世間には自分の生活に公と私、主と客、真実と方便、本務と余技、第一義と第二義という風な差等を設けている人たちが少くない。私も近頃までは漫然とそういう二元的な物の見方を模倣していた。けれども真に現在に生きようとする自覚が明確の度を増して行くに従い、「人類の幸福の増加」という人間の本務――私の本務――に役立つ限り、万事が一様に自分の真実の生活であり、第一義の生活であるように感ぜられて来た。以前は恋愛や、芸術や、学問や、宗教や、社会改良事業などというものばかりを人間の第一必要品のように思い、みずから衣食住の実際問題に困っていながら、かえって逃避的な支那賢人の虚偽な告白などに欺されて、その衣食住などを第二義の問題のように誤解していたのであったが、近頃はどれも私に取って同じく第一義の価値を持つようになって来た。エレン・ケイ女史などが生活の表面に起伏して中心要素となる無量の欲求が永遠に対立しているこの見やすい事実を知っていながら、その欲求の中の母性ばかりを特に擁立して絶対の支配権を与え、いわゆる絶対的母性中心説を以て我々婦人に教えられるのは、対等であるべき無数の欲求に第一義第二義の褒貶を加える非現実的な旧い概念から脱しきらない議論のように私には見える。
人が親となることは、親となる資格を備えている人という制限を越えない範囲で望ましいことである。未成年の男女、不健康な男女、無智な男女、全く経済的自活力のない男女、それらは結婚するのさえ不幸の本である。ましてそれらが親となることは一層の不幸が予知せられる。その場合男には父性の生活を、女には母性の生活を経験せしめない方がかえってよい人たちである。また結婚して親となる資格を備えていても、失恋とか孤独を好む性質とかに由って結婚を好まず、職業の関係から学者、宗教家、探検家、教育家、飛行機家、看護婦などのように結婚を避ける人たちがある。その人たちは結婚して親となることにみずから一種の不幸が予知せられ、それを予防する摯実な必要からそれを避けているのであり、あるいは結婚もせず親ともならない方がかえって他の事に由って人間の本務――人類の幸福の増加――をより自由に、より猛烈に実現し得る所以からわざと夫妻父母の生活を避けているのである。また夫婦生活を開きながら生理的に親となり得ない男女がある。それは親となることを避けているのではないが、余儀なく男は父性から、女は母性から遠ざけられているのである。それらの夫婦は必ずしも不幸を感じていない。子供のないことに由って知らず識らず親としての生活以外に豊富な生活を送っている男女も多い。かえって沢山の子供を持ったために他の活動を侵害せられて、子供のないのを不幸と感じている夫婦よりも幾倍かの不幸に陥っている男女もある。
親となる多数の男女があると共に、前述のように親とならないで一生を送る男女も寡くないのが人間の実状である。母性中心説の第二の誤謬はこの実状を看過していることであるように想われる。もし一切の男女が悉く健康で、教育があって、経済的能力を備えていて、夫婦としての堅実な愛が容易に成り立って、自由と幸福の予想せられる境遇が与えられて、夫婦が必ず子供を持つことが出来て、そうして親となることを最上の生活と信じてそればかりを望んでいるなら、男は父性中心の生活を、女は母性中心の生活を営むことに専心し、それを以てケイ女史のいわゆる「生れつきの制限」と自信して父性母性以外の無数無限な人間の活動を第二義とし、方便とし、そうして子供を持つことばかりをケイ女史のように人間の愛の真の目的とすることが出来るであろう。
人生が空想小説でなくて厳粛な目の前の一大事実である限り、人間は一人一人の性情と境遇とに従って各自の生活方針を変化して行かねばならない。トルストイ翁の言われる「天賦の使命」とか、ケイ女史の言われる「個人の権利の生れつきの制限」とかいうようなものが私たちのために、そうして私たちの外に予め一様に決定されていようとはどうしても考えられない。人間は一人一人の生きて行く必要から一人一人の権利と義務を――生れつきの制限ではなく――各自が個別にその時その時の必要を制限として自由に伸張しながら履行して行く外はないように私には見える。白耳義の首府の看護婦学校長であった英国婦人エジス・カヴェル女史が去年独逸軍のために捕えられて従容として死刑に就いたようなことは、母性中心説から見れば当然批難せらるべきことであろう。女史は未婚で終り、母性を実現せずに国難に殉じてしまったから。しかし女史自身の最後の微笑は自分の権利と義務を世界人類のために正しく履行したことの満足を示している。女史は人の子を生まなかったけれどもその代りに人道の母となった。女史のこの事蹟に尊敬を惜まない人なら、女の生活として母性のみが絶対に尊厳なものでなく、母性も貴重であるけれども、人間の本務を発揮する尊厳な生活はその外にも無限にあって、それは個人個人の性情と境遇とに由って別別に定まるものであることを私と共に同感せられるであろう。
