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私の生ひ立ち(わたしのおいたち)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-11-22 10:51:04  点击:  切换到繁體中文

 


私の見た少女 南さん

南さん

 南(みなみ)みち子さんは丈の短い襟掛羽織(えりかけばおり)を着た人でした。今から三十年に近い昔の其(その)頃の風俗は、総ての子供が冬はさうした形の襟掛羽織を着て居たに違ひありませんのに、私が特に南さんの羽織の短かさばかりを、その人のなつかしさと共に何時(いつ)も思ひ出さずに居ないのは、南さんの着た羽織は誰のよりも綺麗(きれい)なものだつたからだらうと思ひます。外(ほか)の子は双子(ふたこ)や綿秩父(めんちゝぶ)や、更紗(さらさ)きやらこや、手織木綿(ておりもめん)の物を着て居ます中で、南さんは銘仙(めいせん)やめりんすを着て居ました。藍(あゐ)がちな紫地に小い紅色の花模様のあつたものや、紺地に葡萄茶(えびちや)のあらい縞(しま)のあるものやを南さんの着て居た姿は今も目にはつきりと残つて居ます。それに南さんは色の飽(あく)まで白い、毛の濃い人でしたから、どんなものでも似合つて見えたのであらうと思はれます。目の細い、鼻の高い、そしてよく締(しま)つた口元で、唇の紅(あか)い人でした。南さんは大分(だいぶ)に大きくなるまでおけし頭でした。併(しか)し私がまだおたばこぼんを結(ゆ)つて居た時分に、南さんはおけしの中を取つて蝶々髷(てふ/\まげ)に結つて居ました。ですからもう差櫛(さしぐし)が出来たり、簪(かんざし)がさせたり、その時分から出来たのでした。南みち子と言ふ一人の生徒を羨まないのは、学校の中でも極めて小い組の人達だけだつたであらうと思ひます。どの先生も南さんを大事な生徒としておあつかひになるのでしたが、生駒(いこま)さんと云ふ校長先生にはそれが甚しかつたやうでした。私の小学校は千人近い生徒を収容して居て、大きい校舎を持つて居ましたが、その応接室は卓(ていぶる)を初め卓掛(ていぶるか)け、書物棚、花瓶までが南家の寄附になるものだと校長が生徒を集めて云つてお聞かせになつたこともありました。南さんは家の通称を孫太夫(まごだいふ)と云ふ大地主の一人娘だつたのです。南さんの家のある所は堺(さかひ)の街ではなく向村(むかふむら)と云ふのですが、それはいくらも遠い所ではなく、ほんの堀割(ほりわり)一つで街と別になつて居る村なのです。南さんの家は薄黄(うすき)の高い土塀の外を更に高い松の木立がぐるりと囲つて居ました。また庭の中には何蓋松(なんがいまつ)とか云ふ絵に描いたやうな松の木や、花咲く木の梢(こずゑ)の立ち並んで居るのが外から見えました。野からその南さんの家の見えますことは一二里(り)の先へ行つても同じだらうと思はれる程大きいものでした。私の同級生の幾人かは日曜日毎に南さんの家へ遊びに行きました。私はそんな人達から一尺程の金魚の沢山沢山居ると云ふ池やら、綺麗な花の咲いた築山(つきやま)やら、梯子段(はしごだん)の幾つにも折曲つたと云ふ二階や、中二階、離座敷の話をして貰ふのが楽みでした。けれど私は人並を越した恥しがりでしたから一度も自身で行つて見たことはありません。南さんには何時(いつ)も一人の女中が附いて居ました。その時分の生徒が茶番(ちやばん)さんと云つた小使(こづかひ)の部屋で女中はお嬢さんのお人形を造つたりして何時(いつ)も待つて居ました。帯をだらりに結んで、白丈長(しろたけなが)を掛けた島田の女中は四五年の間何時(いつ)も変らぬ同じ人だつたやうに思つてましたが、真実(ほんたう)は幾度か変つた別の女中だつたのかも知れません。
ある時に先生は、
