このごろ停電する夜の暗さをかこっている私に知人がランプを持って来てくれた。高さ一尺あまりの小さな置きランプである。私はそれを手にとって眺めていると、冷え凍っている私の胸の底から、ほとほとと音立てて燃えてくるものがあった。久しくそれは聞いたこともなかったものだというよりも、もう二度とそんな気持を覚えそうもない、夕ごころに似た優しい情感で、温まっては滴り落ちる雫くのような音である。初めて私がランプを見たのは、六つの時、雪の降る夜、紫色の縮緬のお高祖頭巾を冠った母につれられて、東京から伊賀の山中の柘植という田舎町へ帰ったときであった。そこは伯母の家で、竹筒を立てた先端に、ニッケル製の油壺を置いたランプが数台部屋の隅に並べてあった。その下で、紫や紅の縮緬の袱紗を帯から三角形に垂らした娘たちが、敷居や畳の条目を見詰めながら、濃茶の泡の耀いている大きな鉢を私の前に運んで来てくれた。これらの娘たちは、伯母の所へ茶や縫物や生花を習いに来ている町の娘たちで二三十人もいた。二階の大きな部屋に並んだ針箱が、どれも朱色の塗で、鳥のように擡げたそれらの頭に針がぶつぶつ刺さっているのが気味悪かった。
生花の日は花や実をつけた灌木の枝で家の中が繁った。縫台の上の竹筒に挿した枝に対い、それを断り落す木鋏の鳴る音が一日していた。
ある日、こういう所へ東京から私の父が帰って来た。父は夜になると火薬をケースに詰めて弾倉を作った。そして、翌朝早くそれを腹に巻きつけ、猟銃を肩に出ていった。帰りは雉子が二三羽いつも父の腰から垂れていた。
少いときでも、ぐったり首垂れた鳩や山鳥が瞼を白く瞑っていた。父が猟に出かける日の前夜は、定って母は父に小言をいった。
「もう殺生だけはやめて下さいよ。この子が生れたら、おやめになると、あれほど固く仰言ったのに、それにまた――」
母が父と争うのは父が猟に出かけるときだけで、その間に坐っていた私はあるとき、
「喧嘩もうやめて。」
と云うと、急に父と母が笑い出したことがある。しかし、父の猟癖は止まらなかった。一度、私は猟銃姿の父の後からついていったことがあった。川を渡ったり、杉の密集している急な崖をよじ登ったりして、父の発砲する音を聞いていたが、氷の張りつめた小川を跳び越すとき、私は足を踏み辷らして、氷の中へ落ち込み、父から襟首を持って引き上げられた。それから二度と父はもう私をつれて行ってはくれなかった。
父がまた旅に立ってしばらくしたある日、私は母につれられ隣村へ行った。沢山な人が私のいったその家に集っていて、大皿や鉢に、牛蒡や人参や、鱈や、里芋などの煮つめたものが盛ってある間を、大きな肩の老人が担がれたまま、箱の中へ傾けて入れられるところだった。それが母の父の死の姿だった。また、人の死の姿を私の見たのはそれが初めだった。日が明るかった。そしてその村からの帰りに道路の水溜りのいびつに歪んでいる上を、ぽいッと跳び越した瞬間の、その村の明るい春泥の色を、私は祖父の大きな肩の傾きと一緒に今も覚えている。祖父の死んだこの家は、私の母や伯母の生れた家で、母の妹が養子をとっていたものであった。
伯母の家に半年もいてから、私と母と姉とは汽車に乗り琵琶湖の見える街へ着いた。そこに父は新しく私たちの棲む家を作って待っていてくれた。そこが大津であった。私は初めてここの小学校へ入学した。湖を渡る蒸気船が学校のすぐ横の桟橋から朝夕出ていったり、這入って来たりするたびに、汽笛が鳴った。ここの学校に私は一ヶ月もいると、すぐ同じ街の西の端にある学校へ変った。家がまた新しく変ったからであるが、この第二の学校のすぐ横には疏水が流れていて、京都から登って来たり下ったりする舟が集ると、朱色の関門の扉が水を止めたり吐いたりした。このころ、この街にある聯隊の入口をめがけて旗や提灯の列が日夜激しくつめよせた。日露戦争がしだいに高潮して来ていたのである。疏水の両側の角刈にされた枳殻の厚い垣には、黄色な実が成ってその実をもぎ取る手に棘が刺さった。枳殻のまばらな裾から帆をあげた舟の出入する運河の河口が見えたりした。そしてその方向から朝日が昇って来ては帆を染めると、喇叭のひびきが聞えて来た。私はこの街が好きであった。しかし私はこの大津の街にもしばらくよりいられなかった。再び私は母と姉と三人で母の里の柘植へ移らねばならなかった。父が遠方の異国の京城へ行くことになったからである。小学の一年で三度も学校を変えさせられた私は、今度はもとの伯母の家からではなく、祖父の大きな肩の見えた家から学校へ通った。
