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夜の靴(よるのくつ)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-11-13 9:37:35  点击:  切换到繁體中文

 



 一万米の高空でする戦闘と、地上百米の低空でする戦闘の相違について――これは飛行機のことではない。各人、だれでも一日に一度は必ずしなければならぬ平和裡の戦闘だ。妻と、友人と、親戚と、知人と、未知の人間と、その他、一瞥の瞬間に擦れちがって去りゆくものと。また自分と。戦法は先ず度を合して照準を定めることだが、照準器はめちゃくちゃだ。度が合ったときのその嬉しさ、そこからのみ愛情は通じるのだ。

 ある日のことを私は思い出す。それは晴れた冬の日のこと、渋谷の帝都線のプラットで群衆と一緒に電車を待っているとき、空襲のサイレンが鳴った。間もなく、 B29一機が頭上に顕れた。高射砲が鳴り出した。ぱッと一発、翼すれすれの高度で弾が開いた。すると、私の横にいた見知らぬ青年が、
「あッ、いい高度だな。」とひと声もらした。
 話はそれだけのことだが、そのひと声が、晴れた空と調和をもった、一種奇妙な美しさをもっていた。敵愾心てきがいしんもなく、戦闘心もない、粋な観賞精神が、思わず弾と一緒に開いた響きである。私はこの世界を上げての戦争はもう戦争ではないと思った。批評精神が高度の空中で、淡淡と死闘を演じているだけだ。地上の公衆と心の繋がりは断たれている。それにも拘らず、観衆は連絡もなく不意にころころ死んでゆく今日明日。たしかに死ぬことだけは戦争だが、しかし、戦争の中核をなすものは、何といっても敵愾心だ。いったい、今度の長い戦争中で、敵と呼ぶべきものに対して敵愾心を抱いていたものは誰があっただろうか。事、この度の戦争に関する限り、この中核を見ずして、他のいかなることにペンを用いようとも無駄である。
 愛国心は誰にもあり、敵愾心は誰にもないという長い戦争。そして、自分の身体をこの二つの心のどちらかへ組み入れねば生きられぬという場合、人は必ず何ものかに希願をこめていただろう。何ものにこめたかそれだけは人にも分らず、自分も知らぬ秘密のものだ。しかし、人は身の安全のためにそうしたのではない。たとえそれは間違ったものに祈ったとしても、そこに間違いなどという不潔なものなど、も早や介在なし得ない心でしたのである。それは狐にしようと狸にしようと、それ以外には無いのだから通すところのものはどうでも良い、有るものを通して天上のものへしていたのにちがいないのだ。ここに何ものも無い筈はない。
 おそらく以後進駐軍が何をどのようにしようとも、日本人は柔順にこれにつき随ってゆくことだろう。思い残すことのない静かな心で、次ぎの何かを待っている。それが罰であろうと何んであろうと、まだ見たこともないものに胸とどろかせ、自分の運命をさえ忘れている。この強い日本を負かしたものは、いったい、いかなるやつかと。これを汚なさ、無気力さというわけにはいかぬ。道義地に落ちたりというべきものでもない。しかし、戦争で過誤を重ね、戦後は戦後でまた重ねる、そういう重たい真ん中を何ものかが通っていくのもまた事実だ。それは分らぬものだが、たしかに誰もの胸中を透っていく明るさは、敗戦してみて分った意想外な驚愕であろう。それにしても人の後から考えたことすべて間違いだと思う苦しさからは、まだ容易に脱けきれるものでもない。

 防空壕に溜った枯葉の上へ、降り込む氷雨のかさかさ鳴る音を聞きながら、私は杜甫を一つ最後に読もうと思って持ち込んだこともある今年の冬だ。しかし、今は、戦争は停止している。私のここで見たものは一人の白痴だ。

 この白痴は参右衛門の次男である。先ずその日その日が食べられるというだけの、貧農のこの家の生活を支えているのは、二十三歳になるこの白痴だ。名は天作、彼は朝早く半里もある駅の傍の白土工場へ通い、百円の賃金を貰っている。参右衛門の怠けていられるのもこのためだ。天作は身体が父に似ていて巨漢である。無口で柔順で、稀な孝行もので、良く働き、何の不快さもない静な性質だ。およそ他人に害を与えない人物でこれほど神に近いものはないだろう。彼の仕事も三人力で、山から白土を掘り出すのだが、この土は武田製薬の胃薬の原料になるものだ。戦時中も今と同様に働き通したが、天作の掘り出した白土は、どれほど多くの人の胃袋へ入ったことだろう。あの酒を吸収して酔漢をなくするノルモザンがこの白土だ。天作は白痴のため戦争など知らない。自分の得た賃金を参右衛門の酒代にすっかり出し、代りに彼から煙草を四五本ケースへ入れて貰うと、ほくほくする。たまの休日には庭の草ひき、草刈り、庭掃除で、小牛と山羊をひっ張り廻して遊ぶのが何より愉しみなようである。弟の十二になるのが何か悪さをすると、天作のしたことにして知らぬふりだ。そして、代りに天作が参右衛門から叱られる。私は五時に起きるがときどき同じ白土工場へ出ている隣家の少年が、
「天作どーん。」
 と垣根の外から誘う声がする。すると、
「おう。」
 と、応える天作の元気な声は、一日一度の発声のようで朝霧をついて来る。何の不平もない幸福そうな、実に穏かな天作のその眼を見るのは、また私には愉しみだ。これは地べたの上をい廻っている人間の中、もっとも怨恨のない一生活だ。他はことごとくといってもいい、誰かに、どこかで恨みの片影を持って生活しているときに、上空では自己を忘れた精密な死闘を演じ、下のここでは、戦争を忘れた平和な胃薬掘りの一白痴図が潜んでいたのだ。
 飛騨地方では白痴が生れると、神さまが生れたといって尊崇するということだが、そういう地方も一つは在って良いものだ。

 九月――日
 別家、久左衛門の家には、機械工として熟練抜群の次男が工場解散となって都会から帰って遊んでいる。年は本家の白痴と同年だ。白痴の天作が一家の生計を支えた中心であるときに、別家では反対であるということが、二家の間に少し均衡を失いかけて見える。久左衛門の次男は、十三のとき以来ひとり都会に出ていたので、農事を今からすることは不可能だ。長男がこの弟の無職を憂い顔で、砂利を積んだ牛車を運び、駅からの真直ぐな路を往ったり来たりしている。麻疹で亡くした子供の初盆をすませたばかりの頬に、鬚がのびている。若い嫁は柔順に壁土を足でこね、ひたひたと鳴るその足音の冷やかさに驟雨が襲って来る。虫の声声が昂まる。

 参右衛門の広い家には誰も人がいない。薪のくすぶっている炉の傍に、薬湯がかかっていて、蝿が荒筵の条目すじめを斜めに匐っているばかりだ。梨の炉縁の焼け焦げた窪みに、湯呑が一つ傾いたまま置いてある。よく洗濯された、継ぎ剥ぎだらけの紺の上衣が、手擦れで光った厚い戸にかかり、電灯がかすかに風に揺れている。槽に蔭干しされた種子類が格子の傍に並べてあって、水壺の明り取りから柿の生ま生ましい青色が、べっとりした絵具色で鮮明に滲み出ている。蝿の飛びまう羽音。馬鈴薯の転がった板の間の笹目から喰み出した夏菜類の瑞瑞しい葉脈――雨が霽れたり降ったりしている。

