私の生ひ立ち 四 夏祭
夏祭
お正月の済んでしまつた頃から、私等はもうお祓(はらひ)が幾月と幾日(いくか)すれば来ると云ふことを、数へるのを忘れませんでした。お祓の帯、お祓の着物と云ふことは、呉服屋が来て一家の人々の前に着物を拡(ひろ)げます度に、私等姉妹(きやうだい)に由(よ)つてさゝやかれました。大祓祭(おほはらひまつり)は摂津(せつつ)の住吉(すみよし)神社の神事の一つであることは、云ふまでもありませんが、その神輿(みこし)の渡御(とぎよ)が堺(さかひ)のお旅所(たびしよ)へある八月一日の前日の、七月三十一日には、和泉(いづみ)の鳳村(おほとりむら)にある大鳥(おほとり)神社の神輿の渡御が、やはり堺のお旅所へありますから、誰もお祓と云ふことを、この二日にかけて云ふのです。住吉さんのお渡り、大鳥さんのお渡りと一日一日を分けては、かう云ふのです。それで七月三十日から、もうお祓の宵宮祭(よみやまつり)になるわけなのです。大阪であつても、私の郷里であつても、彼方(あちら)の地方の人は、万人共通に何事かの場合に着る着物の質の標準と云ふものが決まつて居ます。それで宵宮の日には、大抵の人は其(その)年新調した浴衣(ゆかた)の中の、最も善いものを着るのです。唯(たゞ)一枚よりその夏は拵(こしら)へなかつたものは、大人でも子供でも、その日まで着ずにしまつて置くのです。
浴衣を着て涼台(すゞみだい)へ出ますと、もう祭提灯(まつりちやうちん)で街々が明くなつて居ます。私の町内の提灯は、皆冑(かぶと)の絵がかいてあるのでした。隣町は大と云ふ字、そのまた隣町は鳥居(とりゐ)と玉垣(たまがき)の絵だつたと覚えて居ます。私は正月の来る前の大三十日(おほみそか)の日よりも、この宵宮の晩の方が、どれ程嬉しかつたか知れません。紀州の和歌山から、国境の峠を越して来る祭客の中に交つて来る少女(をとめ)達、大阪から来る親類の少女(をとめ)達、其等(それら)は何(いづ)れも平常(ふだん)に逢ふことが稀で、大方は一年振で祭に出逢ふ人達なのですから、その一行(かう)一行(かう)が、明日から明後日(あさつて)へかけて、続続家へ着くことを想像するだけでも嬉しいのでした。何事に就(つ)きましても、正月からもう指折(ゆびをり)数へて毎日引き寄せたく思つた日が、いよいよ目の前に現はれて来るのですもの、来たらじつと捉(とら)へて放つまいと云ふやうに気が上(あが)るのです。大人達も皆嬉し相(さう)で、その夜は例よりも、長く長く涼台が門(かど)に出されてあります。一度蚊帳(かや)の中へ入つても、祭の当日の話が大人達の中に余りはづみ上ると、また帯をして外へ飛び出したくなつたり私はしました。そしていよ/\大鳥さんの日になります。私の家のやうな商買をして居ない人の所では、朝からもうお祭のことばかりをして居ていゝのですが、私の家などは、さうは行かないのです。得意先の注文の殊に多いのがさうした日の常ですから、午前中は私も店の手伝ひに、勇気を出して働かねばなりませんでした。丁稚(でつち)に交つて水餅(みづもち)を笹の葉へ包んだりすることも、手早にせねばなりませんでした。けれどもその騒ぎは、何時(いつ)の間にか土蔵(くら)から屏風や、燭台や、煙草盆や、碁盤やを運び出す忙しさに変つて居るのが例でした。幕が門(かど)に張られ、黒と白の石畳みになつた上敷(うはしき)が店に敷かれ、その上へ毛氈(もうせん)が更に敷かれ、屏風が立てられますと、私等は麻のじんべゑ姿がきまり悪くなりまして、半巾(はんはゞ)の袖を胸で合せて、早く湯の湧くやうにして欲しいと女中に頼みました。