四
フッと眼をさますと私は見慣れない病院の一室に寝ている。緑色の壁と薄紫のカアテンに囲まれた静かな、暗い、
「……アッ……」
という小さな叫び声が私の枕元から聞えたので、ビックリして振り返ってみると、栗色の髪をグルグル巻にした黄色いワンピースの少女、眼の大きい、唇の赤い、鼻の高い、憂鬱な
「アダリー」
アダリーは返事の代りに大きな瞬きを一つした。印度人特有の表情の一つであろう。
「きょうは何日……」
「……五月……ジュ……サンニチ……」
「エッ……十三日……ほんとか……」
「……ホント……です……」
と云ううちにアダリーは壁際の小
「ここはどこ……」
「古木レントゲン病院……」
私は唖然となった。しかし間もなく吾に帰ると飛び上って叫んだ。
「オイ大変だ大変だ……先生……古木先生を呼んで来てくれ」
私の
予定の日数よりも三日ほど生き伸びている。心臓に手を当ててみると、相も変らずハッキリした流れをトクントクンと打っている。……冗談じゃない。
訳がわからぬまま、クシャクシャになった頭を掻きまわしたり、鬚だらけになった顎をゴリゴリ撫でまわしたりしているところへ
「ヤア。醒めましたか。頭が痛くないですか」
「そう云われてみると成る程頭が痛いし、胸がすこしムカムカするようだ。イヤ、大丈夫です。先頃はどうも……」
「アハハ。イヤ失礼しました。ビックリなすったでしょう。無断でコンナ処へ連れて来たもんですから」
「実は驚いているんです。どうしたんですか、一体これは……」
「先ずこれを御覧なさい」
古木先生はすこし真面目になって
「この白いものが貴方の心臓なのです」
「僕の心臓……」
「そうです。よく御覧下さい。ここが心臓の右心室でここが左心室です。ここから出た大動脈がコンナにグルリと一うねりして重なり合っているでしょう。おわかりになりますか」
「わかります。ゴムの管みたいに『の』の字形に曲って重なり合っているようですね」
「そうですそうです。僕はこの写真を撮るためにあなたに痲酔を利かせてこの病院に運び込んだのです。そうしてあの晩のうちに五枚ばかり瞬間写真を撮ってみたのですが、その中でも一番ハッキリ撮れたのがこの一枚です」
「ヘエッ。何のために……」
「何のためって、貴方の伯父さんに頼まれたのですよ」
「エッ。僕の伯父さん。あの須婆田の……まだ生きているのですか」
「ええ御健在ですとも。伯母さんの玉兎女史と一緒に
私は眼をパチパチさした。古木学士はいよいよ眼を細くして
「何だか……僕にはわかりません」
「アハハハ……。僕にも深い御事情はわかりませんが、貴方の伯母様ですね。雲月斎玉兎嬢ことウノ子さんは
私は今一度室内の調度を見廻した。
「わからない。不思議だ――奇遇だ……」
「イヤ。奇遇じゃないのです。貴方が伯父様と伯母様の計略におかかりになったのです」
「計略に僕が……」
「そうです。私はよく存じております。伯父様と伯母様はよく右翼団体から狙われておいでになるので、いつも
私は生れて以来コンナに赤面させられた事はなかった。お前は馬鹿だよ……と云われたよりもモット深刻な恥辱を感じた。
「ちょうど四月二十九日の
「エッ。僕の弟……どうして」
「貴方が福岡を御出発なさるのを停車場で発見されて、跡をつけて御上京なすって、伯父さんと伯母さんに一切を打ち明けて御相談になったアトに、伯父様と伯母様は東京中の私立探偵を動員して貴方の御宿を探らせてやっと判明したのが、五月の十一日の午後、貴方が一足違いで築地の八方館をお出かけになった
「アッ。それではあの運転手がアダリー……」
アダリーは真赤になって古木学士の蔭に隠れた。
「アハハハ。貴方も
「エッ
私は又暗い気持になりかけたが、古木学士はそうした私の悲哀を吹き飛ばすように笑った。
「ハッハッ、御心配なさらずとまあお聞きなさい。私はその時に伯母様から貴方をこの病院に入れて三日間睡らせておいてくれろ。その間支度を整え印度へ逃げるからという御命令でね。で、その治療の結果を私が御報告申し上げたらお
「……安心……」
「ハイ……御安心で
古木学士は白い治療着のポケツから白い横封筒を取出して私に渡した。見忘れもせぬ伯父の筆である。
『前略。俺の過去の罪悪を知っているのはお前一人だ。そのお前が俺の
「そうして……そうして……」
私は真青にふるえながら古木学士の顔を見た。
「そうして……そうして僕の動脈瘤はどうなったのです」
「アハハハ。動脈瘤じゃありませんよ。その写真の通り血管の
私は後の説明が聞えなかった。ただアダリーがキアーッと叫んだ悲鳴が聞えただけである。気が遠くなって寝台の上に引っくり返ってしまったのだから……。
底本:「夢野久作全集10」ちくま文庫、筑摩書房
1992(平成4)年10月22日第1刷発行
入力:柴田卓治
校正:渥美浩子
2001年4月2日公開
2006年2月26日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
●表記について
- このファイルは W3C 勧告 XHTML1.1 にそった形式で作成されています。
- 「くの字点」をのぞくJIS X 0213にある文字は、画像化して埋め込みました。