 寺の和尚、菅井胡堂氏がおはぎを持って来てくれた。私の部屋――この参右衛門の奥の一室は和尚が少童のころまだこの家の豪勢なときに誦経に来て以来五十年ぶりらしく、庭を眺め、「ほほう。」という。
 すると、突然、泉水の上に突き出た竿の先に、眼の高さでただ一つぶら下った剽軽ひょうきんな南瓜を見て、
「はッはッははッ。」と哄笑した。
 胡堂氏の話によると、村には二つとない、見事だったこの庭の良石と植木は、隣村の何兵衛にだまされことごとく持ち去られたとのことである。今、壊されたその跡に、ぶらりと垂れた南瓜の表情は、和尚には、何事か自然のユーモアとなって実り下った、真の笑いだったにちがいない。私はこういう笑いを聞いたのは初めてだ。ナンセンスの高級さ、ふかさは、このような孤独な南瓜のぶらりと下ったお尻の大きさをいうのだろう。これはまた、徳川夢声の、芸に似ている。まことに夢声の芸の酒脱さは、破れた日本の滴りのようなものである。

 九月――日
 初めて西瓜すいかを割る。今年は例年よりも二十日気候が遅れているとのことだ。久左衛門は、毎朝九時ごろになると必ず私に会いにやって来る。何の用もない、ただ遊びに来るだけだ。私は東京にいても、この朝の時間を潰されることほど苦しいことはない。それもこの老人が現れると、きまって十二時まで動かない。私は一番自分にとって苦痛なことを、ここでは忍耐しているのだ。私は人が朝来たときは、その日一日死んだつもりになるのが習慣だったが、ここではそれが毎日だ。そこで、このごろ私は講習会に出席したつもりになって、この老人から農業について学ぶことにした。それにしても、これから以後ここにいる限り、この教授の出席が毎日続くのかと思うと溜息が出る。
「お困りなら今勉強中だといって、お断りしなさいよ。」と、妻は私のひそかな溜息を見て云った。
「僕は気が弱いんだね。どうも、それだけは云いかねるよ。あのにこにこした顔を見ちゃ、ひとつこの爺さんに殺されてやれ、と思うから不思議だ。お前断ってくれ。」
「じゃ、今度見えたら云いますわ。」
「しかし、一寸待ってくれ。あの爺さんの云うことは、こっそりノートをとって置きたくなることもあるんだが、ノートをその場でとると、こっちの職業がすぐ分っちまうからね。そいつが困るんだよ。細かい数字のことになると、どうも僕は忘れてばかりだ。」
「でも、そんなに面白ければ、お会いになってもいいじゃありませんか。」
「しかし、夜はこの部屋へは電気が来ないし、眠るとなると、この蚤で眠れたもんじゃない。朝になると、昼まであの爺さんが動かぬし、やっと午後から昼寝の時間を見つけると、これは眠っているんだから、おれの時間じゃない。おれは、もう生死不明だ。生きているなと思うときは、朝起きて、茄子の漬物の色を見た瞬間だけだね。あのときは、はッとなるよ。」
「ほんとに蚤には、あたしも困ったわ。一日だけでいいから、どっか蚤のいない所で眠ってみたいわ。」
 こんな会話を二人でひそひそ洩しているときでも、私たちには今一つ、別の不安が泌み込んで来ていた。それは四月に疎開してきた妻が、わずかよりない私たちの銀行の預金帳を、銀行焼失のためこちらで他の東京の銀行へ移管させたのが、四月以来いまだに東京から返送して来ないことだった。四月から九月まで、一銭の金銭も取れぬということと、それがまだいつまで続くか不明の故に、一家四人をひきつれて所持金なしの旅の空は、乞食同様で、考えたら最後ぞっと寒気がする。私の持って来た金銭がも早やいくばくもない折だ。この蚤から逃れる方法は、今のところ見当がつきかねる。誰も同様に困っているときとて、他人から借りる工夫もなりかねるこの不安さに対しては、援けなど求めようがない。赤の他人ばかりの中の、その日、その日の雨多いこのごろだ。

 九月――日
 米の配給日――この日は心が明るくなる筈だのに、私ら一家は反対だ。配給所まで一里あって、そこを二斗の米を背負って来ることは不可能である。人夫を頼もうにも、暇のあるものは一人もない手不足だ。駅まで半道、それからまた半道、長男と妻と二人で行く。その留守に私は道元の「心不可得」の部を読む。岩波版の衛藤氏編中のものだが、この衛藤氏は新潟在に疎開中で、そこからときおり夫人が菅井和尚の寺まで見えるとのことだ。道元集も、私が和尚から貰ったもので、和尚も著者から貰ったもの。
「奥さんが先日も来られて、一度でいいから、白い御飯をお腹いっぱい食べてみたいと私に云われましたよ。あの日本一の豪い仏教学者を食うに困らせるとは、何という仏教界の恥だろう。」と、菅井和尚は私に憤慨を洩したことがある。私の妻は蚤に、この夫人は米に悩まされている最中だ。
 私は道元禅書の中からノートヘ「夏臘げろう」という二字を書き写した。叢林に夏安居して修業したる年数をいう、と末尾に註釈がある。他に、
 奇拝――(弟子の三拝九拝に対して師の一拝の挨拶)有漏うろう――(煩悩のこと)器界――(世界のこと)秋方――(西の方)
 私は以上の五つを書き抜いてみて、次の随筆集の題を選びたく、思い迷っているとそこへまた久左衛門が現れた。私は本を伏せまた二人で庭の竹林にむかい、しばらく黙って竹の節を眺めていた。「夏臘」という字と、「有漏」という字が、節の間を往ったり来たりする。そのうち、だんだん、「有漏」の方が面白く押して来たので、ひそかに舌の端に乗せてみながら、私は久左衛門の顔を見た。
「和尚さんのことで、一寸。」と久左衛門がいう。
 今日は菅井和尚の使いで来たのだ。この久左衛門は前から、和尚の寺の釈迦堂へ遠近から来る参拝人に、本堂の横の小舎で汁と笹巻ちまきを売っていた。それが資本となり彼が財を成した原因である。それ故和尚にだけは久左衛門も頭が上らない。その和尚が私の所へ、おはぎを携げて遊びに見えてからは、久左衛門も幾らか私への待遇が変って来て、今までは崩した膝を両手で組んでいたのも、このごろは、揃えた膝の上へ両手を乗せるまでになって来た。これは釈迦堂のお蔭である。そういえば、この菅井和尚の寺の釈迦堂からは、私たち一家は思わぬ手びきを受けている。私の妻がまだ一度も行ったことのないこの村の釈迦堂へ、実家のある街から汽車に乗り、参拝に来て、久左衛門の小舎の笹巻を買ったついでに、このあたりに部屋を貸す農家はないものかとふと訊ねたのが、私にこの六畳を与えられた初めだ。私は今も山を廻った所にある釈迦堂の上を通る度に、「よく見よこの村を」と、そっとささやかれているように思うのだが、一つはそのためもあって、早く東京へ戻ろうという気持ちは起って来ない。
「和尚さんはのう、あなたの家をこの村へ建てようじゃないかと、おれに云わしゃるのじゃがのう。どっか気に入った場所を探して、そういうて下され。そうしたら、村のものらでそこへ建てますでのう。」
 甚だ話が突然なので私は答えに窮した。しかし、それだけでもう充分結構なことだ、深謝して辞退したきこと、久左衛門にいう。しかし、この村には眺望絶佳の場所が一つある。そこが眼から放れない。その一点、不思議な光を放っている一点の場所が、前から私を牽きつけている。
 それは私の部屋から背後の山へ登ること十分、鞍乗りと呼ぶ場所だ。そこは丁度馬の背にまたがった感じの眺望で、右手に平野を越して出羽三山、羽黒、湯殿、月山が笠形に連なり、前方に鳥海山が聳えている。そして左手の真下にある海が、ふかく喰い入った峡谷に見える三角形の楔姿で、両翼に張った草原から成る断崖の間から覗いている。この海のこちらを覗いた表情が特に私の心を牽くのだが、――千二百年ほどの前、大きな仏像の首がただ一つ、うきうきと漂い流れ、この覗いた海岸へ着いた。それに高さ一丈ほどの釈迦仏として体をつけたのが始まりとなり、以来この西目の村の釈迦堂に納ったのみならず、汽車で遠近から参拝の絶えぬ仏となった。どこかビルマ系の風貌だが、この仏を信仰するものは米に困らぬという伝説があって、平和なときには毎日堂いっぱいの参拝人だとのことである。米作りの名人久左衛門の小舎の笹巻の味もこの仏像の余光を受けて繁昌した。それもこれも、すべてはこの海の表情の中に包み秘められている絶景だ。羽前水沢駅で降りて半里、私はここの鞍乗りの一箇所へ、炉のある部屋をひとつ自費で建てたくもなって来た。

