――これは外国のお話――
「ゲーッ。ゲーッ。ガワガワガワガワガワ」
という嘔吐の声が、玄関の方から聞えて来た……と思う間もなく看護婦が、
「……先生……先生……急患です……」
と叫びながら薬局を出て来る気はいがした。ドクトル、オルデスオル、パーポンは顔を上げた。夕食前の
「アーッ。ウハフハフハフハフィット……と……何だろう一体……嘔きよるらしいが……まだ
こんな
その患者は苅り立ての頭をピッタリ二ツに分けて、
椅子から立ち上ったパーポン氏は余りの恐ろしさに膝頭をガクガクと震わした。
それを見ると患者は安心したらしかった。片手を幽霊のようにブラ下げたままフラフラとパーポン氏の前に
「アウアウアウアウアウ……」
と奇声を発したと思うと、又もはげしい
「ゲエゲエゲエ。ガワガワガワガワ」
と
ドクトル、パーポン氏はその顔を凝視したまま、
「アハハハハハハ。そうですかそうですか。やっとわかりました。貴方は顎を外されたのですね。……それで嘔気が付いたのですね」
患者は懸命に苦しみながら何度も何度もうなずいた。ドクトルも
「そうですかそうですか、アハハハハハ。イヤ……ビックリしましたよ。あなたのようにヒドイ嘔気が付いた方は初めて見たものですからね。アハアハアハアハ。イヤ。笑っては失礼でしたね。サア椅子に腰をお掛けなさい……サアどうぞ……」
先刻から患者のうしろにポカンと突立っていた看護婦も、この時やっと安心したらしく、小さなタメ息をしいしい患者の尻に椅子を当てがった。
「サア。モットこっちへお寄りなさい。貴方はトテモ幸運な方ですよ。顎をはめる手術にかけては
こう云って看護婦を叱り飛ばすと、ドクトルは今までと打ってかわった得意満面の態度で、白い診察服を二ノ腕までマクリ上げた。患者のヌルヌルした
「……あなたは何という馬鹿ですか。……立派な礼服を着ていながら、何だって顎を外すようなヘマな事をしたんです……エエッ……この大馬鹿野郎の、大間抜け
患者はこれを聞くと血走った白眼をグルグルと回転さした。ビックリしたが上にもビックリしたらしく、青い顔を一層青くしてドクトルの顔を睨み返しながら、物云いたげに舌の先を震わしたが、かの時遅くこの時早く、老ドクトルが「ハッ」と気合いをかけながら、両手で掴んだ下顎を力一パイ突き上げたので……ガチーン……と音を立てて患者の奥歯がブツカリ合った。……と思うとその次の瞬間にはピッタリと閉まった口の上をハンカチで蔽うた患者が、今にも気絶しそうに眼を閉じたまま、涙をポロポロと流していた。
「アハハハハ。どうです御気分は……もう嘔気はなくなったでしょう。誰でも顎を外すと、舌圧器で押え付けられたのと同様の作用を舌の根の筋肉に起して、多少の嘔気を催すものですがね。しかし貴方のように猛烈なのは珍らしいですよ……全く……ハッハッハッハッ……」
こう云いながら老ドクトルが室の隅で手を洗って帰って来ると、患者はやっと眼を開いて眼の前の空間を見まわした。そうして看護婦が持って来た塩水で恐る恐る
「ハハハハ。イヤ。顎の外れたのは生命に別条はありませんが案外苦しいものでね。おまけに一度外れると又外れ易いものですから、これから余程気をお付けにならんと、いけませんよ。たとえば大きな欠伸をするとか、クシャミをするとかいう時には御注意をなさらんといけません。特に只今はドンナ原因でお外しになったものか存じませんが、この次に又、今度と同じような事をなさる時には特に御注意が必要ですよ。前に外れた時と同じ動作を顎にさせると、何の苦もなく外れる事が多いのですからナ……もっとも片手で、それとなく顎を押えておいでになれば大丈夫ですがね……ハハハ……ところで如何です……紅茶をもう一ツ……」
「……ハ……ハイ……」
と青年はやっと頭を下げて返事をしかけたが、そのまま
「……私は……もう二度と……コンナ眼に会って……顎を外そうとは思いませぬ」
「ハハア……成る程……それでは乱暴者にでもお会いになりましたので……」
「イヤそのようなノンキな事では御座いません」
「……では大きな欠伸でも……」
「イヤイヤ。欠伸でもクサメでも何でもありませぬ」
「ホホー。それは妙ですナ。今までの私の経験によりますと顎を外した原因というのは大抵欠伸か、クサメか、大笑いか、喧嘩なぞで、その以外にはラグビー、拳闘、自動車、電車の衝突ぐらいに限られているのですが……そんな事でもないのですナ……成る程……してみると余程、特別な原因で顎をおはずしになったのですな……それでは……」
青年は老ドクトルからこんな風に問い詰められて来れば来る程、イヨイヨその驚ろきを増大させて行くらしかった。そうして
「いったいそれでは……ドンナ原因で顎をお外しになったので……」
しかし青年は急に返事をしなかった。なおもマジマジと大きな
「……ヘエ……それじゃ先生は……今朝からの出来事をまだ御存じないので……」
「ハア……無論ドンナ事か存じませんが……第一貴方のお顔もタッタ今始めてお眼にかかったように思うのですが……」
「……ヘエ……それじゃ今朝の新聞に載っております私の写真も、まだ御覧になりませぬので……」