私はこの家で農家の生活というものを初めて知ったのだった。それは私の家の生活とは何ごとも違っていた。どちらを向いても、高い山山ばかりに囲まれた盆地の山ひだの間から、蛙の声の立ちまよっている村里で、石油の釣りランプがどこの家の中にも一つずつ下っていた。牛がまた人と一つの家の中に棲んでいた。
私がランプの下の生活をしたのは、このときから三年の間である。私はこの間に、まだ見たこともない大きな石臼の廻るあいだから、豆が黄色な粉になって噴きこぼれて来るのや、透明な虫が、真白な瓢形の繭をいっぱい藁の枝に産み作ることや、夜になると牛に穿かす草履をせっせと人人が編むことなどを知った。また、藪の中の黄楊の木の胯に頬白の巣があって、幾つそこに縞の入った卵があるとか、合歓の花の咲く川端の窪んだ穴に、何寸ほどの鯰と鰻がいるとか、どこの桑の実には蟻がたかってどこの実よりも甘味いとか、どこの藪の幾本目の竹の節と、またそこから幾本目の竹の節とが寸法が揃っているとか、いつの間にか、そんなことにまで私は睨みをきかすようになったりした。
しかしこうしている間にも、私らは祖父の家から独立した別の家に棲んでいて、村村に散っている親戚たちの顔を私はみな覚えた。母は五人姉妹の下から二番目で、四人もあるその伯母たちの子供らが、これがまたそれぞれ沢山いた。一番上の大伯母は、この村から三里も離れた城のある上野という町にいたが、どういうものだが、この美しい伯母にだけは、親戚たちの誰もが頭が上らなかった。色が白くふっくらとした落ちつきをもっていて、才智が大きな眼もとに溢れていた。またこの大伯母はいつも黙って人の話を聞いているだけで、何か一言いうと、それで忽ち親戚間のごたごたが解決した。ときどき実家のあるこの村へ来ても、どこの家へも行かずに私の家へ来て泊っていったが、ある日伯母は東京へ行って来たといって私に絵本を一冊土産にくれた。それは東京の名所を描いた絵本だった。そのころは、私はもう私のいた筈の東京を忘れていて、私の一番行きたいところは、湖の見える大津と大伯母のいる上野の町とであった。この伯母には子供が五人もいた。遊女街の中央でただ一軒伯母の家だけ製糸をしていたので、私は周囲にひしめき並んだ色街の子供たちとも、いつのまにか遊ぶようになったりした。
二番目の伯母は、私たちのいた同じ村の西方にあって、魚屋をしていた。この伯母一家だけはどの親戚たちからも嫌われていた。大伯母などは一度もここへは寄りつかなかったが私の母だけこことも仲良く交際していた。むかしはここは貧乏で、猫撫で声のこの伯母は実家の祖父の家から、許可なく魚屋へ逃げるように嫁いだのだということだったが、このころは祖父の家より物持ちになっていた。この伯母の主人はいつもにこにこした眼尻で私を愛してくれた。私は祖父の家の後を継いでいる養子よりも、この魚屋の主人の方が好きだった。
「おう、利よ、来たかや。」
こんな優しい声で小父がいうと、けちんぼだといわれている伯母が拾銭丸をひねった紙包を私の手に握らせた。ここには大きな二人の姉弟があったが、この二人も私を誰よりも愛してくれた。
三番目の伯母は、私たちが東京から来たとき厄介になった伯母である。この伯母は気象が男のようにさっぱりしていた。この伯母の主人は近江の国に寺を持っている住職で、一人息子もまた別に寺を持っていた。伯母は家の中の拭き掃除をするとき、お茶や生花の師匠のくせに一糸も纏わぬ裸体でよく掃除をした。ある時弟子の家の者が歳暮の餅を持ってがらりと玄関の戸を開けて這入って来た時、伯母は、ちょうどそこの縁側を裸体で拭いていた。私ははらはらしてどうするかと見ていると、
「これはまア、とんだ失礼をいたしまして、」
と、伯母は、ただ一寸雑巾で前を隠したまま、鄭重なお辞儀をしたきり、少しも悪びれた様子を示さなかった。またこの伯母は、主人がたまに帰って来てもがみがみ叱りつけてばかりいた。主人の僧侶は、どんな手ひどいことを伯母から云われても、表情を怒らしたことがなかった。
「お光、お前はそんなこと云うけれども、まアまア、」
といつも云うだけで、どういう心の習練か恐るべき寛容さを持ちつづけて崩さなかった。
四番目の叔母は私の母とは一つ違いの妹だった。でっぷりよく肥えた顔にいちめん雀斑が出来ていて鼻の孔が大きく拡がり、揃ったことのない前褄からいつも膝頭が露出していた。声がまた大きなバスで、人を見ると鼻の横を痒き痒き、細い眼でいつも又この人は笑ってばかりいたが、この叔母ほど村で好かれていた女の人もあるまいと思われた。自分の持ち物も、くれと人から云われると、何一つ惜しまなかった。子供たちを叱るにも響きわたるような大声だったが、それでも笑って叱っていた。
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