「橙青き丘の別れや葛の花」
梶はすぐ初めの一句を手帖に書きつけた。蝉の声はまだ降るようであった。ふと梶は、すべてを疑うなら、この栖方の学位論文通過もまた疑うべきことのように思われた。それら栖方のしていることごとが、単に栖方個人の夢遊中の幻影としてのみの事実で、真実でないかもしれない。いわば、その零のごとき空虚な事実を信じて誰も集り祝っているこの山上の小会は、いまこうして花のような美しさとなり咲いているのかもしれない。そう思っても、梶は不満でもなければ、むなしい感じも起らなかった。
「日ぐらしや主客に見えし葛の花」と、また梶は一句書きつけた紙片を盆に投げた。
日が落ちて部屋の灯が庭に射すころ、会の一人が隣席のものと囁き交しながら、庭のま垣の外を見詰めていた。垣裾へ忍びよる憲兵の足音を聞きつけたからだった。主宰者が憲兵を中へ招じ入れたものか、どうしたものかと栖方に相談した。
「いや、入れちゃ不可ん。癖になる。」
床前に端座した栖方は、いつもの彼には見られぬ上官らしい威厳で首を横に振った。断乎とした彼の即決で、句会はそのまま続行された。高田の披講で一座の作句が読みあげられていくに随い、梶と高田の二作がしばらく高点を競りあいつつ、しだいにまた高田が乗り越えて会は終った。丘を下っていくものが半数で、栖方と親しい後の半数の残った者の夕食となったが、忍び足の憲兵はまだ垣の外を廻っていた。酒が出て座がくつろぎかかったころ、栖方は梶に、
「この人はいつかお話した伊豆さんです。僕の一番お世話になっている人です。」
と紹介した。
労働服の無口で堅固な伊豆に梶は礼をのべる気持になった。栖方は酒を注ぐ手伝いの知人の娘に軽い冗談を云ったとき、親しい応酬をしながらも、娘は二十一歳の博士の栖方の前では顔を赧らめ、立居に落ち付きを無くしていた。いつも両腕を組んだ主宰者の技師は、静かな額に徳望のある気品を湛えていて、ひとり和やかに沈む癖があった。
東京からの客は少量の酒でも廻りが早かった。額の染った高田は仰向きに倒れて空を仰いだときだった。灯をつけた低空飛行の水上機が一機、丘すれすれに爆音をたてて舞って来た。
「おい、栖方の光線、あいつなら落せるかい。」と高田は手枕のまま栖方の方を見て云った。一瞬どよめいていた座はしんと静まった。と、高田ははッと我に返って起きあがった。そして、厳しく自分を叱責する眼付きで端座し、間髪を入れぬ迅さで再び静まりを逆転させた。見ていて梶は、鮮かな高田の手腕に必死の作業があったと思った。襯衣一枚の栖方はたちまち躍るように愉しげだった。
その夜は梶と高田と栖方の三人が技師の家の二階で泊った。高田が梶の右手に寝て、栖方が左手で、すぐ眠りに落ちた二人の間に挟まれた梶は、寝就きが悪く遅くまで醒めていた。上半身を裸体にした栖方は蒲団を掛けていなかった。上蒲団の一枚を四つに折って顔の上に乗せたまま、両手で抱きかかえているので、彼の寝姿は座蒲団を四五枚顔の上に積み重ねているように見えて滑稽だった。どういう夢を見ているものだろうかと、夜中ときどき梶は栖方を覗きこんだ。ゆるい呼吸の起伏をつづけている臍の周囲のうすい脂肪に、鈍く電灯の光が射していた。蒲団で栖方の顔が隠れているので、首なしのようにみえる若い胴の上からその臍が、
「僕、死ぬのが何んだか恐くなりました。」と梶に呟くふうだった。梶は栖方の臍も見たと思って眠りについた。
梶と栖方はその後一度も会っていない。その秋から激しくなった空襲の折も、梶は東京から一歩も出ず空を見ていたが、栖方の光線はついに現れた様子がなかった。梶は高田とよく会うたびに栖方のことを訊ねても、家が焼け棲家のなくなった高田は、栖方についてはもう興味の失せた答えをするだけで、何も知らなかった。ただ一度、栖方と別れて一ヶ月もしたとき、句会の日の技師から高田にあてて、栖方は襟章の星を一つ附加していた理由を罪として、軍の刑務所へ入れられてしまったという報告のあったことと、空襲中、技師は結婚し、その翌日急病で死亡したという二つの話を、梶は高田から聞いただけである。栖方と同じ所に勤務していた技師に死なれては、高田もそこから栖方のことを聞く以外に、方法のなかったそれまでの道は断ちきれたわけであった。随って梶もまたなかった。
