1
数年前、孟買の赤丸平家の日本人倶楽部の Chamber maid に河上アダという混血児が雇われていた。
外国の日本人経営のクラブとかレストランでは先例によって女を雇入れることはめったにないことなのだが、私は天津の日本租界、敷島町の或るレストランに近頃日本の少女が青磁の衣服をつけてそれでなくとも感傷的になった旅人の私の心を瞑想的にするのに会ったことがある。
それだからアダがコケティッシュな服装で赤丸平家の日本人倶楽部に現われたときは、凡そ浮かれ男の眼にはそれがアラビア海のマラバル岬に鮮かな赤更紗の虹がうき出たように濃い色彩を着けたことは勿論だがまた彼女が短いスカートから現した近代的な武装を解除した両脚にはいた棕櫚の葉で作ったような靴下の野性的な蠱惑の中から浮かれ男の思いもよらぬ数々の女の生命が幻燈のように現れてくるのだ。
当時、私はタージ・マハール・ホテルに止宿する商用の旅を彼地につづけていたのであったが、M物産の主任S氏の紹介で宿を赤丸平家の倶楽部に移すと同時に彼地の日本人に紹介されるのであった。
室内は午後二時というにマラバー丘から立昇る死体の煙で太陽をかくしてしまって、暮色に黄色いシャンデリヤの光が会社帰りの若い青年の頭上を照していた。彼等はアダの話で夢中なのだがアダがかつて土人街に蟄居していた日本の売笑婦だと云ったり、或るものは自分はヴィクトリア公園の熱帯樹の下を黒奴の中年の紳士と日傘をさして歩いていた彼女を見かけたことがあると真実らしく話して、彼女が洋妾だろうと云う。或る支那帰りの商人は、アダを北京の南陽門通りの裏街の露西亜人の酒場で、彼女がフランス兵とふざけているのを見かけたと云うのだ。すると一人の青年がアダがマルセーユの金羊毛酒場の踊子で、自分はアダを抱いて踊ったことがあると主張しだした。そのときS氏の若い小柄な秘書が私にささやく、
――アダと云うのは英国種の牝牛なのです。私達孟買在住の日本人にとっては珍らしい変り種にちがいないのです。今迄私達が土人街印度家屋の油の濃い日本女(ここに住む日本髪の女が世界中で一等醜い女だということは貴方にも直きお分りになるでしょう)以外に恋の体力をあらわさなかったのに、たとえ英国種にしろアダは水際だった、いわば我々日本人にとって彼女は孟買のエンゼルなのです。印度の恋のビリダリアの花です。
彼があまり真剣なので私がわらい出す。すると彼は私を部屋の一隅に引張ってきて熱心に私の納得の行くように話しつづけるのであった。
――貴方がおわらいになるのも無理もないのですが、しかし赤丸平家は日本の独身者の集合所なのです。(孟買には若い夫婦者は皆無と云っていいのです。家庭の女には東洋の深い皺が彫刻されたように滲みこんでいます)私達は最初土人街のネパール女のエキゾティズムに感歎するのですが、その感歎はまるで波斯をセイロンの旗立てた漁船みたいな潜航艇で潜航しているようなものなのです。次いで私達は街に出て、印度の花、欧風化された女の嬌態、近世のパーシ女に袖を引かれて茶店に出入するのですが、私達日本の男子で印度のフラッパ女に靴の紐など結ぶように命令されて、諾々としているような非国民は一人だっていないのです。ですから、たとえ英国種の牝犬であろうとも近代的な同胞の女の奔放な脚をみて私達は気狂いのように騒ぐのです。
――土人街の日本の坊主頭から苦情は出ないのですか。
すると彼は熱帯地の植物のような息を私に吐きかけて、
――どうか、なぶらないでください。私達はアダによって訓練されたいとさえ思うほどです。アダの声音は印度の夜の国境、ヒンズークシ山脈の下をアフガニスタンに向って疾走する急行列車にもまして叡智がひらめくのです。彼女の軽快に床を踏む靴先で私達の心臓にパミルの隧道をつくるぐらいは訳ないことなのです。
私が彼の興奮をさえぎって単刀直入に、
――アダを私に世話していただけませんか。と、切り出すと彼は熱情を鞘におさめてから冷淡に私に答えるのであった。
――アダは貴方のお部屋に寝床をとりに行くのです。そして貴方もまた、アダに惚々する私達同志の一人におなりだろうと思うのです。
2
部屋にかえると私は壁の黄色いボタンを執拗に押えつけて印度女の乱暴さをのろうように苛酷に一瞬間を指の先に約束する。次の瞬間私が青い窓から近東の藍色の空を眺めていると電流にのってアダがあらわれてきて、私の夜会服に一輸のネムの花をさすのであるが、忽ち私には彼女がマルセーユの金羊毛酒場の素足の美しい踊姿となって女の耳元で、おい、Y、今晩おれにつきあえよ、と囁く追想の女となるのであった。
