、私は貴方が矮小でこざかしい日本人であることを知りながら貴方が慕わしくてならないのです。妾にとってY、貴方がエトナ火山の熱気よりも、モンテ・クリスト島の神秘さにもまして深い誘惑となるのです。妾のことをメッシナ海峡などと思わないでください。
――私はまた、浮気な貴女を愛することは禁断道路を歩むよりも一層困難に思うのです。
――妾が不可なかったのです。妾が色気狂いのような真似さえしなかったならば!
――アダ、私は貴女が容易く身を委すたびに飛行機のプロペラのこわれたように扁平な地球からころげ墜ちるような大陸的な叫声を出すのを知っているのです。その他、私は貴女が男装して男の前でズボンを脱いでみせる芸当と、フォルベルゼエルの寄席の衣裳の綺羅を棄てた手踊と。つまり私のように古くからの恋愛にあまんじた男は貴女のように、知り合うと直に知ってしまう恋の形式は、それからどうして恋愛を作り出すのかが私にはわからないのです。
――Y、妾を伊達の花嫁と思ってくれない?
――アダ、貴女の浮気の虫はいつまでたってもなおらない。
――妾は貴方を愛する。無我夢中で。
と、アダが云った。
私は後尾甲板のソファにもたれている。午後三時、太陽が黄色に沈む。アラビア海の鱶の大群が白い尾を暮色に飜す。旧教の尼僧が静粛に聖書に読み耽っている。アダがマルセーユあたりの歌劇女の着る巴里風の意気な衣裳をつけてやってくる。ボーイが炭酸水とウイスキーを籐の卓子に置いて去ると、恋は異なものね、と云うような顔附をして炭酸水にウイスキーを入れたコップを涼しげにのむのであった。それから私達は骨牌で狐と狸という競技をするのだが、狐になったずるい彼女のために散々狸の私は打ち負かされてしまうのであった。
――アダ、貴女はずるい! いまになって貴女の深いたくらみが私には分ってきた。
――妾は深いたくらみを持っているのです。Y、貴方が妾を愛するまでは。
ゴールブル山脈に熱帯風が吸いこまれて、午後の強風に身を揺られながら私達はいつとはなしに深い愛情を感じていた。
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