「おお。
「成る程なあ。これが
皆ガヤガヤと話し出した。私は本箱の片隅から
「あっアア。腹に沁みる沁みる。
「ウン。マッチで火を点けるとポーッと燃えるでな。あんまり飲むと利き過ぎるてや。残りはアンタ等に遣るから、家へ持って帰って、ユックリ飲むがええ」
「それあドウモはあ。
皆の話すところによると今日初めて名前を聞いた配達手の忠平は、一昨日の大吹雪の朝、郵便局を出た切り帰って来ないのだという。
その朝は郵便物が非常に少くて、東京の出版屋から私の処へ送って来た二百円の価格表記郵便物と、新聞が二通あった切りだったので、若い局長さんは山道が
私は眼がスッカリ醒めてしまったばかりでなく、ジッとして皆の話が聞いていられなくなった。
忠平が大酒飲みであったろうが、細君と喧嘩別れをしていようが、そんなことは私にとって問題でなかった。それよりもこの四箇月の間、毎日毎日器械のように私の処へ郵便物を持って来てくれたあの金鵄勲章の忠平が、私へ送って来た二百円の金を
その時の私は創作に夢中になってアタマが極度に疲れていたせいであったろう。悲しいといえば普通の人の何万倍も悲しく、嬉しいといえば又、一般人の何万倍も嬉しいような
私は直ぐに立上って身支度を整え、兼て用意のゴム長靴を穿いて出かけようとしたが、そうした私の勢込んだ態度を見た四人の村人は一斉に眼を丸くして押止めた。
「飛んでもねえことですよ先生。この雪の夜道を慣れねえ先生が、どうして歩けますか。第一カンジキを持たっしゃるめえ」
「忠平は元気な男ですから、そこいらの山道で死ぬような男じゃ御座いませぬわい。キット二百円の金を見て気が変って……」
「馬鹿ッ……」
私は
「貴様たちは忠平の性格を知らないんだ。ドンナ人間でも金さえ見れば性根が変るものと思うと大間違いだぞッ」
「そんなに腹を立てさっしゃるものでねえ。私等の云うことを聞いて、ちゃんと家に待って御座らっしゃれ。あっし等が手を分けて探して来ますから……」
「イヤ。そんなことをしちゃ忠平に済まん。是非とも僕が自分で行く」
「駄目だ駄目だ。済むとか済まんとかいう話でねえ。先生はまだ吹雪の恐ろしさを知らっしゃらねえから駄目だ。無理に行かっしゃると今度は先生が谷へ落ちさっしゃるで……」
こんな問答をして無理やりに私を押付けながら、四人の村人が逃げるように私の寝室を出て行った。だから私は仕方なしに一先ず黙って村の人々を帰しておいて、あとから一人でゴム長靴を穿き、
その時はモウ夜がシラジラと明けかかっていたので、私はチョット引返して持っていた懐中電燈を机の横に置いて出て来た。
青白い海底のような雪道を踏出した時、私は忠平の死を確信していた。
……忠平は二百円の価格表記郵便を見て、これは是非とも早く私の処へ届けなければならないものと考えて、ただ、それだけのために無理矢理に吹雪の道を踏出したものに相違ない。そうして途中で真白い雪道ばかり凝視して来たためにトラホームが痛み出し、眼を
そう思うと私は、タッタ一人で行く雪の道の危険を忘れて一歩一歩と村の人々の足跡を追い初めた。底の方の凍り固まった、
しかしちっとも寒くはなかった。
時々
しかし私にはソンナ物音を聞き分けてみるなぞいう心の余裕が、いつの間にか無くなっていた。
私は間もなく雪の岨道を歩く困難が、想像のほかであることを思い知り初めた。その新しく
私はとうとう向うへ行く勇気も、後へ引返す元気も全く無くなって、雪の中へ半身を斜めに埋めたまま、あたりの真白な、荘厳を極めた樹氷を見まわした。そうして心の底から死の戦慄を感じながら、半泣きになって叫んでみた。
「おおおおお――いいい」
「…………オオオ…………」
それは谷々の反響であったか、人間の返答であったかわからない、遠い微かな声であった。私は又叫んだ。
「おおおおお――いいいイ」
「オオオ――イイイ」
たしかに人間の声であった。……ヤレ助かった……と思うトタンに私の頭の中で、思い付いたままペンを投出して書きかけにして来た原稿の文字が幾行も幾行も並んで辷って行った。
私は、それからドンナに叫び立てながら、ドンナに苦しみ
「ウワア、これあマア先生、カンジキも穿かねえで、どうしてここまで御座った」
「あぶねえことだった。こんなことをさっしゃる位なら、私たちが
「まったくだ。忠平の死骸が見付かって、あそこにグズグズしていねえけれあ先生は、このまま行倒おれにならっしゃるところだったによ」
「忠平の死骸が、先生を助けたようなものでねえか、ハハハ」
「まあまあこちらへ御座らっせえ。肩にかけて上げまするで……」
「これを飲まっせえ。帰りに貰って来た支那焼酎の残りでがす」
火のような
忠平の死骸はモウ雪の中から引ずり出されていた。古びた赤縞綿ネルの
奇蹟を見た人間でも、これ程に驚き恐れはしなかったであろう。
それは零下何度の寒さのせいではなかった。私は全身の関節が、ガタガタと震え
それは私が今日まで一度も経験したことのない、私の心理上に起った一つの大きな奇蹟であった。生命の本質を物質の化学作用に過ぎないものと信じ、
すべては唯物哲学を以て弁証することが出来る。しかし生命、もしくは生命の波動である精神ばかりは人間の発明した科学では説明出来ない。私は今まで人間の精神は、物質によってのみ支配されるものと信じて来た。ところが、私は今朝から、精神そのものに支配されている精神そのものの偉大崇高さばかりを、眼の前に凝視しつづけて来ていたのだ。
そう気が附くと同時に、私は立っていることが出来なくなった。全身をワナワナガタガタと戦かし、歯の根をカチカチと鳴らしながら、ぐたぐたと雪の中に両膝を突いて坐り込んだ。しっかりと合掌しながら、改めて忠平の死体を見直した。
猟師の吉兵衛老人を初め三人の男も、手に手に
私の背後はるかな峯の頂から、斜めに辷り降りて来たオレンジ色の太陽の光が、忠平の死骸と私たちに流れかかった。
忠平の顔一面に貼り付いていた銀色の氷の粉末が、見る見る溶けて水の小粒となり、露を結んで肌を濡らしつつ流れ落ちた。ちょうど、青ざめた顔が一面に汗をかいているように見えた。
私たちは、こうした忠平の
そのうちに今までヒッソリと閉じて氷結していた忠平の眼が、太陽に照されたせいであろう。ウッスリと開き初めて、永遠の静けさを
私は自分の顔を両手で蔽うた。感激の涙をあとからあとから指の間に滴らした。
村の人々も、忠平の枕元の雪の中に坐り込んだ。
「
底本:「夢野久作全集4」ちくま文庫、筑摩書房
1992(平成4)年9月24日第1刷発行
初出:「逓信協会雑誌」
1935(昭和10)年10月号
入力:柴田卓治
校正:土屋隆
2005年9月17日作成
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