戦争は終った。栖方は死んでいるにちがいないと梶は思った。どんな死に方か、とにかく彼はもうこの世にはいないと思われた。ある日、梶は東北の疎開先にいる妻と山中の村で新聞を読んでいるとき、技術院総裁談として、わが国にも新武器として殺人光線が完成されようとしていたこと、その威力は三千メートルにまで達することが出来たが、発明者の一青年は敗戦の報を聞くと同時に、口惜しさのあまり発狂死亡したという短文が掲載されていた。疑いもなく栖方のことだと梶は思った。
「栖方死んだぞ。」
梶はそう一言妻に伝って新聞を手渡した。一面に詰った黒い活字の中から、青い焔の光線が一条ぶつと噴きあがり、ばらばらッと砕け散って無くなるのを見るような迅さで、梶の感情も華ひらいたかと思うと間もなく静かになっていった。みな零になったと梶は思った。
「あら、これは栖方さんだわ。とうとう亡くなったのね。一機も入れないって、あたしに云ってらしたのに。ほんとに、敗けたと聞いて、くらくらッとしたんだわ。どうでしょう。」
妻のそういう傍で、梶は、栖方の発狂はもうすでにあのときから始っていたのだと思われた。彼の云ったりしたりしたことは、あることは事実、あることは夢だったのだと思った。そして、梶は自分も少しは彼に伝染して、発狂のきざしがあったのかもしれないと疑われた。梶は玉手箱の蓋を取った浦島のように、呆ッと立つ白煙を見る思いで暫く空を見あげていた。技師も死に、栖方も死んだいま見る空に彼ら二人と別れた横須賀の最後の日が映じて来る。技師の家で一泊した翌朝、梶は栖方と技師と高田と四人で丘を降りていったとき、海面に碇泊していた潜水艦に直撃を与える練習機を見降ろしながら、技師が、
「僕のは幾ら作っても作っても、落される方だが、栖方のは落とす方だからな、僕らは敵いませんよ。」
悄然として呟く紺背広の技師の一歩前で、これはまた溌剌とした栖方の坂路を降りていく鰐足が、ゆるんだ小田原提灯の巻ゲートル姿で泛んで来る。それから三笠艦を見物して、横須賀の駅で別れるとき、
「では、もう僕はお眼にかかれないと思いますから、お元気で。」
はっきりした眼付きで、栖方はそう云いながら、梶に強く敬礼した。どういう意味か、梶は別れて歩くうち、ふと栖方のある覚悟が背に沁み伝わりさみしさを感じて来たが、――
疎開先から東京へ戻って来て梶は急に病気になった。ときどき彼を見舞いに来る高田と会ったとき、梶は栖方のことを云い出してみたりしたが、高田は死児の齢を算えるつまらなさで、ただ曖昧な笑いをもらすのみだった。
「けれども、君、あの栖方の微笑だけは、美しかったよ。あれにあうと、誰でも僕らはやられるよ。あれだけは――」
微笑というものは人の心を殺す光線だという意味も、梶は含めて云ってみたのだった。それにしても、何よりも美しかった栖方のあの初春のような微笑を思い出すと、見上げている空から落ちて来るものを待つ心が自ら定って来るのが、梶には不思議なことだった。それはいまの世の人たれもが待ち望む一つの明判断に似た希望であった。それにも拘らず、冷笑するがごとく世界はますます二つに分れて押しあう排中律のさ中にあって漂いゆくばかりである。梶は、廻転している扇風機の羽根を指差しぱッと明るく笑った栖方が、今もまだ人人に云いつづけているように思われる。
「ほら、羽根から視線を脱した瞬間、廻っていることが分るでしょう。僕もいま飛び出したばかりですよ。ほら。」
●表記について
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- 「くの字点」をのぞくJIS X 0213にある文字は、画像化して埋め込みました。
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