そのうち空の雷鳴が遠くから次第に近い所へ寄つて来るやうに響いて、地車(だんじり)の音がして来ます。大海浜(だいかいはま)、宿院浜(しゆくゐんはま)、熊野浜(くまのはま)などと組々の名の書いた団扇(うちは)を持つて、後鉢巻(うしろはちまき)をした地車(だんじり)曳きの子供等が、幾十人となく裸足(はだし)で道を通ります。風呂に入りますと、浴槽(ゆぶね)の湯が温泉でも下に湧き出して居るやうに、地車(だんじり)の響で波立ちます。大鳥さんの日の着物は、大抵紺地か黒地の透綾上布(すきやじやうふ)です。襦袢(じゆばん)の袖は桃色の練絹(ねりぎぬ)です。姉は水色、母は白です。男作(をとこづく)りと云つて小い時から、赤気の少い姿をさせられて居る私等のやうな子のさせられる帯は、浅黄繻子(あさぎじゆす)と大抵決まつて居ました。襦袢の襟(えり)もそれです。頭はおたばこぼんですから、簪(かんざし)の挿しやうもありません。そして私等はその年方々の取引先から贈られました団扇の中で一番気に入つたのをしまつて置いたそれを持つて、新しい下駄を穿(は)いて門(かど)へ出ます。何方(どちら)を向いても桟敷欄干(さじきてすり)に緋毛氈の掛けられた大通りは、昨日(きのふ)と同じ道であるとも思はれないのでした。友も連立つてまた其処(そこ)此処(ここ)の友の家を訪ねる私等の得意さは、天へも上(のぼ)つた程なのです。正月から待ちに待つた日が来たのだからと、心の中では云ふものがありました。私等は時々家を覗きに来ます。それは余所(よそ)からのお客が、もう幾人殖えたかと見るのが楽みなのです。四五時頃には、もう大鳥さんの太鼓の音が、どん、どおん、と南の方に聞え出します。祭列は四町程で尽きます。続いて神輿も通ります。全堺の町が湧き立つやうな騒ぎになるのは、この時から後(のち)なのです。いよいよ大鳥さんの渡御が済んで、人々は真実(ほんたう)のお祓の宵宮の心もちにこの時からなるからです。誰も眠る者などはないと云ふのはこの晩のことでした。家の中には幾十となく燭台が点(とも)されますが、外を通る人々の手に手にした灯(ひ)の明りの方が、更に幾倍した明さを見せて居ました。魚の夜市が初まると云ふので、誰も皆浜辺の方を向いて歩いて行くのです。私の家(うち)のお客様は、皆その夜市を見に行きます。私等は翌朝の住吉詣(まう)での用意をさせられます。汽車があつても祭の各町を眺めて通るのが面白いために、住吉までを車で行くのが多いのでした。夜明の社(やしろ)の御灯(みあかし)の美くしさ、ほのぼのと晴れる朝霧の中の、神輿倉の七八つも並んだ神輿の金のきらきらと光つて居るのを見る快さは、忘れられないものです。蓮池の蓮を見たり、鯉に餌(ゑ)を遣(や)つたりしますことも、何時(いつ)も程落ついては出来ません。気が急いで大和川(やまとがは)を渡る時も、川上の景色、川口の水の色を眺めたりすることも出来ません。朝御飯を食べますともう住吉踊が来ます。
すみようしさんまいの