「あなた方室暖(まぬく)めと云ふものを知つて居ますか。」
と云ふことから暖炉(すとーぶ)の話をして下さいましたが、
「南さんのお家(うち)にだけはあるでせう。」
 こんなことをお云ひになりました。私はこの時受くべき理由なき侮辱を私達は受けたと胸が鳴りました。ところが、
「私の家(うち)にそんなもの御座いません。先生。」
 かう淡泊に南さんの答へたのを聞いて、私は瞬間の厭(いや)な心持が一掃されました。私はそれから一層南さんをなつかしく思ふやうになりました。その学校では、何か式をしたりするときには、先生から生徒へ、
「皆さんのお家(うち)の庭に花が咲いて居ましたら、それを少しづつ持つて来て下さい。」
 こんな注文をなさいました。堺は古い昔から商業地になつて居まして、店や工場を重(おも)にして建築した家が多いのですから、庭はあつて常磐木(ときはぎ)の幾本かは大抵の大きい家にはあるとしても、底花の木や草花を養ふ日光が入りやうもありませんから、こんな時に生徒は花屋へ駆け附けるより外(ほか)の方法はなかつたのです。母に頼んで五銭(せん)程の支出をして貰ひまして菊の花の二三本、春なら芍薬(しやくやく)の一つぐらゐを持つて行くやうな人ばかりでしたが、そんな時に南さんの家からは大きい車に花の切枝(きりえだ)を積んで下男に学校へ曳かせて来ました。南さんは行者久(ぎやうじやきう)さんと云ふ盲目(めしひ)で名高い音曲(おんぎよく)の師匠の弟子の一人でした。小いうちから琴も三味線も胡弓(こきゆう)も上手だつたのです。その師匠の大ざらへに沢山刺繍(ぬひ)のした着物を着た南さんが三四人の附添ひと一緒に舞台へ行くのを会場の廊下で見ました時、私は南さんをお姫様のやうな人だと思ひました。学校の成績(せいせき)も私より南さんの方が確かに好(よ)かつたと思つて居ます。南さんは私によく、
「私の府会議員の叔父さんはおどけものですよ。私をからかつてばかりいらつしやるのですよ。」
「そのお方の家(うち)は何処(どこ)。」
「私の家(うち)の中よ、別になつて居ますけれど。それからね、その叔母さんもあるのですよ、その人はものを云はない人よ。叔母さんは母様(かあさん)が私を大阪へ伴(つ)れていらつしやる時には本家へ来て留守番をして下さるの。」
 こんな話をして聞かせました。またその父や母に就(つ)いての暖い噂も始終聞かせてくれました。兄弟のない一人子(ひとりご)と云ふものの羨しさを私の子等と一緒に思ふことが多かつたのです。お金持でなくても一人子なら好(い)いとも思ひました。私などは一月(ひとつき)のうち三言も父が言葉を掛けてくれるやうなことは稀有だつた程ですから物足りなかつたのです。私と南さんは女学校でも一緒の教場に居ました。此処(ここ)では小学生の私がお姫様のやうに思つて居ました南さんよりも更に綺麗な着物を着たり、華やかな風采をもつた友達が多く出来ましたけれど、やはり私の一番なつかしい人は南さんでした。朝は時間を云ひ合せて街角で出合つて登校をして、帰りも必ず一緒に校門を出ました。杏(あんず)の木の下の空井戸(からゐど)の竹簀(たけず)の蓋にもたれて昼の休時間は二人で話ばかりして過しました。
「大阪に梅(うめ)の助(すけ)と云ふ役者があるの、綺麗な顔ですよ。この間(あひだ)ね、お小姓(こしやう)になつたの、桃色のお振袖(ふりそで)を着てましたよ。」
 かう一度南さんの噂に出ました役者はそれから間もなく死んだと云ふことです。私等は十五の歳(とし)に女学校を卒業しましたが、南さんはそのまゝお下(さが)りになり、私は補習科に残りましたから、淋しく物足らない思ひをすることも屡(しば/\)ありました。後(のち)に聞きますと一人子だと羨んだ南さんは養父母に育てられて居た人だつたのださうです。議員の叔父さんと云ふのが真実(ほんたう)のお父様だつたのださうです。


