市街を貫いて来た一条の道路が遊廓街へ入らうとする首の所を鉄道が横切つてゐる。其処は危険な所だ。被告はそこの踏切の番人である。彼は先夜遅く道路を鎖で遮断したとき一人の酔漢と争つた。酔漢は番人の引き止めてゐるその鎖を腹にあてたまま無理にぐんぐんと前へ出た。丁度そのとき下りの貨物列車が踏切を通過した。酔漢は跳ね飛ばされて轢死した。
そこで、予審判事は、番人とはかやうな轢死を未然に防ぐための番人である以上、泥酔者の轢死は故殺であるかそれとも偶然の死であるかを探ぐるがため許りにさへも、そのときの争ひに作用した番人の心理の上に十分の疑ひを持たねばならなかつた。それに彼はその疑ひをなほ一層確実に疑ひ得られる様々の材料を発見した。第一に番人は貧しい独身者であつた。第二に轢死者は資産家の蕩児であつた。第三に番人のゐる踏切が遊廓街の入口であつた。しかし、此の被告の上に明確な判決を下すことは、事件そのものが心理的なものであるだけに容易なことではなかつた。先づその事件の現状を目撃したものがなかつたと云ふことでさへ、判事にとつて此の審問方法は普通の手ではとても無駄だと分つてゐた。
「お前は四十一だと云つたね。妻を貰つたならどうだ。生活に困るのかな。」
「いえ、別に困りはいたしません。」
「と云ふと、望ましいのがないからか。」
「来てくれる者がないんです。」
「ふむ、では、呉れ手のあるまで捜せばよいではないか。」
「私はこれでもう三度妻を変へたのです。」
「三度な?」と云って判事は一寸笑つた。「それはまたどうしたのだね。」
「皆死んで了つたんです。」
「ふむ、死んだのか、それでその来るものがないと云ふのか。」
「いえ、三人とも同じ病気で死んだからだと思ひます。」
「三人とも同じ病気か、成る程ね、そして、それはどう云ふ病気かね。」
さう訊いたとき判事は被告の窪んだ眼窩の底から恐怖を感じさせる一種不思議な微笑を見てとつた。そして、これは烈しい神経衰弱にかかつてゐるなと思ひながらも、被告の答へた膜と云ふ婦人病の四番目の文字は「月」であつたかそれとも「」であつたかと一寸考へてみてから直ぐ又質問を次へ移した。
「それで何か、その夜お前は酒を少しも飲んではゐなかつたか。」
「飲みませんでした。」
「いつもは飲むんだらうね。」
「さう飲むと云ふほどは飲めません。」
「お前はあの踏切の最初からの番人だつたのだね。」
「はい。」
「失策が一度もなかつたさうだが、それはほんたうか。」
「妻のゐる頃は妻が時々やりました。私にはありませんでした。」
「何年踏切につとめてゐる?」
「十九年です。」
「十九年か、ふむ。」これはなかなか気の小さい男だと判事は思つた。
「十九年と云ふと、お前の幾つの時からかね、二十?」
「二十五の時からです。初めはちよいちよい失策をやりました。それでも私は失策つたと思ひましても他人には解らずにすみました。」
何ぜ被告がさう云ふことを自分から云ひ出すのかよく判事には分らなかつた。「私の失策と云ふと、つまりどう云ふんだね。」
「列車の来る時が来ればシグナルを見なくても少々遠くにゐても分りますが、考へごとをしてゐると直ぐ傍へ来なければ分りません。さう云ふときこれは失敗たと思ひまして周章て鎖を引きますがいつも半分程通つてからです。」
「つまり考へごとをするといけないと云ふのか。」
「はい、考へごとをするといけません。」
「考へごとと云ふと、どんな種類の考へごとかな、どう云つたやうな?」
「家内のことを考へます。」
「家内がないと云つたぢやないか、ア、さうか、つまり三人の妻のことなのか、それでどの家内に一番心をひかれるね。」
「一番目の家内です。」
「優しかつたのか。」
「いえ。」