 九月――日
 妻に部屋を建てる話をすると、私よりも乗り気である。しかし、ここでは、大工の賃金を米で支払わねばならぬとのことだ。それならも早や部屋も半ば断念した。野菜もこの村は自家の用を足すだけより作っていない。米作専門の農家ばかりで野菜を買うにはひと苦労である。魚は山越しの海から売りに来るが、米欲しさの漁夫たちの事故、先ず農家へ米と交換で売り、残りを私たちに持って来る。
 ある朝、私が縁側で蚤を取っていると、裏からいきなり這入って来た農婦が、何やら意味の通じぬことを私に喋ったことがある。妻に翻訳させると、子供を白土工場へ入社させたいので、その履歴書を私に書いてくれという意味だった。その場で書いてやった返礼に、米一升をどさりと縁側にほうり出して農婦は帰っていったが、私の文筆が生活の資に役立ったのはこれが初めてだ。朝早く隣りから天作を誘う少年は私の書いた履歴書の主である。その声が寝床へ聞えると私も起きるようになった。またそこから野菜も頒けて貰えるようになったりした。米も無くなれば一升や二升はただでやるという。この農婦のことを宗左衛門のあばというが、金を出すから米を売って貰いたいと妻が頼むと、手を横に振り振り、
「金は要らん要らん。米はやるやる。」
 と、あばは云う。話のあまり良すぎることは、こちらもそれに乗るわけにもいかないだけ、この福運はこれで断ち消えになったも同様である。
「困ったわね。ああ云われちゃ、お米も買えないわ。」と妻は歎いた。
 しかし、人の懐勘定をするように先ずあそこには米があるのだと、ちらりと覗いたことになって、ますます私は自分の文筆の力を妻に誇って笑った。
「でも、履歴書ならあたしだって書けるわ。」と妻は無念そうだ。
「しかし、何んだかあの男は字が書けそうな人だと、僕のことをにらんだのだよ。あのあばは。睨ませたのはこの僕だ。これで小説を書くなんてことを知られちゃ、もう米も貰えないがね。」
「そうしたら、どうすればいいでしょう。お金も銀行から、いつ来るか分らないし、着物だって無くなって来たし、あたし困ったわ。」
「金が無くなれば川端に電報を打ってやる。まだあるだろう。」
 妻はほッとしたようだ。

 この村に困ったことが起っている。去年、米の供出の場合、村割当量が個人割当に変ったとき、供出せられるだけすべし、すれば一日四合分配給すると命ぜられたことがある。皆そのつもりになって、どこの村より真先にある限り完納した。ところが、四合どころか全然配給なしになった。結果は米を作らせられただけで自身たち食う米がなくなり、そのため村全体でない家を救いあうという始末だ、そして、今はその余力の続き得る限界まで来かかった米不足の声声が、満ちて来ている。ただ望むは秋の新米の生れることばかりで、「勝つために」という標語を掲げて瞞着した供出振りに対し、名誉を得たのは、ただ一人供出係りの実行組合長だけだという実感で、非難をその名誉に向けて放っている。非難の的の組合長は、参右衛門の妻の実家だ。またこの組合長は村で五位の、久左衛門と税金が同額で、何にかにつけ敵に廻って来ていた折の今年になり、ついに久左衛門から抜かれて来た。
「おれは何もかも知っとる。」と久左衛門は私に云った。「あの組合長の兵衛門は、駐在所へおれのことを、密告してのう。寺で笹巻売るというて、おれは駐在所へ呼びつけられた。おれは寺で笹巻売っても良いというから、完納してから売っていたのじゃ。はい、売りました、とおれは云うと、駐在所はのう、おれに同情してくれて、そんなこと今ごろするな、誰が報らせに来たか、お前には分っとるだろう、と云わしゃるから、はい、分っとります、とおれは云うた。はははは――密告したのじゃ。おれは、村のもののしていることを、何もかも知っとるでのう。おれだけが知っとるのじゃ。おれは、村の精米所の台帳を預っておるので、それを別に細かにみんな書き写して持っとる。どこにどれだけ米があるか、ないか、どこが無いような顔して匿しとるか、みんな知っとるのは、おれ一人じゃ、はははは――おれはいつでも黙って、知らぬ顔を通して来ているが、神も仏もあるものじゃ。それでおれは、みんながおれの悪口をいうと、いつか分る、おれが死んだら何もかも分る、そう云うて他は一切云わぬのじゃ。はははは。」
 久左衛門は笑ってからまた後で、
「神も仏もあるものじゃ。」と繰り返した。そして、顔を上げると、「おれは嫌われておるのでのう。おれの悪口ばかりみなは云うが、おれのことを分るときがきっと来る。おれは、何もかも細かに書いて仕舞っとる。」
 この老人の長所は何より自信のあることだ。

 九月――日
 夜の明けない前に、清江の刈って来た真直ぐな萱の束を、小牛と小山羊が喰っている。強烈な匂いを放った刈草の解けた束に朝日が射し込み、獣の口の中へ、鋭くめり入る折れた葉の青さ。云いがたい新鮮さで歯を洗う草の露。――堆肥の上から湯気が立ち、その間から見える穂を垂れた稲の大群の見事さ。家の周囲をめぐっている水音。青柿の葉裏にちらちら揺れる水面の照り返し。台所には、里芋の葉で一ぴきの赤えいが伏せてある。

 霽れたかと思うと海の方から降って来る。みのを着て庭掃除をしている農婦。あなごやえいの籠を背負い、栗の木のある峠を降りてくる漁婦の姿。これらが雨の中で、米と交換の売買をしている魚籠を、一人二人と集り覗く農婦の輪。もうどこも米がなくなって来ているので、がっかりした漁婦は私たちの縁側へ廻って来て、最後に魚籠をひろげた。
「銭でもええわのう。糸があれば、なおええが。」と悲しそうな声で漁婦はいう。
 私たちは、あなごや赤えいを買い入れ、それを持って汽車で鶴岡の街まで出て、そこの親戚から交換で青物を貰って来るのだ。ここでは村と街とが反対の土産物だが、それほど金銭では野菜の入手が困難だ。米は勿論、味噌も醤油も金銭では買えない。それにも拘らず、ほそぼそながら一家四人が野菜を喰べていられるというのは、不意に近所から貰ったり、清江が知っていて、そっと私たちにくれるからである。妻は毎日あちらに礼をいい、こちらに礼をのべ、ひそかに私が聞いていると、一日中礼ばかり云っている。あんなに礼ばかり云っていては、心の在りかが無くなって、却って自分を苦しめることになるだろう。実際、物乞いのようにただ乞わないだけのことで、事実は貰った物で食っている生活である。人の親切は有難いが、これが続けばそれを予想し、心は腐ってくるものだ。
「ほんとにお金で買えれば、どんなに良いかしら。あたし、お礼をいうのにもう疲れたわ。」と、ある日も妻は私に歎息した。
 物をくれるのに別に人情を押しつけて来るのではない。ただ自然な美しさでくれるのだが、それなればこそ一層私たちは困るのだ。一度頭を昂然とあげて歩きたい。
「困るようなことはさせんでのう。」
 と、このように呟いた久左衛門の言は、今やまったく反対の意味で嘘になって来たわけだ。思いが現実から放れる喜びというものは、たしかに人にはあるものだ。恩を忘れる喜びを人に与えたものこそ、真に恩を与えたものの美しさだろう。間もなく私は東京へ戻り、忘恩の徒となり、そしてますます彼らに感謝することだろう。