「ハア……無論見ませぬが……。元来私は新聞というものをこの十年ばかりというもの一度も見た事がないのです。この頃の新聞というものは、社会の腐敗堕落ばかりを報道しておりますので、古来の美風良俗が地を払って行くような感じを毎日受けさせられるのが不愉快ですからね。思い切って読まない事にしてしまったのです。ですから……」
「……チョットお待ち下さい」
と青年は片手をあげて
「……でも……人の噂にでもお聞きになりましたでしょう。近頃大評判の『名無し児裁判』というのを……」
「……ところがソンナ評判もまだ聞かないのです。……実を申しますと私は、留学中の
「ヘエ――……それでは最前あなたが私をお叱りになって……「礼服を着ながら顎を外す、大馬鹿野郎の大間抜け」と
「アッハッハッハッ。あれですか。アッハッハッハッ」
と老ドクトルは半分聞かないうちに吹き出した。腹を抱えて、反りかえって、シンから堪まらなそうに全身を揺すり上げて笑いつづけた。
「アッハッハッハッ。あれは何でもないですよ。ワッハッハッハッ」
それを見ると青年は、もう不思議を通り越して気味が悪いという顔になった。そうして
「私は……あのお言葉を聞きました時に……それではもう……私の身の上はもとより……ツイ今さっき私の身の上に起った……前代未聞の怪事件までも御存じなのかと思って、胸に釘を打たれたように思ったのですが……私は、お言葉の通りの大馬鹿野郎の大間抜けだったのですから……」
「アハハハハ。イヤ。それはお気の毒でしたね。ハッハッハッ。私は何の気もなく云ったのですが……実を申しますとアレは私が顎をはめる秘伝になっておりますのでネ」
「ヘエ……患者をお叱りになるのが、顎をはめる秘伝……」
「そうなんです。要するに何でもないのですよ。すべて顎の外れた患者を
「イヤ……そんな訳ではありませんが……」
と云いながら青年は如何にも[#「如何にも」は底本では「如何に」]感心したらしく長い、ふるえた深呼吸をした。
「ヘエ――……成る程……それならば不思議は御座いませぬが……実は私が顎を外しましたのはツイこの向うの地方裁判所の法廷なので、しかもタッタ今
「ヘエーッ」
と今度はドクトルがアベコベにビックリさせられたらしくグッと
「……あの裁判所で……しかも法廷で顎を外されたのですか……」
といううちに、如何にも好奇心に馳られたらしく身を乗り出した。すると青年も、何かしら急に気まりが悪くなったらしく、ハンカチで顔を拭いまわしながらうなずいた。
「そうなんです……私は、私が関係しておりました長い間の訴訟事件が、今すこし前にヤットの事で確定すると同時に顎を外してしまったのです。……否……私ばかりではありません。恐らく世界中のどなたでも、私と同様の運命に立たれましたならば、顎を外さずにはいられないであろうと思われる出来事に出合ったので御座います」
「ハハア――ッ」
とドクトルはいよいよ面喰らった顔になった。小さな眼をパチパチさせながら身を乗り出して、椅子の端からズリ落ちそうになった。
「ヘエエエッ。それはイヨイヨ奇妙なお話ですナ。法廷といえば教会と同様に、この地上に於ける最も厳粛な、静かな処であるべき筈ですが……そんナ処で顎を外されるような場合があり得ますかナ」
「ありますとも……」
と青年は断然たる口調で答えた。
「……この私が何よりの証拠です。……もっともこんな事は滅多にあるものではないと思いますが……」
「なるほど……それは後学のために是非ともお伺いしたいものですが……治療上の参考になるかも知れませんから……」
青年は老ドクトルからこう云われると、又も耳のつけ根まで真赤になって、さしうつむいてしまった。そうして上眼づかいにチラチラとドクトルの顔を見上げたが、やがて悲し気に眼をしばたたいた。
「ハイ。私も実はこの事を先生にお話ししたいのです。そうして適当な御判断を
「イヤ……それは御心配御無用です。断じて御無用です」
と云いながら老ドクトルは、いつの間にか昂奮してしまったらしく
「その御心配なら絶対に御無用に願いたいものです。患家の秘密を
青年はこれを聞くとようよう安心したらしかった。組んでいた腕をほどいて深呼吸を一つすると、ドクトルの顔を正視しながらキッパリと云った。
「それではお話し申します。実は私が顎を外した原因というのはアンマリ呆れたからです」
「エエッ……呆れて……顎を外したと仰言るのですか」
「そうです。私は『呆れて物が言えない』という諺は度々聞いた事がありますが、呆れ過ぎて顎が外れるという事は夢にも知りませんでしたので、ツイうっかり外してしまったのです」
「ヘヘ――ッ。それは又どんなお話で……」
「ハイ。それはもう今になって考えますと、こうやって、お話しするさえ腹の立つくらい、馬鹿馬鹿しい事件なのですが……しかし先生は今、お忙がしいのじゃありませんか」
「イヤイヤ。私が忙がしいのは朝の間だけです。夕方は割合いに閑散ですからチットモ構いません」
「さようで……それではまあ、
青年はここで看護婦が持って来た紅茶を一口
霊感!(れいかん!)
作家录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语
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