「お前が愛してゐたのだね。」
「さう云ふわけぢやございませんが、何ぜだか最初のがよく心に浮んで参ります。」
「最初のがね、ふむ、その頃は楽しかつたと見えるな。楽しかつたかね。」
「今から思ふとさう思ひます。」
「此の頃はもう楽しみなことはないか。」
「ありません。」
「何もないか。」
「はい。」
「では、勤めもいやなことだらうね。」
「はい。」
「いやか、勤めは?」
「はい、あまり好きではございません。」
「ふむ、それでお前は何か、お前の踏切りでお前の勤務時間以外のときに轢死人があつても、お前に責任がないと云ふことを知つてゐるだらうね。」
「はい、それはよく存じてをります。」
「三日の夜の轢死人は泥酔してゐたと云ふが事実であらうな。」
「はい。」
「ではそのときの様子を成る可く精細に話してみよ。嘘を云つてはならぬぞ。」
「はい、さうでございますね。あのう十二時二十分の貨物列車の下つて来るまでには少々間がありましたので、それで、私は夕暮に植ゑた孟宗竹を見に行つたのです。」
「ああ一寸待て、独り暮しになつてからどれほどになるな。」
「四年になります。」
「四年か、ふむ、植木は好きかな。」
「はい、いたつて好きでございます。」
「よしよし、それからどうした。」
「それから何かしたいと思ひましたが、することがなかつたので鎖を曳いて了ひました。そこへ泥酔人が坂を下つて来て通せと云ふのです。」
「そのとき貨物の音はしてゐたのか。」
「はい、もうしてをりました。」
「通してやればよかつたではないか。」
「はい、私はいつも一度鎖を引けば通る程の時間がございましても通さないことにしてをります。そのときも矢張り通しませんでした。するとあの男は、それぢや俺が通つてやると云つて私の引つ張つてゐる鎖の中程の所へ腹をあてて出ようとしたんです。私は必死の力で引いてゐたのですが、そのうちに私もそれについて二足三足曳かれてゆきました。そのとき、来たな、と思ひました。あなたさまは貨物列車の音を御存知でせうが、貨物の音は普通の客車とは違つて奇妙な音なんです。あの車の音は少し遠くにゐるときも傍まで来たときも同しほどの激しさなんです。それに、あの夜は真暗な所へもつて来て貨物列車が又真黒な物ですから、どこまで来てゐたのだかはつきりしなかつたんです。貨物はそれで一番恐ろしうございます。私はそのとき鎖を、かう必死に引つ張つたんですが、あの男はもう余程線路の近くまで出てをりました。もつとも私が傍まで行つて突き飛ばすか引き戻すかしてやれば、あの男も助かつてゐたと思ひますが、何分そのときはもう度胆がぬかれてをりましたし、それに、あの貨物の音を真近で聞きますと、それやもう変な気になつて了ふのです。何と云ひませうかね、もうただぼんやりして了ふのですよ。風に吸ひ込まれるやうな、何だか息がぐつとつまつて、眼まひがするんです。それでも私はよほどぐつと鎖をひつぱつたつもりなんですが、その中に、風がサツと来たと思つたら、私の鎖を持つてゐる手がひどく痛かつたのを覚えてをります。さうしたら、何でもあの男は私の眼の前をぱつと飛んで行きました。」
判事は被告の話し方があまり整ひすぎてゐると思つた。
「一寸待て、そのとき、誰か見てゐたものがあつたかね。」と彼は訊かうとしたが、それではこちらの気持ちを知らしめる恐れがあつたので、
「誰か傍に人でもゐたかね。」と訊いてみた。
「いえ、をりませんでした。」
と被告は直ぐに答へた。この場合その直ぐ明瞭に答へ得られたと云ふことは、被告が犯罪の際人目のないと云ふことを意識してゐたと思はれて、また判事の疑ひを尚強めた。
「ふむ、ゐなかつたか、しかし、見てゐたと云ふ者がゐるのだが、その者の云ふこととお前の云ふこととは少し相違してゐるやうであるぞ。偽りはないかね。」と判事は嘘を云つた。