 農家のものの働きを知るためには、ある特定の人物を定め、これにもっぱら視線を集中して見る方が良いように思う。私は清江の行動に気をつけているのだが、この婦人は一日中、休む暇もなく動いている。今は収穫前の農閑期だのに、清江はもう冬の準備の漬物に手をかけたり、醤油を作る用意の大豆を大鍋でったり、そうかと思うと草刈り、畠に肥料をやり、広い家中の拭き掃除をし、食事の用意、一家のものの溜った洗濯物、それに夜は遅くまで修繕物だ。自分の髪をくのは夜中の三時半ごろで、それを終ると、かまどに焚きつけ、朝食の仕度、見ていると眠る暇は三時間か多くて四時間である。驚くべき労働だ。
「少し遊びなさいよ。」
 と私は冗談を云って茶を出すことがあるが、茶は嫌いだと清江はいう。農家のものの働きに今さら感心することが、おかしいことだと人はいう。定ったことだからだ。しかし、定ったことに感心し直さないようなら定ったことは腐る。よく働くことを当然だと思う心が非常な残酷心だと思い直さねば、生というものは感じることは出来ない。都会が農村から復讐を受けているといわれる現在、善いことは復讐を感じたその心の動揺であろう。不安、動揺、混乱は、まだ失われぬ都会人の初初しい徳義心の顕れだ。それにしても、私は眠い。蚤のために私は一日三時間より眠っていない。

 私たちペンを持つものの労働は遊ぶ形の労働だが、人はいまだにこれを労働と思わない。まことに遊ぶ形の労働なくして抽象はどこから起り得られるだろう。また、その抽象なくして、どこに近代の自由は育つ技術を得ることが出来るだろうか。私は感歎すべき農家の労働にときどき自分の労働を対立させて考えてみることがあるが、いや、自分の労働は彼らに負けてはいないと思うこともたまにはある。

 朝鮮のある作家に、ある日、文学の極北の観念として、私はマラルメの詩論の感想を洩したことがある。独立問題の喧しくなって来ていた折のことだ。
「マラルメは、たとえ全人類が滅んでもこの詩ただ一行残れば、人類は生きた甲斐がある、とそうひそかに思っていたそうですよ。それが象徴主義の立ち姿なんですからね、もし芸術を人間のそんな象徴と解したときに、君にとって独立ということは、あれははっきり政治ということになるでしょう。」
 朝鮮の作家は眼を耀かせて黙っていた。しかし、この作家はもう朝鮮へ去っている。

 日本の全部をあげて汗水たらして働いているのも、いつの日か、誰か一人の詩人に、ほんの一行の生きたしるしを書かしめるためかもしれない、と思うことは誤りだろうか。

淡海のみゆふなみちどりながなけば心もしぬにいにしへ思ほゆ(人麿)
 何と美しい一行の詩だろう。これを越した詩はかつて一行でもあっただろうか。たとえこのまま国が滅ぼうとも、これで生きた証拠になったと思われるものは、この他に何があるだろう。これに並ぶものに、
荒海や佐渡によこたふ天の川(芭蕉)
 今やこの詩は実にさみしく美しい。去年までとはこれ程も美しく違うものかと私は思う。

 こういうときふと自分のことを思うと、他人を見てどんなに感動しているときであろうとも、直ちに私は悲しみに襲われる。文士に憑きもののこの悲しさは、どんな山中にいようとも、どれほど人から物を貰おうとも、慰められることはさらにない。さみしさ、まさり来るばかりでただ日を送っているのみだ。何だか私には突き刺さっているものがある。
愁ひつつ丘にのぼれば花茨(蕪村)

 と誰も口誦むのは理由がある。この句は人と共に滅ぶものだ。耕し、愛し、眠り、食らうものらと共に滅んでゆくものでは、まだ美しさ以外のものではない。人の姿などかき消えた世界で、次ぎに来るものに異様な光りを放って謎を示す爪跡のような象徴を、がんと一つ残すもの。それはまだまだ日本には出ていない。人のいた限り、古代文字というものはどこかに少しはあったにちがいなかろうが。

 しかし、私は米のことを書こう。滅ぼうとしてもまだここに人人が喰い下ってやまぬ米のことを。どんなに人人が自身に嫌悪を感じようとも、まだ眼を放さず見詰めている米のことを。これは農村のことではない。谷から、川から、山襞やまひだから、鬼気立ちのぼっている焔のことだ。私は地獄谷を書きたい。今ほどの地獄はまたとないときに、その焔の色も色別せず米を逐う人人の姿は、たしかに人が焔だからだ。自身の中から燃えるものの無くなるまで、火は火を映しあうだろう。

 九月――日
 雨だ。こんな日の雨天は、稲の花が結実しようとしている刻刻のころだから、朝夕が涼しく、日中がかッと暑くなくてはならぬものだ、と久左衛門が私にいう。もし今日のように雨天なら、実の粒が小さくて、一升五万粒を良とすべきところも、七万粒なくては一升にならぬ。これは不作だと。

 一粒の米を地に播くと三百粒の実をつける。一升五万粒を得るためには、百六十六粒の種子が必要となるわけだが、一反で二石の収穫を普通とするここでは、供出量を一反につき二石と命ぜられたとのことである。それなら来年度の種子米さえないわけだ。しかしながら、二石とり得られるのはすべての家からではない。一反につき一石七八斗の家が多い。良くて二石二三斗。それだと供出をするのに、どうしても無い家はある家から、不足の分二三斗を借りねばならず、そうして完納をすませた結果は、良くとれた家の米を無くしてしまい、現在のこの村の悲鳴となって来たのである。その上に約束の配給がないとすれば、日日自分の喰う米を借り歩くのも、どこから借りるかが問題だ。ところが、人手があって勉強をしたものの家は、二石五六斗も採れたのが中にはある。この家だけが供出もすませ、人にも貸し、なお二三斗を残して自分の生活を楽にしたのだが、今はこれをさえ人人は狙い始めた。この狙われているのが、別家の久左衛門だ。本家の参右衛門の方は借り歩き組の代表格で、貧農派はここの炉端を集会所にしている関係上、不平はいつもこの炉端の火の色を中心に起っている。
「もうじきに共産主義になるそうじや、そうなれば面白いぞ。」
 と、こういう声もときどき、誰か分らぬながら、この火の傍から聞えて来る。

 久左衛門の家へ集るものは、自作組で上流派だ。この家は酒の配給所をもかねているから、集る炉の中の火の色も、燃え方が参右衛門の家のとは違っている。ここは酒あり米ありの城砦だ。今は久左衛門の物小舎は、この上流組からも狙われているのである。酔い声が少しでもここから洩れて来ると、どこの炉端の鼻もすぐその方へひん曲る。
「ふん、どこへ匿してあるのかの。」
 と、参右衛門の方の集りは、いら立たしげだ。私はよく雨天のこんな所を目撃したが、そのときの男たちの眼の色は、米のときとは少し違って狂的だ。
「あの調子だと、朝から続けて飲んどるのう。」と一人がいう。黙り込んで聴き耳を立てていてから、また一人が、「ようあるこったのう。」とぶつりという。
 もううずうずしている別の一人が、自棄やけに茶ばかり飲んでいる傍で、参右衛門は、煙管を炉縁へ叩きつけてばかりいる。酔い声が少し高まって聞えると、彼の顔は苦味走って青くなり、額の下で吊り上った眼尻にやにが溜る。不機嫌なときの参右衛門ほど露骨に不満を泛べる我ままな顔は少いであろう。しかし、これが一旦和らぐと、子供も匐いよりそうな温和な顔に変って来る。鬼瓦と仏顔が一つの相の中で揉みあっている彼の表情の底には、貞任や、山伏や、親王や、山賊やが雑然とあぐらをかいて鎮座した、西羽黒権現の何ものかを残している。ここは古戦場だが、彼の表情も、争われず霊魂入り交った古戦場だ。