と拍子ごとに云ふ踊で、姿は白衣(びやくえ)に腰衣(こしごろも)を穿いた所化(しよけ)を装つて居るのです。踊手は三人程で、音頭とりが長い傘をさして真中に立ち、その傘の柄を木で叩くのが拍子なのです。私等はこの時には大鳥さんの宵宮の晩に着た浴衣を着て居ます。昼間浴衣を着て人の怪まないのは夏中でこの日だけ位なものです。この日も晴着に着替へますのは、やはり二三時頃のことです。縮緬(ちりめん)が多く着られます。薄色の透綾も着られます。錦(にしき)の帯、繻珍(しゆちん)の帯が多くしめられます。緋縮緬や水色縮緬のしごきがその帯の上から多く結ばれます。けれども私等のやうな男作りの子は割合軽々とした姿で居ます。扇を今日は皆持ちます。子供心にあらゆる諸国の人が集つたかと思はれた程この日には遠い田舎(ゐなか)からも見物に出て来る人で道が埋つてしまひます。私等はもう昨日のやうに、芝居の花道を歩くやうに、大道を練つて歩くことも出来ないのです。だんだんと街々の騒ぎは高くなつて行きます。新柚(しんゆ)の香が台所から立ちます。祭列を見るのは夜の十時頃です。海のやうに灯の点つた町を通るのでありながら、やはり夜のことですから、お稚児(ちご)さんの顔などは灰白(はひじろ)く見えるだけです。馬上の鼻高(はなだか)さんの赤い面も黒く見えるのです。私は刻々不安が募つて行きます。それは今日に変る明日の淋しい日の影が目に見えるからです。
私の生ひ立ち 五 嘘
嘘
九歳(こゝのつ)位で私の居た級では継子話(まゝこばなし)が流行(はや)りました。石盤へ箱を幾つも積み重ねたやうな四階五階の家を描いて、草書の下と云ふ字のやうなものを人だとして描いて、蒲団(ふとん)[#底本では「薄団」と誤植]の中へ針を入れて置いたりする鬼のやうな継母(まゝはゝ)の話ばかりを、友達等は毎日しました。一人が話し出しますと、大抵七八つの首がその石盤を覗く、そんなかたまりが教場の彼方此方(あちこち)で出来ると云ふのが、遊び時間の光景でした。継子と本子(ほんこ)の名には、大抵おぎん小ぎんが用ゐられて居ました。私はもうそれに飽き飽きしました。今日もまた厭(いや)な話を聞かされるかと云ふやうな悲みをさへ登校する途々(みち/\)覚えました。私はもとより一度も話者(はなして)にはなりませんでした。ところが或日の昼の長い遊び時間に私は、
「今日は私がお話をして上げます。けれど絵は描きません。自分の真実(ほんたう)の話なんですから。」
こんなことを突発的に云ひました。そしてそれから私の話したことは嘘ばかりです。私はその時もう父に伴(つ)れられまして、京都を見て来て居ました。外(ほか)の人達にはその経験がないのです。けれど皆祖父母や親達の口から、西京(さいきやう)と云ふ大きい都、美くしい都の話だけは聞いて居て、多少の憬(あこが)れを持つて居ない者はないのです。一度行つたことのある私は、その以後人の話に注意をして、京でまだ自分の知らぬ名所や区の名などを覚えたり、或いは想像して見たりすることがあつたのです。
「皆さん、私は京都に家(うち)があるのです。今迄隠して居ましたけれど。」
誰一人真実(ほんたう)かと問ふ者もありません。皆驚きの目を見張つて居るだけです。
「では継子なんですか。」
「ええ、けれど私は京に居ても、継母を持つてたのですよ。初めから継子ですよ。」
「可哀相なこと。」
と口々に云つて、私の背を撫でたりする人もありました。何時(いつ)の間(ま)にか外(ほか)の継子話に寄つた人達も私の傍(そば)へ皆出て来ました。
「私の家は京の三条通りなんです。横町は松原通りです。」
松原も三条も東西の通りですが、私はこんなことを云つてました。
「そして家(うち)の左の方は加茂川(かもがは)なのです。綺麗(きれい)な川なのですよ、白い石が充満(いつぱい)あつてね、銀のやうな水が流れて居るのです。東山(ひがしやま)も西山(にしやま)も北山(きたやま)も映ります。八坂(やさか)の塔だの、東寺(とうじ)の塔だの、知恩院(ちおんゐん)だの、金閣寺(きんかくじ)だの銀閣寺(ぎんかくじ)だのがきらきらと映ります。」