「それは分らなかつたのでせう。何しろ暗かつたのでよく分らなかつたんでせう。どちらの側にをりました?」と被告は少しうろたへた様子で訊き返した。彼のうろたへたと云ふことは彼の陳述に不純な気持ちと作り事とが交つてゐたと云ふことを判事に教へた。
「お前はその酔漢が鎖を引き摺つて出ようとしたとき、何ぜ手で引きとめなかつたか。」
「鎖で間に合ふと思つてゐました。」
「お前はその男をとめるのに何とか言葉をかけたのかね。」
「いえ、酒を飲んでゐるなと思ひましたので、相手になりませんでした。」
「ふむ、なる程。しかし、酒を飲んでゐると気付いたなら、なほ鎖でとめると云ふことがいけないぢやないか。」
「いえ、それはちがひますよ。鎖の方がとめやすうございます。普通の方はどなたもさうお思ひになりませうが、この道の者なら誰だつて鎖でとめると思ひます。それに、手でとめましては相手が相手ですから、なほ喧嘩になつてしまひますよ。」
「それはさうだね。喧嘩になりさうだ。で、何かね、その男が誰だつたかお前は最初から知つてゐたんかね。」
「それは見覚えはございました。」
「その男は最初に何とかお前に云はなかつたか。鎖でお前がとめるとき何とか。」
「さうですね、云ひました。何だか云つてたやうです。何をしやがる、ふざけるない、つてそんなことを云ひましたよ。」
「それだけかな。」
「いえ、まだ何とか云ひました。私は黙つてゐたのですよ。」
「何を云つた、その男は。」
「俺をとめるつてことがあるかい。俺はね、俺は通つてやるぞ、つてそんなことも云ひましたね。」
「ふむ、さうして、それだけか、まだ何とか云はなかつたか。」
「もう覚えてはをりません。何んだかまるきり他のことを饒舌つてゐたやうですが、何のことだかよく私には分りませんでした。」
「お前は日頃通行人をあまり早くから止めると云ふ評判だが、それはどう云ふつもりかな。」
「早くとめる方が安全で良からうと思ふのです。」
「事実それだけかな。」
「はい、それだけです。」
「止めることを面白いと思つたやうなことは一度もなかつたか。」
「さうでございますね、さう云はれますとそんな気も時々はございました。」
「何ぜ面白いと思ひ出したのかね。」
「それは解りません。」
「いつ頃からそんな面白味を知り始めたのか分らないか。」
「最初からのやうです。」
「矢張り面白いといつも思つてゐたのであらう。」
「そんなことはございませんよ。」
「お前は近年道路を遮断するとき、通行人とよく争ふと云ふことだがそんな覚えはあるかな。」
「はい。」
「争ふかね。」
「はい少し早い加減にとめる時よくそんなことがございます。」
「それが近年になつてひどくなつて来たと云ふことだが、事実であらうな。」
「さうでございます。少しひどくなつたやうにも思はれます。」
「面白味を知り始めたと云ふのも、独身者になつてからではないかな。」
「いえ、それや、さうではございません。」
「ふむ、しかし、路をとめると云ふことは、そんなに面白いものかね。」
「何ぜだか、この路は俺の領分だと云つたやうな、そんな気がするんです。」
「なる程ね、お前の職業はただ気ばかり使ふだけで実の上らぬ仕事だから、面白くはなからうの。」
「はい。」
「疲れはせぬかな。」
「疲れます。」
「さうだらう。十九年もよく務まつたな。病気にはかかつたことがあるかな。」
「時々はかかりました。」
「ふむ、遊廓には行くかな。」
「行きません。」
「行きたくはないのか。」
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