 九月――日
 十米の眼前に雨が降りつつもこちらは照り輝いている空。山から幕のように張り辷って来る驟雨。稲の穂の波波うち伏した幾段階。――釣の一団が竿を揃え、山越えに行く足なみ。その尖がった竿の先がぶるぶる震えつつ日にあたっている。白く粉をふいた青竹の節節の間を、ゆれ過ぎてゆく釣竿の一団の中に、私の子供も一人混っている。この子はいま釣に夢中だが、ほとんど釣れたことがないに拘らず、餌の海老ばかり買っては盗られている。魚が盗るのか、人が盗るのか、答えはいたって不明瞭なので、ある夜、私はこれを煮て食べてみると、これは磯の魚よりはるかに美味だった。以来ときどき盗人になるのはこの私だ。野菜が少なかろうと、海で山越しの魚がなかろうと、もう恐るるに足りない。実際、これさえあれば――私は全くこんなことに興奮するほど、日日の生活が不安だったのだろうか。しかし、たしかに、釣餌の小海老を発見してからは私は勇気が出て来た。手で受ける半透明の海老一寸のこの長さは、焔を鎮める小仏に似て見える。何と私はこのごろ汎神論的に物が仏と映るのだろう。日本の思想はいつもここで停止して来たようだ。

 今、この村にとってもっとも必要なものはだい一に米、以外には塩と布切れだ。清江が今朝早くから家を出たまま、一度も姿を見せぬのは、隣村の早米の田を持つある家へ、稲刈に行っているからだと、妻は云った。
「もう稲刈か。」と私はおどろいて訊ねた。
 参右衛門たちには食べる米がないので、自分の家の収穫時まで喰いつなぐ米を、早米の田を持つ家の稲を刈り、そしてそこから借りるのだとの事である。なるほど、そういう自由な借米法があれば、周章あわてずともすむわけだと思った。無理な供出の不足を補うために、こうして他人の田の厄介になりつつある農家は非常に多いそうだが、それはとにかく、今年の米は早くも田から出て来たのだ。敗戦の底から地のいのちの早や噴き湧いて来ている目前の田畑が、無言のどよめきを揚げ、互いに呼びあうように見える。まだ去年までなかったものが生れているのだ。のっそりと※(「口+愛」、第3水準1-15-23)おくびをしたり、眼をぱちくりさせたり、たてがみを振ってみたり、――それにもう刈りとられて仕舞うその早さ。あくなき人の残酷さ。
 
 参右衛門は脚に瘍が出来て一晩眠れずに苦しみ通し、今日は遠方まで医者通いだ。久左衛門は、茄子畑へ明礬みょうばんを撒けば来年も連作が出来るので、茄子にしようか、馬鈴薯にしようかと朝から迷っている風だ。
 この夜、砂糖二十匁ずつ配給。夕方の六時から十一時まで、皆を並ばせた前で、計ってみたり減らしてみたり、最後に五百匁が足りなくなると、また皆のを取り上げ、計り換えて減らしたり。村へ甘さ一滴落ちて来るとこんなものだ。

 九月――日
 馬の足跡にしみ込んだ雨水に浮雲の映っている泥路、この泥路を一里、大豆の配給を受けに妻と私と二人で行く。配給所へ着いてもまだ肝心の豆が着いていない。群衆は居眠りして待っている。すると、そのとき野末の遠い泥濘の真ん中で、大豆を積んで来た牛車が立往生して動かないのが見えた。「あれだあれだ。」という声声にみな眼を醒して望む。しかし牛は突いても打っても動く様子がない。しびれを切らした群衆は、牛が動いては停るたびに、いら立ち騒ぎ、手んでに牛をぶっ叩く真似をする。牛車はちょっと動いたかと思うと、またすぐ停る。「えーい、もう、腹が立つう。」と叫ぶ農婦があった。「歯がいいッ。」と、足をばたばたさせるもんぺがある。自転車で飛び出すもの。空腹で帰って行くもの。皆ぷんぷん膨れ返って待っている中を、牛はのたりのたりと、至極ゆっくり動いてくる。前後待つこと三時間、ようやく私と妻は五升の豆を袋に入れ、また一里の泥路を帰って来た。この路は眼を遮ぎるもののない真直ぐな路のため、歩けど歩けど縮らぬ。十時に家を出て帰り着いたのが三時半だ。昨日夕食を摂ってからまだ私は何も食べていない空腹に、ひどく砂の混った屑豆は怨めしい。それに、もう虫の奴がさきに半分も喰ってしまっている。

 久左衛門の長男の嫁は無口でよく働く。昨旦二里ほどある実家の秋祭に帰ったが、一晩宿りで百合根、もち米、あずき、あられ、とち餅、白餅などを背負いこんで戻って来ると、こっそり裏口から持って来てくれた。妻はほくほくして礼を云うついでに、紙包を渡そうとしたが、どうしても受けとらない。黙って跣足で来て、どさりと縁側へ転がして、また黙ってすたすた帰っていった。いつも頬がぼっと赭く、円顔で、吉祥天のような胸のふくらみ、瑞瑞しい新鮮な足首だ。
 参右衛門の家の長男の嫁は、良人が出征のため夜だけは寝に来るが、昼間は朝から実家へ帰りきりである。清江が嫁の実家へ行ってみると、誰もいない家の中で、嫁ひとり腹痛で七転八倒している最中だとの事である。嫁競争、息子競争の本家、別家を通じて、今のところ第一等を占めつづけているのは白痴の天作であろう。

 九月――日
 青柿いよいよ膨れてくる。雨滴に打たれて絶えず葉を震わせている羊歯しだ。水かさを増した川で鮒釣りする蓑姿。山鳩のホーホーと鳴く声。板の間に転っている茄子に映った昼間の電灯。森の中から荷馬車で帰ってゆく疎開者の荷が見える。雨の庭石の上を飛ぶ蛙。鯉が背を半ばもっこり水面からもたげたまま、雨の波紋の中を泳ぎ廻っている――
 千年の古さを保った貴品ある面面の石塊。どの屋根の上にも五つ六つの千木を打ち違え、それを泛き上らせた霧雨がぼけなびいて竹林に籠っている。木を挽く音。

 九月――日
 雨はやまない。この雨で稲は打撃だ。ここで一時間でも良いさっと照らないと、稲は実にならず、茎ばかり肥る憂いあり。困ったことだという憂色が全村に満ちている。
 主婦の清江は板の間の入口で、明るみの方を向いて坐り、田螺たにしを針でほぜくっている。参右衛門は朝から憂鬱そうに寝室に入って寝てしまう。山鳩のホッホー、ホッホーと鳴く声に、牛がまた丁度、空襲のサイレンと同じ高まりで鳴きつづける。
 午後――雨に濡れた青紫蘇をいっぱいに積み上げた中で、清江はその葉を一枚ずつむしりとる。芳香があたりに漂っていて、窓から射すうす明りに葉は濡れ光っている。紫蘇の青さが雨滴を板の間にしみ拡げてゆく夕暮、雨蛙が鳴き、ざるにつもった紫蘇の実の重い湿りにあたりが洗われ、匂いつつ夜になる。ホッホー、ホッホーと、山鳩のまだ鳴く雨だ。穏かでない、重苦しい夜の雨――

 九月――日
 どこの農家もますます米が無くなって来た様子だ。馬鈴薯と南瓜で食べつなぐ家が多くなる。こんなとき芋を売る家は、米があるからだとすぐ分る。去年の供出に際して、持っているのに無い顔を装ったものの、露われてゆくのも今だ。米が無いということは、一種の誇りになり変って来ているのも今だ、各自の米を借り歩く不平貌に、ある物まで伏せてみせねばならぬ、急がわしげな歩調の悩みもある。明らかに有ることの分っている家へ集まる恨みから、超然とはしがたい苦しさや、いや、たしかに自分の家だけは無いという堅苦しい表情など、それらが雨の中をさ迷い歩く暇の間も、村の共同精米所だけは、どこにどれだけあるか、無いかをにらんだ静けさで、ひっそりと戸を閉めつづけている無気味さだ。

