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婦人改造の基礎的考察(ふじんかいぞうのきそてきこうさつ)



 次に私は「男女平等主義」と「人類無階級的連帯責任主義」とを、改造の基礎条件の第三、第四とする者です。前者については、これまでから度々たびたび私の感想を述べましたから、今は簡単に、男女の性別が人格の優劣の差別とはならず、人間が文化生活に参加する権利と義務の上に差別的待遇を受ける理由とはならないものであるというだけに止めて置きます。
 後者は自我発展主義と、文化主義と、男女平等主義とに促されて起る必然の思想であって、文化生活を創造するには、すべての人間が連帯の責任を持っています。私たち女子も公平にそれを分担することを要求します。貴族と軍閥と資産階級とがこれについて階級的の特権を持つことが不法であるように、文化生活が従来のように男子本位に偏することは、文化価値実現のためにする女子の自我発展を男子の利己主義と階級思想とに由って拒むことに外ならないのです。
 左右田博士が、「文化主義は、あらゆる人格が文化価値実現の過程において、それぞれ特殊固有の意義を保持するを得、その意義においていずれかの文化所産の創造に参与する事実を通じて、各個人の絶対的自由の主張を実現し得ることを求むるものである」といわれ、また「各人格は一部的文化所産の創造に由ってその全き人格を発揚し、かくて一切の人格に由って相互に補充的かつ協働的に文化一般の意義をその窮極において顕彰し云々」といわれたのは、男女、貧富、貴賤、黄色人と白皙はくせき人というような差別を超えた所の無階級一律的の要求であると思います。

 この男女平等主義と人類無階級的連帯責任主義との上に立って、私たち女子も男子と等しく教育の自由、参政の自由、職業の自由等、人間の文化生活に必要な限りのすべての自由を要求します。これらの問題については、以前から他の機会でしばしば述べていますから、今は略しますが、唯だ文化主義の学者たちが女子のためにこれらの要求を奨励される一証として次にリップスの言葉を引用して置きたいと思います。
 リップスは教育について言いました。「特に我らは女性に対して高等なる精神的教養を拒むべきでない。それが人間の教育である限り、それは各人の能力に従って男女の差別なくすべての人々に与えられなければならない。精神的能力の優秀な女性は、その能力の低級な男子よりも、この教育を受くべき一層多くの道徳的権利を持っている。人間の精神的能力が開発されなければならないのは、それが男や女に属するからでなくて、それが(即ち精神的能力が)存在するからである。自己の内面から出て開発されることを望んでいる事柄であるからである。」
 また女子の参政権問題について言いました。「婦人の政治的権利を承認するは、両性の差別を無視するものでなくて、いやしくも婦人もまた男子と共に人間であり、人類の一員であることを認める限り、むしろ両性の差別がこの承認を要するのである。……婦人には婦人独特の利害と、欲求とがある。そうして国会においては、あらゆる方面の利害が代表されていることを要求するが故に、其処そこには婦人もまた代表されていなければならない。……人は女性の政治的未熟を力説するかも知れない。なるほどこれは男性の平均程度に比べても一層甚だしいであろう。しかし、それならば人は女性の政治的教育に骨を折るが好いのである。」
 職業の問題に対する女子の要求についてリップスの言ったことは後において引用しようと思います。