マルセーユの夜の酔泥れた女騎兵士官の寝床、売春婦の体温が軍服に滲みでて、私が彼女が卒倒しない程度で号令をかけるのだが、たちまちアダが軍帽の下にクレオンで愛情を描くと、卵色の口を開いて作り声を出すと、ねえ、つきあえよ、Y。妾の愛情、赤いポストにするまで。と、味噌歯を出してわらったのだが、金羊毛の舞踊室から無頼漢の礼讃を象徴するような意気で猥雑なタンゴが響いてくると、急に奔放な馬のような女となって、
――Y、おれはお前が好き、お前なしでは生きていられぬ妾の生命、と、なまめかしく云うのであった。仮装舞踊会のように私は日覆いして夜の明けるのを待ったのだが、タンゴの太い曲線が寝床の夢を誘うように、彼女が夢のなかで、
宵闇せまればレジエント街の並木道を
満艦飾の女が馬車で
カールトン・バアで卸して頂戴ネ
と馭者に云う
と、低唱しながら屡々、ちえ! 田舎医者奴! と繰りかえして寝言を云うのであった。また、大切なところで彼女は東洋の霊のような鼾をかいて寝てしまうのだが、私は彼女の肉体に金羊毛酒場の女としてふさわしくないところがあるのに気付くのであった。そのカバレット・トア・ズン・ドルの淡い憶いがネムの花に夢のように、あらわれるのだが、彼女は何もかも知らぬふりをして、私の用事を待つ、それが英国種の牝犬のように無関心な顔をして、その実細心なデコルテを内にかくしてかしこまっている。よんどころなく私はシネマの伴奏のような諷刺的な説明をはじめた。
――やあ、アダ。僕はマルセーユから催眠酒をのまされたような意識を失って近東行の急行列車に乗ると昏々とマホガニイの寝台でフロレンス辺まで吊されていたらしいのだ。伊太利女の堅気な臭にふと眼が覚めると廊下でフランス人の車掌とイタリー人の官憲とが僕を指して僕のワイシャツに僕のフランスの港の生活が絵のように書いてあると云ってわらっているのだ。そして、僕を支那の北方の商人だろうと云っているのだ。南京方面の商人が前後不覚でマルセーユからベニスあたりまで寝ているなんてことはあり得ないことですからね。てっきり僕は北方の田舎者だと思われてしまったのです。で僕はむくむく起きあがると贅六らしくだらしなく身繕いして、そっと自分の服装を見たんだが、カバレット・トア・ズン・ドルの歴史がべたべたそのまま張られているのに気がついたのです。金羊毛の踊子の白粉が夜会服のシルレルに、アドリア海にも似た陸地の汚点をつくっていると、シルクハットには女の腕に巻いた跡が緑色のリボンをつけてはねかえっているのです。胸当はとみるとセバのシャンパンで死海の水で洗濯したように波立っているのだが、胸当の間には東洋の女の唇の跡が朝顔の花がしおれたように残っているのです。
――しあわせなことに汽車がブルガリア領に入れば商人は伊太利人の武士気質に禍いされなくて思うままに我意を通すことができるのです。僕は着ていた猫の舌で一杯の衣服を脱いで、しかつめらしく恋の密輸入物をトランクにしまうと一寝入りするつもりで車窓からボスニヤ平原に咲く砂糖黍の花の香いを嗅いでいるうちに、すっかり追想的になってしまったのだ。汽車が土耳古に這入ると車中の美しい女はみんなばたばた下車してしまって孟買までの通しの切符を持った英国人の布教師の博物館のような顔と、目に見えて黒いものが車室にふえてくるのです。ボスボロス海峡で過去の汚いものを洗い清めて東西の国境に足をまたげ、土耳古の空を見上げたときは現代の世界が実業家によって支配されるってことが非常に僕を得意にしてケマル・パシャが尻に錨をつけて黒海を泳ぐさまさえ可笑しかったのです。コンスタンチノーブルから乗りこんだ女実業家の数人が談論の花を咲かして、僕を勇気づけてくれたにもあるのだが僕はいまに土耳古が商工業に於ける世界の中心地にさえなると思うのです。
――しかしやがてイスポリの燈台を離れて、エルアルズのコーカサスの山脈が静かに黒海に映るころになって、トレビゾンドの赤土のプラットホームに女実業家達が下車すると夜は神秘に地球はハンモックのなかで眠りだすのです。すると僕はとんでもない忘れものをしたことに気が付いて象徴的にさえ感じられる露西亜の暗闇を疾走する列車の窓から北欧に向ってわめきたいような衝動にかられるのです。僕はマルセーユのカバレット・トア・ズン・ドルの東洋の女を一人忘れものしたのです。
話の尾を切ってしかつめらしくアダの顔を覗いて見る。するとアダがくすくす忍びわらいして可笑しさがこみあげると、私の脚を嫌というほど蹴って、それからくるりと後向きになるとアダはセルビア戦争で使用したような鼻を鳴らして部屋から飛出してしまった。
それなのにものの一間もがたがたと床を踏んだかと思うと踵をかえして大胆に私を藪睨して、英国人らしく鼻に疣をつくって、