 九月――日
 早朝の空を見上げ、雲間から晴れの徴候を見てとると、いつも黙っている清江もひと声、
「もやもやしてるのう。天気だ。」
 と云う。しかし、それも間もなくかき曇って来る。
 二三日前からの悪天とともに続いて来ている不平が、村をかく苦しみに落した実行組合長の兵衛門に対い、集中して来た。参右衛門の家の炉端に集った貧農組も、口口に彼に悪態をついている。清江の実家の攻撃されているこの苦境を切り抜けようとする参右衛門の苦策は、誰より先に、自分自身が彼を攻撃することだ。妻と村とに絞めつけられた脂肪が、赭黒く顔に滲み出し、髭も伸び放題だ。
「もう死ぬ。もう死ぬ。」
 そんな声も、米の無い借り歩き組の主婦の口から洩れて来る。久左衛門の門口や裏口は、こんな主婦たちに攻められ通しだが、今はもう誇張ではない、雨の中のうめきになった「もう死ぬ。」だ。

 夜中から暴風になる気配がつよく、ざわめく空の怪しげな生ぬるさ、べとついた夜風が部屋の底を匐っている。眠ってしまって誰もいない炉灰の中から、埋めてある薪がまたゆらゆらとひとり燃え始めた。起きているのはその焔ばかりだ。広い仏壇の間では、宵に清江の摘み終えた紫蘇の葉が、縮れた窪みにまだ水気を溜めて青青と匂っている。
 私は眠れぬので幾度も起きて雨雲を見た。ますます暗くなるばかりの雲の迅さ、黒い速度のような鈍いうなりをあげて通る風に背を向け、炉端にひとり坐っていると、いつか読んだ、「まのままの真は、せよりも偽せだ。」というヴァレリイの言葉がふと泛んで来た。何という激しい爆裂弾だろうか。いよいよ来るぞと私は思った。何が来るのか分らぬながら、とにかく来ると思って、焔を見ながら坐っていた。

 生まのままの真は偽せよりも偽せだ。(ヴァレリイ)――この言葉はたしかに高級な真実である。しかし、この高級さに達するためには、どれほど多くの嘘を僕らは云い、また、多くの人の真実らしいその嘘を、真実と思わねばならぬか計り知れぬ。それにしても、ヴァレリイは死んだと聞く。真偽は分らぬが、風の便りだ。嘘だと良いが。

 九月――日
 暴風で竹林が叫び、杉木立が風穴をほって捻じまがっている。山肌が裏葉をひんめくらせて右に左に揺れ動き、密雲の垂れ込んだ平野の稲は最後の叫びをあげている。頭が重く痛い。牛のもうもう鳴きつづけているのが警笛のようだ。炉の中では、焚火が灰の上を匐い廻って鍋が煮えない。開けた雨戸をまた閉める音。わめき狂う風で、雨も吹っち切れて戸にあたらない。
 農村だのにどこもかしこも米がなくなっていて、もう死ぬ、もう死ぬと、露骨にそういう声声の聞えているところへこの雨だ。私のいる家の亭主は長男の嫁の家へ米借りに出かけて行く。労働の出来ないこんな悪日を利用して、主婦の清江は味噌取りに駅まで行き、一日がかりでその傍の、仏の口というものを聞きに行く。春秋二度、毎年ある巫女から、自分の思いためらう心配事について聞き質しに行くのだ。この清江の心ひそかな心配事というのは、およそ私に想像はついているが、帰ればそっと妻にかせてみたい。私には清江も云わないだろうから。

 他人の心の奥底の心配ごとをこっそり覗きたいと思う悪心は、この主婦の清江に限って私は働かせてみたいのだ。この主婦の思い願うものは驚くほど質実単純なことにちがいないのだが、その心の底から、私は鎌倉時代の女性の心をまともに感じてみたいのだ。ここはすべてが鎌倉時代とは変っていない。風俗、習慣、制度、言語、建築、等等さえも――ただ変っているのは、精米所と電灯があるぐらいのことだろう。今どきにしてはまことに珍らしい村だ。
 暴風が鎮って来ると、真っ先に活動し始めたのは蝉だ。それがまだ羽根の具合が悪いのかぴたりと停ると、別のがずっと高い旋律で鳴き出した。そのうち、あちこちからまた蝉の声が満ちて来て、すっかり風雨もやんだ。池は濁っていて鯉が水面に浮いている。しかし、それもしばらくだ。午後からの暴風は、東京地方から富山県下を廻り、日本海に添ってこの庄内地方へも廻って来たと、ラヂオは報じている。

 屋根の煙抜きの吹き飛ぶ家。電線がふっ切れ、立木が根から抜け倒れる。乱舞する木の葉、枝ごとち切れ飛ぶ青柿。真垣は捻じ倒され、ごうごうと鳴りつづける森林。実をつけた桐が倒れる。池の水面は青落葉でいっぱいになって、鯉も見えない。

 いよいよ今年は不作だ。この決定的な暴風の中でまた米の問題が色濃くなる。朝から米を借り歩いている農夫らが、私のいる参右衛門の炉端へ、木の葉のように落ち溜って来る。雨戸を閉じきったうす暗い部屋の中で、また毎日のようにいつもの不平をぶつぶつと呟きつづける。どこそこは米が有るのに、無いような顔をして借り歩いているとか、いや、あそこは事実ないと弁解してやるもの。しかし、あ奴は米がないと云ってるくせに、豆の配給となると、米より豆の方が良いといって、第一番に跳んで行くではないかと怪しむもの。いや、あそこへ米を借りに行ったら、兄だのに二升の米さえ弟に渡さなかったという。それで参右衛門は気の毒がって、自分がいま嫁の実家から借りて来たばかりの一斗分を、二升それに貸してやる。
「このごろのようなことは、この村始まってからないことじゃ、良い語り草になるじゃろう。」と一人がいう。
 雨戸や板戸へたたきつけられる木の枝。樹木のめりめり倒れる音。鳴きつづける山鳩の憂鬱な声。右往左往して揺れ暴れる稲の穂波。割れ裂けるガラス窓。水面の青葉をひっ冠ったまま跳ね上る鯉。

 そこへ私にここ参右衛門の一室を世話してくれた別家の久左衛門が這入ってくる。この老人の完納者は、朝から米を借りにくるものらを断りつづけ、疲れはてた様子で、いつもより早口になっている。声も高い。
「死ぬ、死ぬ、いうて、朝からもう、来るわ来るわ。米を貸してやるのは人情だ。けれども、毎年貸してばかりで、借りる方は、借りるのを当然だと思うて有難がりもしやしない。今年も貸してやるとなると、借りたものが助かって、貸したものが死ぬじゃないか。死ぬなら共倒れになりたいものじゃ。借りたものだけ助かって、おれだけ死ぬのはおれはいやだ。」
「それはそうだのう。」と一人がぼんやりした声でいう。
「もうこうなれば、誰も米がないということにするより仕様がない。あれがある、これがないといっていたんでは、始まらないじゃないか。あっちから貸せ、こっちから貸せでは、もうおれの米だって、いくらもないわ。新米が出たら返すというが、古米を貸して新米で返されたんじゃ、一升五合と一升二合との替えことで、話にもなるまい。古米は古米で返して貰わねば、ま尺に合わぬわ。」
 なるほど、新米一升と古米一升では、炊き増えする古米を貸したものの方が、はるかに損をするということ。これは私には分らなかった。外から観ていただけでは分らぬ多くのことが、山積している日日だ。
「だいいち、実行組合長がこんなことは分っていた筈だろ。」
 と参右衛門がいう。この組合長は彼の妻の実家だ。妻の清江を守る意味でも、参右衛門から先だって大きな声で攻めねばならぬ義理があるのだ。
「組合長が米を出せ出せというて、みんな出させたからには、責任を負う覚悟があっていうべきだ。それに自分が借りられると、米がないから出せぬというのは、実行が伴なわぬじゃないか。自分の食うべきものまでやってこそ、人にも出せといえるのだ。自分だけが損をせず、村に完納させた名誉だけを取ろうとするのは、虫が良すぎるというものだ。誰もこの村で食えないものは、一人もなかった。」
「そうだ、そんな貧乏なものはいなかった。」とまた一人がいう。
「それならば、自分だけ損をしないように工夫するのは不法というものじゃ。人に損をさすなら、自分もそれだけ損するが良いのじゃ。」
 そこへ、主婦の清江が仏の口を聞きに行って帰って来る。また実家の組合長が矢の表面に立たされていると感じたか、炉の傍へは近よらない。

