私の見た少女 おさやん
おさやん
おさやんと私は従妹(いとこ)です。真実(ほんたう)の名前は龍野(たつの)さくと云ふのです。私とおさやんは同年(おないどし)でしたけれども、おさやんは三月に生れて私は十二月に生れたからまあ一歳(ひとつ)違ひのやうなものだと私の母であるおさやんの叔母が何時(いつ)も云ひますのを、私は小い時分から真似して其(その)通りのことを云つて居ました。それにおさやんは龍源(たつげん)の叔母の子として一番大きい子で、私は兄弟の中で末つ子に近い方でしたから、一方は大人びて私は子供々々しくて三月と十二月の違ひばかりでなくおさやんは私を妹あつかひにして居ました。おさやんの家は酒屋でした。なつかしい、気の好(い)い遊び相手だつたおさやんを思ひますとまづ目に山のやうに高い大きい酒樽(さかだる)の並んだ幻影(まばろし)が見えます。光線を多く取つてない私の郷里などの古い建築法で造られた家は、中の土間へ入ると冬でも夏でも冷々(ひや/\)とした風が裾から起つて来るのでした。中浜通りの小林寺町(せうりんじちやう)と云ふ所にそのおさやんの家はありました。私は大抵の場合自分の家の「べい」と私が極く小い時分から私だけの特殊な呼名を附けて居た老いた女中と一所(いつしよ)に龍源へ行きました。もう一人の叔母の家がその二三町先にありまして、私は其処(そこ)へ行つた帰りを龍源へ寄るのが例でした。黒くなつた大きい酒屋看板を遠くから見て私の小い胸は先づ轟(とゞろ)いたものです。而(しか)し私は恥しがりの子でしたから鹿喰(しゝくひ)と云ふ叔母の家ででも龍源ででも余り座敷へ上つて遊ぶやうなことはありませんでした。鹿喰では金魚池の傍(そば)まで庭口から行つて見るだけで、龍源の家ででもお雛様の時の外(ほか)は大抵遊ぶのは裏庭の蔵の蔭で、筵(むしろ)を敷いて小樽を幾つも並べたり、二つの樽に板を渡したりした上で玩具(おもちや)を弄(もてあそ)んで居たのでした。おさやんと私の小学校はもとより違つて居ました。おさやんは晴々とした顔で、色の白い目の大きい口元の美くしい人形のやうな少女でした。友染(いうぜん)の着物に白茶錦(しらちやにしき)の帯を矢(や)の字(じ)結(むす)びにして、まだ小い頃から蝶々髷(てふ/\まげ)やら桃割(もゝわれ)を結(ゆ)つて、銀の薄(すゝき)の簪(かんざし)などを挿して、住吉祭(すみよしまつり)の神輿(みこし)の行列を私の家へ見物に来て居る時などは人が皆表の道に立留つておさやんを眺めました。私は髪もお煙草盆(たばこぼん)で、縞(しま)の着物に水色の襟(えり)を重ねて黒繻子(くろじゆす)の帯をさせられて居ました。私と私の妹とおさやんの三人で堺(さかひ)の街の北の西の端の海船(かいせん)と云ふ所へ、それも夏祭などのおよばれに行つて居ますと、同じ堺でも其処等辺(そこらへん)の人は私等を見知つて居ませんから、
「兄弟やらうけれど、姉(ねえ)さんが一番綺麗(きれい)な子やな。」
などと云つたりして居ました。おさやんは私の母から私よりも大切なのかと思ふ程に可愛(かは)ゆがられて居ました。おさやんは庭から帰るやうなことをせずに私の家では家の人のやうに用の手伝ひなどをして居ました。
私はおさやんに関りのあることで恥しいことをお話ししなければなりません。私の七歳(ななつ)か八歳(やつつ)ぐらゐの時に、私の母の両親は極く近い所にある私の家の借家を隠居所にして居ました。龍源の叔母はよくおさやんを伴(つ)れて其(その)隠居所へ来て居ました。私もよく其処(そこ)へ行つて居ました。其(その)時分に女の子が江戸紫(えどむらさき)の無地の帯をすることが流行(はや)つて居たと見えまして、或時二人は自身達の帯の色が同じであることを発見して喜びました。けれどもおさやんのは縮緬(ちりめん)で私のはメリンス地でした。二人はまた其(その)事にも気が附いて来ました。けれど何とも口に出しては云ひませんでした。それは今した喜びを直ちに打ち壊すやうなものであると思つたからでした。二人は其(その)日に限つてお祖母(ばあ)さんが入れて上げようと云ふものですから隠居所のお湯に入りました。そして上つて出た時に、私は縮緬の方のおさやんの帯が一寸(ちよつと)して見たくなりました。もとより意識して私はおさやんの帯で貝(かひ)の口(くち)を結んで後(うしろ)へ廻しましたそしておさやんの気の附かないうちにまた解いて置かうと思つて居ます所へもうおさやんが出て来ました。私は顔が真紅(まつか)になつてどうすることも出来ませんのでしたがおさやんはしらずに着物の紐をしめたりなどして居ました。
「それあんたの帯。」
「……」
「私の帯やわ。」
「………」
「かへしとくなはれ。」