「まあそんなにいゝとこだすか。」
「ええ、家(うち)の裏の木戸を開けて、石段を下りて、それから小い橋をとん/\と踏んで行くと、河原なのです。河原は夏なんか涼しくつてねえ。」
「継母は。」
「継母はこはいこはい継母でしたよ。こはいこはいこはい。」
私はかう云つて、次に云ふことを考へなければなりませんでした。
「私の家(うち)は友染屋(いうぜんや)なのです。縮緬(ちりめん)の友染屋なのですよ。あれはね、染めた後(あと)で川で洗はなければならないのです。私なんかも洗うのですよ。ぢやあないと継母が叱りますからねえ。」
「まあえらい、洗濯をしなはつたの。」
「ええ、日に二十反(たん)位洗つては河原へ乾(ほ)しますの。」
「雨が降つたらどうするのだす。」
「そしたら雨が降つて来たのです。困つてねえ、私は。雨の水と川が一緒になつて、縮緬が流れるでせう。私は継母に叱られますから、何でも拾はうと思つてね、ずん/\加茂川の岸を走つて追つかけたのです。走つて走つて一晩走つて居ると、伏見(ふしみ)へ来たのです。」
「拾へたのだすか。」
「いいえ。」
「まあ。」
「たうとう見失つてしまつたのでせう。継母に叱られたらどうしようと思つて私が泣いて居ると、親切なお婆さんが来てね、私をその家(うち)へ伴(つ)れて行つてくれたのですよ、私の子におなりなさいつてね。」
「まあよかつたこと。」
「けれど貧乏でね、お米ではなくて藁(わら)でお餅なんか拵(こしら)へて食べるだけなんです。」
「藁でお餅が出来(でけ)るんですか。」
「出来(でき)るんですよ。それにね豆の粉(こ)を附けてお婆さんは売りにも行くのです。清水(きよみづ)さんの滝の傍へ茶店を出してねえ。」
「清水さんは京だすか。」
「ええ、滝が三本になつて落ちて居てね、人が何時(いつ)も水を浴びてます。」
自分の見た時がさうだつたものですから。
「その人が藁のお餅を買ふのだすか。」
「もつと外(ほか)の人も買ふのです。よく売れてね、忙しくつてね、夜分まで家(うち)へ帰れないのです。お婆さんが先に帰つて、私が後(あと)で店をしまつて帰るのでしたがね、大谷(おほたに)さんと云ふお墓のいつばいある山を通るのですから、恐くつてねえ。」
「こはいこと、まあ。」
「さうしたらある時人取(ひとと)りが出て来たのですよ、頬かぶりして刀を差してね、それから手下が二人です。手下は槍を持つて居るのです。」
「刺されたんだすか。」
「ええ、突かれたけれど、もう癒りました。」
「何処(どこ)だすか。」
「此処(ここ)です。」
私は脇腹を手で押へました。
「盗賊(どろぼう)は私を箱へ入れて、支那(しな)へ伴(つ)れて行かうと思ひましてねえ。乗せられたのですよ船へ、船に酔ふと苦しいものですよ。目が赤くなつて、足がひよろひよろになつてしまふのです。」
私は酒酔(さかゑひ)と船暈(ふなゑひ)を同じやうに思つて居たのです。
「そしたらひどい浪が起つて来てね、私の乗つた船が壊れてしまつたのです。私の入れられて居た箱も割れたので、丁度(ちやうど)よかつたけれど。私はそれでもう気を失つて居たのですがねえ、今度目を開いて見ると堺(さかひ)の浜だつたのです。」
「燈台が見えたのだすか。」
「ええ、夜でしたから青い青い灯が点(とも)つて居ましたよ。」
「それから鳳(ほう)さんの子になりやはつたのだすか。」
「ええ。」
「まあ可哀相な方(かた)。」
「継子なんて、ちつとも知りまへんだした。」
「気の毒だすなあ。」