 農家のものらは、少ない言葉で抜きさしならぬ理窟をいう。自分の領分以外は世界のない綿密さだ。遠い過去からの集団の結集した総能力の中へ埋没した訓練で、自分の手がけた土地の実状に関しては、厳密な設定と等しい計算力を持っている。この頭の良さは、小さな米粒の点と、田の線からなる幾何学とをせずにはいられぬ代代の習慣により、自然に研ぎ磨かれて来ているためであろう。農家を愚鈍と思うものは、ここの言葉の不必要さを知らずに愚鈍としてすます、習慣の誤りだ。空想が少しもなく、天候の示す方向に対して実証を重んじ、土壌の化学と種子の選定以外にはあまり表情を動かさない着実さが、心理の隅隅にまで行きわたっている。まことに言葉以上の記号で生活している最上級の音楽形式がここにある。これを泥臭とばかりに見ていた自然主義は、自身の眼が根柢に於てあまりに自然主義だったというべきだ。

 都会人は農家をけちんぼだと、誰も云って来た習慣があるが、それも誤りだ。都会人の握って来た一銭と、農家のものの握った一銭とは、金銭の通用額は同じだとしても、質が違っている。ここのは真実を実証した肉体の機械のごとき一銭で、投機心から得た混濁したものは何もない。おそらく、都会人の一円と農家の一銭とを同額としてみて、初めて、ようやぐ金銭に対する心遣いに均衡ある判断が下せるかもしれない。農家にとって、金銭は天候の甘露であり、幾何学の重みであり、筋肉に咲いた花であり、祭壇に飾る神聖な象徴物であろう。あるいは、神かもしれない。これを粗末に扱えるものではなく、けちんぼにならざるを得ぬ崇高なものをここに見ぬ限り、農村論は実際は不可能だ。

 本家の参右衛門の妻の清江が、別家の久左衛門をひそかに攻撃する理由は、百姓のくせに笹巻などを売って商売をするから悪いという。商売して金銭を貯めるなら誰でも溜める。それで威張られては農村のしきたりをみだすだけだと、暗に憤りを私の妻にほのめかすことがある。また、清江の実家の組合長がみなの攻撃を受けているのに対しても、みなが組合長になれなれというからなったので、厭だというのを無理にしたのだと弁護する。しかし、今は、村のものは、誰かを攻撃していなければ、じっとしていられないときである。これはどこでも同じであろう。正、不正などということではない。夫婦喧嘩一つでさえも、眼に見えたほんの些細な、悪結果の一つ手前の原因だけを追窮して、事足れりとするものだ。やっつけられる番のものは、現在では、人の気持ちをそれだけ救っていることになっているのだ。私は組合長の人柄について知るところは少しもないが、おそらく悪い人ではないだろう。あるいは、この村では一番豪い人物かもしれないと想像されるふしも感じる。一度調査してみよう。

 仏の口を聞きに行った清江の心中というのを妻に聞かせた。清江の長男のこと、音信のまったくない樺太に出征中の長男は、八月に負傷して今病院に入院中だが、十月になれば帰って来るという。次ぎに、先日預り主に返した小牛の病気について、――この小牛は糞が牛らしくなく固くて、胃腸が駄目だという。このようなことを巫女の口を通した言葉として清江が言うとき、それを傍で聞いている末の子供の十二になるのが、恐がって、ぴったり清江の膝に喰っついたまま離れない。電灯の消えた部屋は真暗で、炉の火だけ明明と揺れている。

 九月――日
 暴風はすんだ。稲は倒れてしまったが、雨が風に吹き込んでいたために、穂に重みが加わり、頭をふかく垂れ下げて互いに刺さり込みあったその結果、実が風に擦り落されずに済んだ。これが風だけだと擦れあい激しく、実が地に落ちてしまって去年のようになるという。しかし、稲の代りに野菜類の実がやられた。稲さえ無事なら先ず今年の米は不作としても、危機だけは切りぬけられたというものだ。

 暴風の後は上天気だ。米のない連中は早稲の刈り入れにかかっている。すでに刈り入れをすませてあった早稲の分は、充分だったといわれなくとも、何とか米にはなる程度に乾いている。少しの量だが、新米の出るまでの喰いつなぎには役立つほどだ。これで村から、死ぬ死ぬという声だけは聞かずともすむ。
「去年よりはまだましだ、去年は風ばかしだったでのう。」
 と、空を見上げ田を眺めて洩す明るい笑顔が見える。次ぎの雨の来ない今のうちに刈り取らねば――
「ああ、今年は早稲の勝ちだ。暴風にあわずにすんだのは早稲だけだ。」
 とそういうものもある。解除の軍隊の眠むそうな顔いっぱい満たした汽車が、ひれ伏した稲穂の中を通ってゆく。

 紫苑の花、暴風で吹きち切れた柿の葉の間から、実が眼立って顕れてくる。つらなる山脈のうす水色の美しさ。
「農業の労働はたいへんな労働だが、始終やっているものには、そう特にむずかしいものではないのう。そんでも、やったことのないものには、これは、とても出来ることではないね。」と久左衛門がいう。
 一冊の本さえ満足にある家は少ない。読みたいと思うよりも、そんな興味を感じる閑はないのだ。そのくせ細かい話も、話し方ではよく通じる。私はあるとき、これで村に一台新しい農具の機械が必要だという場合、どんなことに使う機械が一番必要かと訊ねたことがあるが、すると六十八にもなるこの無学な久左衛門は、
「それは検討せねばならぬことだのう。」
 と、言って暫く考え込んだ。検討という言葉は、辞苑を引いても書いてない新しい言葉だ。またこの老農は、社会上の出来事にもなかなか興味をもっていて、あるとき、
「おれは幾ら聞いても分らんことが一つあるが、労農党と社会党ということだ。あれだけは、どこがどう違うのか、さっぱり分らん。」と云ったことがある。私もこの二つの違いを説明するのに骨折れた。

 このあたりの農夫は、自分たちを労働者だとは思ってはいない。むしろ、米を製造する製作者で、家主という大将だと思っている。それは小作人でもそうだ。ただ村には共有の山林があって、先祖伝来のこれが財産だが、共同の山林であるから、その所有権を有っている先祖伝来派は利益の別け前に預るが、分家だけは除外されて来ているために、村内の同じ株内でも、母屋と分家との二派の対立が生じている。殊に村外から入って来た別家の久左衛門などは、この限りに非ずである。分家派たちは、村の共同事業のすべてには同じように金を出させられ、山林からの収入の恩恵だけは別というのが、話が分らぬという不平がある。実行組合長は、この点に対しても、別家派の久左衛門と対立し、先祖伝来派の旗頭で、随って本家の参右衛門と共通の権威を主張して譲らない。久左衛門が、田畑や山林で頭を抑えて来るこの強敵に対して、力を養うためには、も早や金銭という現金の所有でたち対う以外に法もない。そこを清江のように、久左衛門の商才を攻撃するのは、やはり伝来派の嫉妬と見ても良いわけで、ここにも、新興勢力の擡頭を抑える無言の蔑視が、労農という神聖な姿を通してさえ流れている。