私は黙つたまゝ帯を解いておさやんに渡しましたが悲しくてなりませんでした。恥しくてなりませんでした。淋しい心持がしてなりませんでした。三十年経つた今でもおさやんの方の帯をして後(うしろ)へ廻してから前の方を撫でて見た時の縮緬の手触りがまた忘れられもしません。
女学校へ入つたらおさやんと私は一所の教場になるのだとよく二人で云ひ会つて居ましまたが、おさやんは町の裁縫師匠の処へ縫物子(ぬひものこ)になつて行くことになりましたから二人は終(しま)ひまで一所の学校へは通へませんでした。それからも月のうちに一度二度は逢つて居ましたがだんだん昔のやうに心から笑ひ会つたり泣き会つたりすることが出来なくなつて来ました。それは二人の考へが余程離れたものになつて居たからです。そのうちおさやんの家が蔵を壊して其処(そこ)で緞通(だんつう)を織り初めたと云ふことを出入の人などが噂しました。
「お気の毒なことだす。龍源さんでは嬢さんも職工と一所に緞通を織つておいでになります。お悧好(りかう)な方(かた)だすよつてもう機持(はたも)ちにおなりになつて、一本おきの二本などと大きい声で云つておいでになるのが聞えます。嬢はんはさうして朝から晩まで働いておいでになります。」
私はこれを聞いて悲しがりました。逢つた時に慰めようと思つて居ましたが、私の家(うち)へ来てはゆめにもそんなことをして居るとおさやんは云はないのですから、私の方から云ひ出すことも出来ませんでした。そして芝居の噂などばかりをおさやんはしました。私はおさやんの家の蔵のある六軒筋(ろくけんすぢ)の道から二本おきの幾本などと云ふおさやんの声を聞いて見ようかともよく思ひました。かなり感傷的になつて居ましたから其(その)声を聞いて泣いて見たいやうな気があつたらしく思はれます。其(その)時分からおさやんの美くしさは月々減じて行くやうに見えました。私にはそれも悲しいことであつたに違ひありません。私はおさやんが私よりも醜くなつて来たと聞くことが厭(いや)でなりませんでした。龍源の叔父が中浜(なかはま)の家を売ると言ふことで親類達が私の家などに寄つて相談して居るのを聞きまして、親類の人が皆可愛ゆがつて居たおさやんの家のさうなるのを誰か一人でも助けてやる人はないのかなどと思つて大人を憎くさへ思ひました。おさやんは手紙などをちつとも書かない人ですからどうして此頃(このごろ)は居るのか私は知りません。もう堺には居ないのでせうか、気の好(い)い遊び相手だつたおさやん。
私の見た少女 山太郎のおみきさん
山太郎のおみきさん
私がこれまで少女時代のことを書きまして、初めて見た美しい友達と云ふやうなことがもう誰かのことに云つてありましたら、それはそれを書いた時の思ひ違ひで、私の小さい時に初めて知つた優しい美くしい少女は加賀田(かがた)おみきさんの外(ほか)にはありません。二人は何時(いつ)頃から一所(いつしよ)の組になつたのでせう、それはもう余程小さい頃のことで、何年級制にならない何級制だつた頃のことかと思ひます。其(その)時分の私は外(ほか)にお友達があることは全(まる)で知らないやうに、学校の遊び時間には加賀田さんとばかり遊んで居ました。
加賀田さんの家(うち)は堺(さかひ)の最も旧(ふる)い家でした。山太郎(やまたらう)とその家のことを呼んで居ました。 余りに勧められまして、私は或時初めての友人訪問に加賀田さんの家(うち)へ行きました。玄関へ加賀田さんが出て来て、上れと云はれて憶(おく)し心を隠して其(その)人に随(つ)いて行きますと、幾室かを通つてそれから出た所は明るい庭の前でした。その縁側は一間(けん)以上もある幅で、そして何処(どこ)まで行けばしまひになるのか一寸(ちよつと)解(わか)らないやうに思はれるほど長く続いて居るのです。築山(つきやま)も池も花の植つた所も子供の目には見渡し切れなく思はれました。自分などの家と此処(ここ)との懸隔が余りに甚しいので、初めの廊下を曲つて更にまた折れた所の廊下がまた長く、然(しか)も庭の向うにはまだ幾棟かの建物があるのですから、それを見まして、心細いやうな一種の悲哀を覚えまして、
「私もう帰ります。帰りたくなつて来ました。」
と私は云ひました。
「何故(なぜ)。」
と加賀田さんは失望したやうに云ひました。
「何故でも帰りたくなつたの。」
「私の部屋がまだ遠いからだすか。帰りには彼方(あちら)から行けば直ぐ玄関へ出られます。」
と云はれましたけれど、私は、
「また来ますから今日は帰らせて下さいな。」