 最後に私は「汎労働主義」を以て改造の基礎条件の第五とする者です。これについても私は、最近に公にした種々の感想文においてかなり多く述べていますから、ここには只だその補充として少しばかり書いて置きます。
 私は労働階級の家に生れて、初等教育を受けつつあった年頃から、家業を助けてあらゆる労働に服したために「人間は働くべきものだ」ということが、私においては早くから確定の真理になっていました。私は自分の家の雇人の中に多くの勤勉な人間を見ました。また私の生れた市街の場末には農人の町があって、私は幼年の時から其処に耕作と紡織とに勤勉な沢山の男女を見ました。私はそういう人たちの労働的精神を尊敬する余りに、人間の中にその精神から遠ざかっている人たちのあるのを見て、その怠惰を憎悪せずにいられませんでした。私はすべての人間が一様に働く日が来なければならない。働かない人たちがあるために他の人たちが余計に働き過ぎている。その働かない人たちの分までをその働き過ぎる人たちが負担させられていると思うのでした。これは私の家庭で、私と或一、二の忠実な雇人とが余りに多く働きつつあった実感から推して直観したのでした。
 以前から私の主張している汎労働主義は、実にこの直観から出発して、私の半生の生活が断えず労働の過程であるために、これが益々私の内部的要求となったのですが、私のこの要求に対して学問的基礎を与えてくれた第一の恩人はトルストイです。
 私は文化価値を創造する文化生活の過程は全く労働の過程であると考え、人は心的または体的に労働することに由って初めて自我の発展が出来るのですから、文化生活は労働の所産であり、人間が一様に労働するということを外にして、決して文化主義の生活は成立たないと思うのです。それで私は、すべての人間が労働道徳の実行者となることを望み、現在のように不労所得に由って衣食する階級と、労働の報酬に由って衣食する階級との対抗をなくして、労働者ばかりの社会となることを要求しているのです。(私の近著『心頭雑草』と昨冬の『中外新論』に掲載した私の「資本と労働」の一文とを参照して下さい。)
 最近に出た米田庄太郎よねだしょうたろう先生のいくつかの論文を読むと、今日は「労働」と「労働者」との概念が大に拡張されて「手に由りて働く生産者」の外に「脳髄に由って働く生産者」をも労働者と呼ぶ時代となりつつあるという事を教えられます。その上また三月号の『中外』に出た米田先生の論文に由れば、現に露西亜ロシヤの学者ミハイロヴスキイは「人格とは労働の発現である」といい、労働する者のみが人格者と呼び得る者であるという風にいって、労働人格説を唱えていることを教えられます。私は自分の幼稚な直観が益々これらの思想に由って確実な支柱を得ることを喜びます。

 私はこの汎労働主義の立場から、女子にもあらゆる労働と職業とを要求し、またそれの準備として女子の高等教育をも要求します。私が女子の学問と経済的独立について今日までしばしば意見を述べているのは、実にこの要求を貫徹したいためです。
 リップスは労働について言いました。「我らは自己の素質と、世界における我らの位地とに由って、最も実現するに適する目的にその力を集中する義務を持っている。すべての人は同一でない。故に個人がそれぞれの地位において社会的全体の中に織り込まれ、それぞれに分業を以て全体の文化的使命に貢献する」と。人間の能力が多種多様であって、適材が適所において文化価値を創造することが望ましい事である以上、個別的に適応した各種の職業が女子にも解放されねばなりません。左右田博士もいわれたように「一切の人格が、文化価値実現の過程において、たといその中の一個でもその過程の表面以下に埋没せらるる事なく、ことごとく皆その表面において、それ自身固有の位置を占め」て、私のいう人類無階級的連帯責任の文化生活を実現しようとするには、職業の自由を一斉に享有することを前提としなければなりません。
 世にはこれに対して沢山の反対説があります。女子の能力範囲を良妻賢母主義に局限して経済的独立の不可能をいう論者があり、また女子の現在の心理、体質、境遇だけを根拠にして労働能力の悲観的であることをいう論者があり、また女子を装飾物や玩弄物と見た男子の迷信的感傷的感情から、女子が職業に就くことを悲惨の行為であるという論者があります。しかし最も古代からの労働的精神と労働その物とを神妙に維持している農民階級の女子を初め、屋内工業に従事している近代の女子が、今日もその母性に属する労働と共に経済的労働を並行させた立派な成績を示しているのを見れば、第一の反対説は消滅すべき運命を持っています。
 平塚らいてう[#「らいてう」はママ]、山田わか両女史はその御自身の経験を基礎として、第一の反対説を唱える人たちですが、両女史が母体の経済的独立が不可能だとされるのは、何か両女史御自身の上に、及び両女史の境遇に、それを不可能にする欠陥がありはしませんか。農民や漁民階級の労働婦人が立派に妻及び母の経済的労働を実証している事実を両女史は何と見られるのでしょうか。甚だ露骨な事をいうようですが、両女史は経済的労働を必要とする家庭にお育ちにならず、従ってそういう労働の習慣をお持ちにならないのではないのですか。
 今度の戦争に由って、意外にも女子の労働能力が男子に比べて甲乙のないことが確認される機会を得ました。最早この事は多くの弁明を要しない事実ですから、右に挙げた第二の反対説も根拠を失ったといって宜しい。第三の反対説は厳粛な文化生活の意義を解しない人々のセンチメンタリズムとして唯だ微笑して置けば好いでしょう。