 一つの大事件がある。この村にとってのことだが、そうとばかりはいえないことだ。この村の釈迦堂に戒壇院という一室がある。これは近年建ったこの寺の別室で、檀家七十家の位牌ばかり並べる室だ。建築費は当然村から出したが、費用は一様ではない。そのため、各家の木牌を安置する場所を定めるのに、先祖の古い順序に随うというわけにはいかなくなった。意見は、各家の出費の額に応じて順位を定めねば落ちつかなくなり、入札式を採用して、各自の献納額を紙に書かせ、他人には分らぬよう厳封のまま納めることにした。村にとっては非常な大事件だ。先祖の位置が金銭で決定されることであるから、ひそかに、出すべき基底の額を相談し合う寄りあいが、あちこちで行われた。このときも久左衛門は、後のもつれを明察して、誰より真先きに、一人勝手に百円を納めた。村の一同は、まだごてごてと一円から十円の間を、上ったり下ったりしているときである。いずれにしても、久左衛門には先祖がなく、自分が新しい先祖になる場合だ。どこの先祖をも追い越して、新興の意気を見せねば、生きて来た自分の努力の甲斐がない。
 蓋を開けた結果は、久左衛門が断然一等になっていた。生きながら彼はいま戒壇院を睥睨へいげいしているわけである。ここのこの木牌室ほど県下で立派なものはないということだが、私も一度見た。金色燦爛さんらんたる部屋である。

 私のいる家の参右衛門は、本来ならば戒壇院の最高段に位置する家柄である。しかし、彼一代に酒癖のため貧農になり下った結果は、まんまと別家の久左衛門に位置をとって替られ、危く死者の位置まで落しかけたが、村の一同の納金五円が普通のところを、彼は十円出すと云い張り、ようやく中壇で踏みとまらせた。
「いや早や、あのときは大騒動だったのう。」
 と参右衛門が私に云ったりした。
 農家がせっせと汗水たらして働き通す生涯の労働の大部分は、戒壇院の位牌の位置を現在のまま維持するためか、もしくは、自分の代に前より一段とも上にあげたいがためといって良い。仏の前で、先祖の位置を辱しめるということは、この山川の恵みを落すことになるという、伝来の観念は、農家の根柢から脱けるものではない。無限の労働力は、遠く死者から吹きのぼって来ている力で、これを断ち切ると、みな彼らは新しい先祖となり、都会工場の労働者になることだろう。神仏はもう彼らから逃げ、頭を占めていくものは唯物論の体系となって、再び農村の戒壇院へ逆流し、これを破壊していく。単純のことであるだけに複雑な難問、これ以上のことは今の問題中めったにあるまい。

 日本の労働力には、周知のごとく仏から動いて来る労働力と、科学から揺れて来るものとの二種類が、歴史と自然の関係のように攻め合っている。フランス革命が祭壇から神を引き摺り落して、代りにデカルトの知性を祭壇に祭りあげたことから端を発したような、何かそれに似たものが、こんな所にも這入っている。工場で働いたものらは、農業に従事することはもう出来ない歎きが、この村のどこの隅にもあって、久左衛門の次男の二十三歳になる優秀工なども、農事を手伝おうと努めているとはいえ、力はあり余っているに拘らず、気息奄奄えんえんと動いている。知性と感性の相対は知識階級の個人の中のみに限ったことではなく、今やわが国の山川の襞の中にもふかく浸み込みつつある状態だ。ここでも、デカルトとパスカルの抗争したものが、異形のまま、片鱗人知れず音を立てている。

 集団労働というものがあって、各学校の生徒の団体が、田植、稲刈に農家の田畠の中へ這入っていく。たしかに、このため農家の労働力は援助されてはいるが、これは農村機械化の初めである。もし誰か、ふと頭を上げて考えれば、もう戒壇院に火の燃え移っていることを見るだろう。しかし、それぞれ人間は年をとっていく。誰も若さをそのまま持ちつづけていることは出来ない。とすれば、米を喰いつづけて生きた標印しるしを、木牌一つに残したく思う祈願は人人から消えぬだろう。人に生きた標印をただ一つ許すことぐらいの寛大さは、いかなる非情な主知主義者といえども持ち合せているにちがいないその感情――感情をパスカルは神の恩寵物だという。そして、知性よりもこれを上段に置くのであってみれば、人に死のある限りはこの感情も消え失せまい。生ある限り知は消えぬごとくにだ。しかし、これらはすべて自分の緊急な問題に還って来るところ、農村の問題であるよりも個性の中の設問だろう。

 私は毎日、農村研究をしているのだが、実は、私の目的はやはり人間研究をしているのだ。毎日毎日よく働く農夫に混り、働いても見ずして、農民研究は不可能である。私が働かないという弱点をもって眺め暮していることは、しかし、一つの大きな良い結果を私にもたらしている。それは私はこのため農民を尊敬しているということだ。この尊敬を自分から失わない工夫をするには、先ず彼らと共に働かない方が良い。正当な批判というものはあり得ないというある種の公理が、公理らしくもある以上、これもそれ故に間違っているかもしれないが、一応先ずそれはそれとしてみても、比較的正しさに近づく方法としてでも、傍観の徳ということは有り得るのである。何も傍観することを徳として、自分の味方たらしめようとするわけではない。しかし、人の労働する真ん中で、一人遊んでいる心というものは、誰からも攻撃せられるにちがいない立場であるだけに、少しでも味方を得たいものである。いったい、誰を味方に引き入れれば良いのであろうと考えると、やはり自分よりないものだ。そこで私は自分を私の味方とする。私はこれがいつでも嫌いなのだが、嫌いな奴まで手馴てなずける工夫だって、これで容易ならざる努力がいるのである。傍観の苦しさには、働いているものには分ろう筈がない徳義心がここに必要で、私の愉しみはここから何か少しずつ芽の出てくるのを感じ、それの伸びるのを育て眺める愉しみだ。それにしても、眼に見える現象界のことなど、米を喰いあったり、引っ張ったりすることなどには、もう幾らか私も退屈した。これを疎かにする次第ではないが、ときどきうんざりするのは、これはどうした性癖の理由だろう。

 九月――日
 見ていると、農村は何もかもが習慣で動いている。考えることも、働くことも、人の悪口をいうことも。何か一つは習慣ならざることはないものかと見ているが、いまだに一つも私は発見することが出来ない。ただ一つ、米の値が十円に騰って来たこと、これには誰も驚愕置くところを知らずという表情だ。二十銭だったものが十円になったということは、も早や想像を絶したことなのだ。しかし、これも、やがて習慣になるだろう。これが習慣になれば、他の一切の現象界の習慣は顛覆てんぷくしていく。あるいは、農民の心の中の習慣は、これで何もかも顛覆しているのかもしれない。物の値段が百五十倍も騰って来ていて、心の値段がむかしの二十銭で踏みとまっていられるという強さは、人には赦されているかどうか。何ぜかというと、人にはそんな習慣がないからだ。

 まことに考えるということは面白い。毎日毎日しているに拘らず、一つ習慣を破った出来事に突きあたると、たちまち混乱する考えというもの――習慣になった考えで、習慣ならざることについて考える狼狽さ、これが今の私や人人に起っていて、そのまま有耶無耶に捨て去り、またどこかへかき消えていこうとしている現在というもの。なかなか答案は難儀になった。百五十倍の難儀さだが、しかし、まアせいぜい二十倍ぐらいの難儀さとしてすませて置きたい頭の性格。――しかも、事実は百五十倍の複雑さで展開しているという場合に、人人はいったいいかなることを仕様というのだろうか。

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