私は沢山子供を生みかつ育てている。そうして多年の経験から、子供は両親が揃っていてこそ完全に育つものであることや、子供を乳母、女中、保姆、里親などに任せるのは太抵の場合両親の罪悪であり、子供の一大不幸であることを切実に感じている。トルストイ翁もケイ女史も何故か特に母性ばかりを子供のために尊重せられるけれど、子供を育てかつ教えるには父性の愛もまた母性の愛と同じ程度に必要である。殊に現在のようにまだ無智な母の多い時代には出来るだけ父性の協力がないと子供の受ける損害は多大である。母親だけが子供を育てることは良人が歿したとか、夫婦が別居しているとかいうやむをえざる事情の外は許しがたいことである。しかしこれくらい自分の子供の教育を重大に考えて取扱っている私さえ、前に述べたように母体としてのみは生きていない。私のように遅鈍な女の上にもそういう生き方を求めるのは甚だしい不自然である。まして無数の異った性情と異った境遇を備えている一切の女を母性中心の型に入れようとする主張は肯定することが出来ないように想われる。
こういっても私は、健康な婦人が良人との間に少くも一人の子供を養い得るだけの経済的自活力を持ちながら、容貌の美を失ったり、産褥の苦痛に逡巡したり、性交の快楽を減じたりする理由から妊娠を厭い、または生児の養育を他人に託するようなことを弁護する者では断じてない。その女の生活が絶対的母性中心から遠ざかっているという根拠からでなく、その女みずからがより好く生きるのに必要な誠実と、聡明と、勇気とを欠いているのが私には不満なからである。豊富な性情と健康な体質とを持った女は子供も産むがよい、社会的事業にも従事するがよい、その他能うかぎり何事に向っても多々益々弁じて欲しいと私は思っている。また私はその女の生活として価値が乏しいので避け得られる限り避けた方が好く、そうして避けようとすれば避けることが出来た過度の労働を避けなかったために自分の体力を弱くし、妊娠不能となり、または虚弱不具な子供を生むような女に対しても、同じ理由から不満である。しかし、学者、女権論者、女優、芸術家、教育家、看護婦等に従事している婦人の内の或人たちが、その道とその職業とに忠実であり、熱心であるために結婚を避け、従って母性の権利と義務を履行しないのは、男の側のそれらの道と職業を以て人類の幸福の増加に熱中している人たちの中の或人人が一生娶らずかつ父とならないのと同じく、全くその婦人たちの自由に任すべきものであると私には考えられる。そういう婦人たちに対してケイ女史のように一概に「絶対の手前勝手」を以て攻撃するのは酷である。
もし母性を実現しない女が悉く「絶対の手前勝手」であるなら、前に挙げた不健康その他の理由から結婚を避けしめねばならない女や、良縁を得ないため、または婚資のないために余儀なく独身生活を送る女や、結婚して母たる資格を具備していながら肝腎の子供のない女などをも不徳の婦人として批難せねばならないことになる。それは実際に不合理なことである。そうして現実の世界には性情と境遇を異にした無数の女が存在していて、絶対に母性中心説を適用することの不可能なことがここにも暗示されているように想われる。
我国の婦人の大多数は盛に子供を生んで毎年六、七十万ずつの人口を増している。あるいは国力に比べて増し過ぎるという議論さえある。私たちはむしろこの多産の事実について厳粛に反省せねばならない時に臨んでいる。旧式な賢母良妻主義に人間の活動を束縛する不自然な母性中心説を加味してこの上人口の増殖を奨励するような軽佻な流行を見ないようにしたいものである。(一九一六年二月)
(『太陽』一九一六年二月)
底本:「与謝野晶子評論集」岩波文庫、岩波書店
1985(昭和60)年8月16日初版発行
1994(平成6年)年6月6日10刷発行
底本の親本:「人及び女として」天弦堂書房
1916(大正5)年4月初版発行
入力:Nana ohbe
校正:門田裕志
2002年5月14日作成
2003年5月18日修正
青空文庫ファイル:
このファイルはインターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
●表記について
- このファイルは W3C 勧告 XHTML1.1 にそった形式で作成されています。
- 傍点や圏点、傍線の付いた文字は、強調表示にしました。
上一页 [1] [2] 尾页