私の傍に居る人が四五人泣き出しました。さうすると誰も誰も誘ひ出されたやうに涙を零(こぼ)しました。嘘を云つた私までが熱い涙の流るのを覚えました。
私の生ひ立ち 六 火事
火事
ある夏の晩に、私は兄弟や従兄(いとこ)等と一所(いつしよ)に、大屋根の上の火の見台で涼んで居ました。
「お月様とお星様が近くにある晩には火事がある。」
十歳(とを)ばかりの私よりは余程大きい誰かの口から、こんなことが云はれました。そのうち一人降り二人降りして、火の見台には私と弟の二人だけが残されました。
「籌(ちう)さん、あのお星様はお月様に近いのね。そら、あるでせう一つ。」
「さうやなあ、火事があるやら知れまへんなあ、面白い。」
「私は恐い。火事だつたら。」
「弱虫やなあ。」
弟はかう云つてずんずん下へ降りて行きました。私はその後(あと)で唯(たゞ)一人広い広い空を眺めて、小さい一つの星と月の間を、もう少し離す工夫はないか、焼ける家の子が可哀想で、そして此処(ここ)まで焼けて来るかも知れないのであるからと心配をして居ました。
その晩の夜中のことでした。私の蚊帳(かや)の外で、
「火事や。」
「火事、火事。」
と云ふ声が起りました。耳を澄まして見ますと、家の外をほい/\と云ふやうな駆声(かけごゑ)で走る人が数知れずあるのです。家の中にはまた彼方此方(あちこち)をばたばたと人の走り歩く音が高くして居るのです。私は何時(いつ)の間(ま)にか座つて居ました。蚊帳も一隅が外(はづ)されて三角になつて居ました。灯の明(あか)く点(とも)つた隣の茶の間で、
「袢纏(はんてん)を出しとくなはれ、早う頼みます。」
と云つて居るのは番頭でした。柳行李(やなぎかうり)から云はれた物を出して居るのは妹の乳母(うば)でした。私はまた何時(いつ)の間(ま)にか蚊帳を出て、定七(さだしち)の火事装束をする傍(そば)に立つて居ました。定七が弓張提灯(ゆみはりちやうちん)を取つて茶の間を出ようとしますと、帯のやうなものを手に持つて見せながら乳母は、
「まありやん、まありやん。」
と云ひました。私は子供心にも乳母は恐ろしさに舌が廻らなくなつて居るのであらう、待つてくれと云ふつもりであらうと思ひました。母が傍へ来まして、
「母様(かあさん)は姉様(ねえさん)のお家(うち)が危いから行つて来ます。お父様(とうさん)ももうおいでになつたのです。家(うち)は大丈夫だから安心しておいで。」
と云ひました。そのうち私は店へ歩いて行きました。土間の戸が二方とも開けられてあつて、外の通りをお祭の晩の賑やかな灯明(ひあか)りが思はれる程、沢山の人々は手に手に提灯を持つて走つて行くのでした。見舞に来て従兄と話をして居る人も三四人ありました。私は火元を二町北の半町程西寄りになつた具清(ぐせい)と云ふ酒屋であると知りました。火の見台で兄弟や奉公人の大勢が、話し合ふ声のするのをたよりに、私は暗い二階を手捜(てさぐ)りで通つて火の見台へ出ました。火の色には赤と黄と青が交つて居ました。半町四方程をつつんで真直(まつすぐ)に天を貫く勢で上つて居ました。火の子はまかれる水のやうに近い家々の上へ落ちるのでした。女中の顔も、丁稚(でつち)の顔も金太郎のやうに赤く見えました。具清の家と私の姉の家とは道を一つ隔てた地続きなのでしたから、私は姉の家の蔵が、今にも焼けるのではないかと思つて、悲んで居ました。この時もう月は落ちて上の空にはありませんでした。階下(した)へ降りますと御飯から立つ湯気の香(か)が夜の家いつぱいに満ちて匂つて居ました。これは竹村(たけむら)と云ふ姉の家へ贈る弁当の焚出(たきだ)しをして居るからなのでした。