――まあ、Y。妾は悔しいのです。いつまでも妾を女騎兵中尉だなんて思わないでください。貴方が妾をスラブ民族みたいに取扱うのはとりもなおさず妾を馬鹿者あつかいにしている証拠です。いまでは妾が立派な女で、妾は妾のことを北欧の名門の生れだとさえ吹聴しているのです。
私が慇懃に彼女に、
――お祝いしますよ、アダ。トア・ズン・ドルの板場稼ぎよりその方が僕にとってどのくらい嬉しいかわからないのです。
するとアダはレデイ振って、右足を後に引いて心もち腰をかがめる犬の真似をした。(彼女が堅気らしくコオセットのボタンに仕掛けた護身用の爆弾の火薬の臭がする。病毒にもましてこれは危険きわまる女らしさ。)
――Y、妾が契約の最期の営業を終えたときは夜も白々と明け渡っていたのです。人間というものは甘みとか、苦しみとか臭さ、そういう性情が生活に適応して、そこに味いとか臭とか、或いは他の感覚が惹起するものなのです。妾は即座にカバレット・トア・ズン・ドルにお別れを告げると、ローヌ河でパンツを洗濯してすっかり清浄な心と魂を持つ女になったのです。――それから、妾はコルシカで英雄の鏡を買うと地中海でその女大学に読み耽りました。ポートサイドでレモンの皮のはいった塩水で嗽をしてスエズ運河の両岸の夜景に挟まれて身の丈を長くした妾は天晴れ一人前の女になったのです。紅海では人々があまりに情熱的になるものだから妾は嘔吐をもよおしたほどです。
――アダ、僕はまた、貴女が金羊毛で故国の女王の詩を朗読するルーマニアの士官とゼノアの産児病院あたりへ身を殺しに行くのではないかと気づかったのです。ときによってジャズ・バンドがビビの音楽をやっているとき、死海の水に映って正気を失った士官に貴女が抱かれて、独逸仕込の接吻の洪水のなかで、彼奴がロメオとジュリエットの名台詞を彼がネロのようにそりかえって早口で喋舌るときは全く貴女を薄倖の踊子だとさえ思ったのです。その夜ルーマニア人が浮気の虫を……におろしに行った間、
「――おい、Y、今晩はおれにつきあえよ――」
と、貴女が云ったのです。それから寝室で始めて貴女が正体もなく酔ってるってことがわかったのです。それからまた夜半になって貴女が金羊毛の名にふさわしくないところがあるのに気付いたのですが、そのときには私はあの卑怯なルーマニアの暴漢のために、近東行きの列車に投げ込まれてしまっていたらしいのです。だがそのことにもまして私が云いたいのは、そのときから私は貴女を愛していたのです。そしていまもなお私の愛に変りのないことを知ってもらいたいのです。
――妾はルーマニア人と契約しただけなのです。ルーマニア士官の妾がパートナアであった間、彼の男の訓練があまりに深刻なので妾には感覚したり、知覚したり、思考したりする余裕がなかったのです。しかしY、妾が貴方に会ったとき、始めて感覚や知覚や思考ってものは直感からくるってことが分ったのです。妾は勇気を出して翌朝彼が提出した新しい契約を破棄してしまいました。それからのことは妾がさっきお話したとおりです。
――アダ、貴女は日本人が恋しくなったのでしょう。
――聞いてください、Y。妾は亜丁湾を横切って孟買に一路船が進行をつづけるころになると急にアラビア海に顔をうつしてお化粧を始めてしまったのです――。
突然パーシの夜の鶏が戸外で鳴き出すと、アダはいらいらして、その他に別に用事はないかと私にたずねる。私がなくてもよいうるさいほどの用事を彼女に申し出るとアダは一つ一つそれを諳記して窓から暗のなかに投棄ててしまうのであった。
私は少し興奮して孟買の私達の邂逅に懐古的な黒い騎士の心をもって、
――アダ、できることなら貴女のために私は何かすることはないかと思うのです。
すると彼女は夫の寝室を訪れた英国の女らしくドアを閉めながら、では、お寝みなさい。と、云うとそのまま扉が固く閉ざされてアダの足音は遠く消えてしまうのであった。
翌朝、私は馬車でオスタ島の砲台附近の印度のイサックの別荘に招かれて、黒奴の紳士と会談するのであったが、でかけるときにアダは私に姿をちらとみせると故意に姿を隠してしまった。赤丸平家に帰ってからもいたずらに空中に聳える時計台の白い針のみが部屋の窓に侵入して私をいらいらさせた。その翌日は彼女は私に姿さえ見せないのである。私はあわただしい一日を西北のマラバ丘の六個の円筒を見てくらした。土人街では女達がわめいている。スークル・カ・バッチャ、この豚の子奴!
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