 女子を閨房けいぼうと台所とに幽閉することなく、これに職業を与える事は我国においても早くから実行されていますが、しかしその職業の範囲を男女平等主義に由って拡げることについては全く拒まれています。リップスは女子の職業を肯定して「この問題に対する一般的の解答は、すべての人はその特殊なる天性と能力とに従って、その力に及ぶ限りの利と善とを(即ち文化価値を)この世界に造り出さなければならぬという規則である。この外に婦人の職業を決定すべき特殊なる規則の必要はない」といいました。女子にも一切の職業を解放して、女子自身の実力に応じた選択に任せたなら、そうして今日の女子を奮起させる必要上、特に職業上の自由競争を奨励するなら、山川菊栄女史のいわれたように、日本の婦人界も一人や二人の婦人理学士を珍重がるようなみすぼらしい状態には停滞していないでしょう。
 リップスが「人は出たらめに婦人の能力を否定せずに、確実なる経験にこれを決定させる必要がある。そのためには、女性にその力をめし、その力を発展すべき機会と権利とを与えなければならない。これを開展させずに萎縮いしゅくさせて置く限り、女性に如何なる力が潜んでいるか、何人なんぴとも知ることが出来ない。……同時に人はこの問題について、単に女性という一般概念を以て議論を進めることを避けねばならない。女性もまたいろいろである、一人の女性の天性に適しないことで、他の女性の天性に適することもまた有り得るのである」といった真理に、日本の男子も女子も深い反省を取られることを私は熱望します。

 以上は甚だ粗雑な説明となりましたが、私はこの五つの条件の上に基礎を置くことに由って、初めて女子の改造が押しも押されもしない堅実性を持つと思います。これらの条件はやがて男子の改造の基礎条件ともなるものであって、女子のために特に選ばれた賢母良妻主義とか、母性中心主義とかいうようなあやふやな生活方針ではないのです。この中でも他の四つはことごとく一つの文化主義に向って集中し、そうして文化主義は、各個人がその個性の差別に応じ、限られたる範囲に拠って、人類全体の文化価値創造の生活に参加する意味からいえば徹底個人主義であり、人格主義であり、これに由って一切の人格が偏頗なく、依怙えこなく、平等に、円満に、その生を享楽し得る意味からいえば人道主義であり、十二分に現在の人間性と社会事情とを考慮しながら、未来の飛躍の可能を信じつつ合理的の改造を志す意味からいえば新理想主義であり、新浪漫主義であると思います。(一九一九年三月七日)

(『改造』一九一九年四月)





底本:「与謝野晶子評論集」岩波文庫、岩波書店
   1985(昭和60)年8月16日初版発行
   1994(平成6年)年6月6日10刷発行
底本の親本:「激動の中を行く」アルス
   1919(大正8)年8月初版発行
入力:Nana ohbe
校正:門田裕志
2002年5月14日作成
2003年5月18日修正
青空文庫ファイル:
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