「具清の家の人は一人も逃げて居ない。皆死んだのらしい。」
「妹さんが女中に助けられて飛び出したと云ふことを誰かが云ふてた。外(ほか)は皆死んだのやろけど。」
こんな気味の悪いことを私は聞かないでは居られませんでした。人はことを大きく噂にするものであるとは、子供でももう知つて居ましたが、先刻(さつき)火の見で誰かが、具清は金持だから、大きい家が焼ける位のことは何でもないと云つて居たやうな、そんなのんきなことはもう思つて居られないと思ひました。
具清の家の住居(すまゐ)と酒蔵の幾つかが焼けただけで、他家(よそ)へ火は伸びずに鎮火しました。ほい/\と門(かど)を走る人は、皆先刻(さつき)と反対の方を向いて行くやうになりました。
「焼けた死骸に長い髪が附いて居たので娘さんと云ふことが解(わか)つた。」
「丁稚の死骸が可哀想やつた。」
道行く人は口々にこんなことを云つて行きました。具清の家は両親のない二人の娘さんが主人だつたのです。その娘さんを番頭が余りに大切にして、家の戸閉りなどを厳重にしすぎてあつたために、誰も外へは出られなかつたのださうです。鍵を持つて居る老番頭が、最初に死んだので、外(ほか)の人はどうしやうもなかつたらしいと云ふことでした。けれど三十位の一人の女中は、妹娘さんをやつとのことで伴(つ)れ出したと云ふことでした。けれど高い塀から飛んだので、大怪我(おほけが)をして居ると云ふことでした。
朝になつてから、私の父母は姉の家を引き上げて来ました。
「竹村さんに別条がなくておめでたう御座(ござ)います。」
と番頭が云ひますと、
「おかげでめでたいうちや。」
と父は云ふのでしたが、私は竹村の蔵が焼けてもよかつた、具清の娘さんが黒焦(くろこげ)の死骸などにならない方がよかつたと悲しがつて居ました。具清の死んだ若い女中の話も可哀想でした。前の晩に母親に送られて、実家からその主家へ帰つたのは、死に帰つたのだと云はれる丁稚も可哀想でなりませんでした。眼病をして居て逃げ惑つたらしいと云ふ若い手代(てだい)も哀れでした。具清の家は大きくて、城のやうな家なのでしたが、丁度(ちやうど)夏で酒作りをする蔵男(くらをとこ)の何百人は、播州(ばんしう)へ皆帰つて居た時だつたのださうです。娘さんの箪笥(たんす)が幾つも並んで焼けた所には、友染(いうぜん)の着物が、模様をそつくり濃淡で見せた灰になつて居たのが、幾重ねもあつたとか人は云ひました。焼跡は何年も何年も囲ひもせずそのままで置かれてありました。夏の夕方などに散歩して居ますと、焼けた壁の小山のやうになつた中から、酒の香(か)が立つやうなことも幾年かの後(のち)にまでありました。終(しま)ひには雑草が充満(いつぱい)に生えて居ました。
火事の時分に、大阪地方ではへらへら踊(をどり)と云ふ手踊の興業が流行(はや)つて居ました。赤い頬かぶりをして袴(はかま)を穿(は)いた女が扇を持つて並んで踊をするのです。へらへら踊の女役者は云ひ合せたやうに、何処(どこ)でも堺(さかひ)の大火と云ふやうな芸題(げだい)で、具清の人々が火の中を逃げ廻つて死ぬ幕を一幕加へました。道を歩いて居て、その無惨な看板の眼に入るたびに、私は逃げて走りました。
具清の妹さんが、忠義な女中に手を引かれて医師の家へ通ふ姿を、私は火事の後(あと)でよく見ました。美しい人でした。
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