と云ひ通して、何千石かの酒の造られる匂ひの何処(どこ)からとなくする加賀田さんの家(うち)を出て来ました。それから間(ま)もなしに、加賀田さんが私の家へ来てくれたことがありました。私はそれまで外の方(かた)の処へ行つたことも尠(すくな)い代りに友達を家に迎へたのもこれが初めでした。ですからこんな時にはどうして遊ぶものか、友達も自分も面白いやうにするのはどうするのかが私の経験のないことで解らないのです。街の中の狭い家ですから庭などは四坪(つぼ)か五坪位よりもないのですからどうしても室内で何かをしなければならないのです。人形を並べたり、小切(こぎれ)を出して見せたりはしても直ぐまた二人は膝の上へ手を重ねて置いて、今に楽みと云ふものが二人の傍(そば)へ自然に現れて出て来るはずだと云ふ風(ふう)に待たれるのでした。加賀田さんが、
「私もう帰ります。」
と云ひ出しました。
「さう。」
私は悲しくなりました。
「帰りたうなりましたから。」
「そんならお帰りなさいな。」
前の時に私がしたことを思ふと留(と)めることは出来ないのでした。かうして二人の会合は二度とも失敗に終つたのです。
それから一年か二年か経つてのことだと思ひます。次のやうなこともありました。学校のお午(ひる)に生徒の半分程は自家(うち)へ帰つて食事をする人でしたが、私も加賀田さんもその仲間でした。それで或時私は、
「ねえ加賀田さん、学校では好きぢやない方(かた)も交つて遊ぶのですから、私それよりもいゝことはないかと考へましたの、あのお午(ひる)に帰りました時ね、学校の太鼓のなるまでお旅所(たび)の処の大きい燈籠(とうろう)へ上つて遊ばないこと。」
こんな提議を加賀田さんにしました。
「さうだすな、二人でお家(うち)ごつこなんてして遊んだら面白うおますやろ、今日行きませう、燈籠へ。」
加賀田さんは直ぐに賛成をしたのでした。私は其(その)日のお昼飯を平生の半分の時間も使はず済ませて、急いで加賀田さんの門口(かどぐち)まで行きますと、もうおみきさんは先刻(さつき)から待つて居たと云ふのでした。二人は手を引き合つて住吉(すみよし)神社の宿院(しゆくゐん)のお旅所(たびしよ)の隣にある大燈籠の所へ行きました。石段が五六段あつて、二つの燈籠の並んだ廻りの石も二尺位の幅のあるものなのです。その二三日前に見知らない子が二三人その上へ上つて遊んで居るのを見て私は羨しく思つたのです。初めて上へ上つて見ますと、地上からは一丈(ぢやう)も離れて居て、向うの青物市場(あをものいちば)などがよく見えて面白いのです。二人は燈籠と燈籠の間をお廊下だと云つて通つたり、二階から降りませうと云つて下へ降りたり、花園へ行くと云つて玉垣(たまがき)の傍(そば)に生えた草を摘んだりして居ました。丁度(ちやうど)二人が上に居て燈籠の脚元(あしもと)へ腰を掛けて居ます時に、突然わあつと云ふ声がして、ばらばらと穢(きたな)い物が寄つて来ました。それは乞食なのです。
「おい、何をしてる。」
「阿呆(あはう)。」
「降(お)れ、降(お)れ。」
「此処(ここ)は此方(こつち)の仲間のやで、おまん等(ら)の上る所やないで、阿呆。」
「えらい目に合せてやる。」
男も女も混つた子供の乞食なのですが、その着物のぼろ/\さは東京の乞食のやうなものではないのです。山蔭(やまかげ)の土に四月(つき)も五月(つき)もひつゝいて居る落葉のやうなものを着て居るのです。竹の棒やら、木の片(はし)やらを皆持つて居て私等の足に近い所を叩いて居るのです。私等二人は余りの驚きに物が云へなくなつて居ました。手をしつかりと取り合つて二人が狭い石段を降りますのに、下駄の先ががた/\と鳴つてなりませんでした。慄(ふる)へて居たのでせう。もう走つて行けばいゝのであると二人が思つて居ますと、
「おい。」
「唖(おし)か。」
二人は首を振りました。
「そんなら銭を持つてるやろからおくれ。」
二人はまた首を振りました。
「持つてへんで、阿呆やな。」
と一番大きい女の乞食が云ひました。
「そんならお菓子でもえゝやないか。」
と仲間の顔を見廻して云ふ乞食もあるのでした。
「鉛筆でもえゝ。色紙はないのか。」
何物かを私等から取り上げないでは済まさないと云ふ風(ふう)なのです。二人は唯(たゞ)胸をわくわくさせて居るばかりでしたが、そのうち巡査の影が見えたのでせう、乞食はまたばら/\と逃げて走りました。
加賀田おみきさんが病気か何かで暫(しばら)く休んで居たせゐなのですか何時(いつ)の間(ま)にか二人は一級違ひになつて居ました。おみきさんは小さい頃は習字などが私よりもずつと上手で大抵の試験に一番の席を取つて居た人でした。人形のやうに毛の厚いおけしを頭に置いた、色の白い目の切れの長いおみきさんは小さい声で物を云ふ人でした。
底本:「私の生ひ立ち」刊行社
1985(昭和60)年5月10日発行
入力:武田秀男
校正:福地博文
ファイル作成:野口英司
1999年3月3日公開
2001年11月16日修正
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