(7)
この演説が終りました時に満場の官民が一度に吐き出した溜め息は、お互い同志を吹き飛ばす位で御座いました。そうしてその溜め息が終るのを待って、不賛成者の起立を要望しました裁判長の声も、再び起った歎息の渦巻きによって答えられるばかりで御座いました。
私達兄弟はそのような緊張した空気の中を相並んで裁判長の前に進み出まして、運命の切迫にわななく指で、受験の順番をきめる
ところが結果は案外な事になってしまったのです。案外にも意外にも、私は自分の顎が外れたのに気が付かなかった程の、驚き呆れた結論があらわれて来たのです。
神ならぬ弟のマチラは、そんな事になろうとは夢にも知らずに、第一の籤を引いたのでスッカリ自信が出来たらしく、満場の息苦しい注目の裡に大得意でレミヤの傍に進み寄って、スヤスヤと眠っている赤ん坊を出来るだけソーッと抱き取ろうとしましたが、弟の手が
「オヤア。オヤア。オニャオニャオニャ」……と……。その時の弟の顔は何と形容したらよろしいでしょうか。魂がパンクした表情とはあのような顔付きを云うのでしょうか。レミヤの膝の上に赤ん坊を取り落したまま、射抜かれた飛行船のようにフラフラと回転したと思うと、バッタリと床の上にヘタバリたおれてしまいました。
満場のドヨメキの中に弟の身体が運び出されますと、私はもう嬉し泣きの涙で向うが見えなくなってしまいました。その涙を払う間もなく無我夢中でレミヤに飛び付いて、人眼も恥じずキッスの雨を降らせますと、又もスヤスヤと眠りかけている赤ん坊を抱き上げて、シッカリと抱き締めました。
「サアサア、お父さんだよお父さんだよ」
と揺すり上げながら、思い切り頬ずりをしようとしましたが、その私のチョッキの上を、思いもかけぬ力強さでメチャクチャに蹴立てた赤ん坊は、又も焦げ付くように泣き
「ウギャー。ウギャー。オヤア。オヤア。ヒヤアヒヤアヒヤア。フニャーフニャーフニャー」
私は赤ん坊を抱えたまま、棒のように立ち
「……ああ……神様よ……おゆるしを……」
という奇妙な声が聞こえましたので、思わずその方を振り向いてみますと、傍聴席のズット向うの壁際で、一人の黒い服を着た老人が失神しかけているのを、左右に座っている人が支え止めている様子です。……そうしてその顔をよくよく見ますと、それはレミヤが日曜
……ああ……。
……何という、恐ろしい天の配剤で御座いましょう。……何という適切な自然の解決で御座いましょう。……そうして又、何という名裁判で御座いましょう。
……レミヤは日曜も休んでいなかったので御座います……。
……私は抱いていた赤ん坊をどこへ取り落したか全く記憶致しません。ただ夢うつつのように法廷をよろめき出て、最前這入って来た通りの道を歩いて、まっ直ぐに先生の処に来たように思うだけで御座います。
(8)
……イヤもう……こんな恐ろしい、馬鹿馬鹿しい眼に会おうとは、今日が今日まで夢にも想像していませんでした。
……私はもう、失恋していいのか悪いのか、わからなくなってしまいました。……これが失恋というものか、どうなのかすら自分で解からないような、奇妙キテレツな気持ちになってしまいました。……ですからこのような秘密を打ち明けて先生の御判断を
……先生……一体私はこれから、どうしたらいいのでしょうか……。
……あの児の本当の父親は……レミヤの正当の夫は……イッタイ誰にきめたらいいのでしょうか……。
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こう云い云いアルマ青年は、やっと顔を上げた。そうして流るる汗を拭い拭い、老ドクトル、パーポン氏の顔を見上げたが、そのまま二三度眼をパチパチさせたと思うと、
ドクトルの顎が、いつの間にか外れていたので……。
底本:「夢野久作全集3」ちくま文庫、筑摩書房
1992(平成4)年8月24日第1刷発行
入力:柴田卓治
校正:kazuishi
2000年10月25日公開
2006年3月11日修正
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