私の見た少女 楠さん

楠さん

 楠(くすのき)さんは真宗寺(しんしゆうでら)の慈光寺(じくわうじ)の娘さんでした。私はかう書き初めて其(その)頃楠さんの年齢(とし)はいくつぐらゐであつたのであらうと思つて見ますが解(わか)りません。これは忘れたのではなくて、私と楠さんが一級の中で最も親しかつた時にも知らずに過ぎたことだつたのです。唯(た)だ私より年上であつたことを云つて置きませう。私の居ました堺(さかひ)女学校と云ひますのは小学校の四年級から直ぐに入れる程度の学校でしたが、本科と裁縫科の二つに分けられて居ました。裁縫科の生徒は一週間のうち三四度本科の教場で修身(しうしん)と家政の講話だけを私等と一緒になつて聞くのでした。どう云ふわけか裁縫科の生徒は本科の生徒に比べて大人らしくなつて居ました。ですから最も初めに楠さんと逢ひました時の私がおけし頭であつたのに比べて楠さんは大きい銀杏返(いてふがへ)しにも結(ゆ)つて居ました。楠さんは裁縫科の生徒だつたのです。顔だけを見知つて居まして私と楠さんは物を一言云つたこともないままで二年生になつてしまひました。丁度(ちやうど)其(その)頃高等師範をお出になつた遠山(とほやま)さんと云ふ方が東京から私等の先生になりに来て下さいました。遠山先生はおいでになつて間もなく修身の時間に、今日は裁縫科の方に希望を述べるとお云ひになりまして、
「あなた方は裁縫を重(おも)に習つてお家(うち)の手助けを早く出来るやうになるのを楽みにしておいでになるのでせうが、私は少しあなた方に考へて頂きたいことがあるのです。女は裁縫をさへ上手にすれば好(い)いと思ふのは昔風な考へで、世界にはいろいろな国があつて知慧の進んだ人の多いこと、日本もそれに負けて居てはならないと云ふことを思ふことの出来る人なら、智慧を磨くための学問の必要はないなどとは思へない筈(はず)だと思ひます。」
 こんなことからお説き出しになつて、一身上の事情が本科を修めてもいい人なら皆本科にお変りなさいと云ふことをお云ひになりました。その次の週に今迄本科の教場で誰かの空席を借りて講義を聞いた裁縫科の生徒の二人が私達の机の傍(そば)に自席を持つやうになりました。その一人は楠さんでした。感心な方(かた)だと思ひながらも人一倍はにかみの強い私は楠さんに特に接近をしようとも思ひませんでした。今一人の人のことは忘れてしまひましたが楠さんは其(その)次の学期試験に一番になりました。其(その)時の皆の嫉妬はひどいものでした。楠さんは気の毒なやうに憎まれました。私は楠さんの年齢(とし)を自分達よりも六つ七つも上のやうに噂をする者があつても、そんな筈はないと理性で否定をして居ました。遠山先生の所へ学科の復習をして頂きに行つたと云ふことを聞いた時にはまた、そんなことも必要ならしてもさしつかへはない、楠さんは自己のために善を行つたのだと判断をしました。席順で並べられてあつた机も私のと楠さんのとは極く近かつたのですから、其(その)時分から私は楠さんと交際をし初めました。或時私は楠さんに、
「今月のせわだ文学と云ふ雑誌に面白いことが載つて居ました。」
 こんなことを云ひました。
「せわだ文学、せわだ文学。」
と楠さんは首を傾けました。
「早いと云ふ字と、稲と云ふ字と、田と云ふ字を書くのです。」
「それではわせだ文学でせう。」
「それをせわだ文学と読むのですよ。」
「さうでしたか、私はわせだ文学だと思つてました。さう読むのでしたかねえ。」
「さうらしいですよ。」
 私はそれから裁縫の教場へ入りましたが、早稲田をせわだと云つた自分の説に不安の起つて来るのを感じました。私の頬はもう熱くなつて居ました。誤つたと思ふよりも先に恥を感じたのです。早く実の出来る稲は早稲(わせ)ではないか、それに田が附いて居るからわせだなのだ、私は最初にふと誤つた読癖(よみぐせ)を附けてしまつて誤りを知らずに居たので。楠さんの云つたことが正しいのだ、楠さんにはそれが解つて居るのに私を反省させるために譲つてお置きになつた、真実(ほんたう)に楠さんに済まないと思ひました私は、裁縫の教場では私等よりずつと高い級に居る楠さんの所へ走つて行きました。
「楠さん、先刻(さつき)の雑誌の名はやつぱし早稲田(わせだ)文学でしたわ。」
 大決心をして詫びようと思ひましたことも口ではこれだけより云へませんでした。私はそれから少し経つてからある日曜に寺町の大安寺(だいあんじ)へお祖母(ばあ)さんのお墓参りをしました時に楠さんを訪ねて行きました。その慈光寺の門には金の大きい菊水(きくすい)の紋が打たれて居て、其(その)下に売薬の古い看板がかゝつて居ました。
「お上りなさいな。本なんか出して遊びませう。」
 暗くて広い庫裏(くり)の土間の上り口で楠さんは頻りに勧めてくれましたが、友人の家と云ふ所へ其(その)時初めて行つた私は思ひ切つて楠さんの居間へ通ることをようしませんでした。向うの室(へや)で機(はた)を織つておいでになつた楠さんの母様(かあさん)も出て来て私をいたはつて下さいました。
「では庭ででも遊びませう。」
と云ふ楠さんに伴はれて私は鐘樓の横やら本堂の前やらの草木の花の中を歩きました。今思へばそれ程のこともありませんが其(その)頃の私には慈光寺の庭程美しい趣の多い所はないやうに思はれました。
「私の姉(ねえ)さんは薔薇があれば香水を拵(こしら)へると云つてます。」
 こんなことを私が云ひますと、
「薔薇の花を切つて上げませうか。」
と楠さんは云ひました。私は驚異の目を見張て、
「お父様(とうさん)のお花を切つてもいいのですか、あなたが。」
と云ひました。
「いゝのですとも。ちつとも叱られませんよ。」
「まあ。」
 私は楠さんの得て居る自由を羨まずには居られませんでした。私のために鋏(はさみ)を取つて来て薔薇の花をしよきしよきと切つて落しました。鉢植のも花壇のも高い木に倚(よ)つて咲いたのも好(い)いのは皆切つてくれました。赤いのなどは香(か)が悪いと云つて白や薄黄や薄水色やばかりを切つてくれました。其(その)日私が姉の前で開きました包から百ばかりの薔薇の出ました時の心もちは今思ひ出しましても興奮される程嬉しいことでした。二人がお茶の稽古に行きます日、その初(はじめ)に師家へ納めます金のことで、
束脩(そくしう)と云ふのでせう。」
と楠さんは云ひ、私はまた、
脩束(しうそく)ぢやなかつたかしら。」
 こんな間違ひを云つた記憶もあります。河井酔茗(かはゐすいめい)さんなどの仲間へ私を紹介した人もそれから幾年か後(のち)の楠さんでした。

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