全霊の真相
――鼻の動的表現(九)
鼻はその人の全霊の真相を表明するものであります。そうして最も忠実にこの任務を果しているものであります。
ここまで研究して参りますと、鼻の静的表現なぞは全く問題でなくなって参ります。
その人の本心が喜ばない以上、鼻は決して喜びの色を見せませぬ。そうして内心不平であれば遠慮なくムッとした色を見せ、残念であれば差し構い無しに怨めしい色をほのめかしているのであります。
「
と如何にも
「そう云っとかないと悪いからね」
という気持ちをうごめかしているのであります。
世間への義理や家内への示しのため、親類会議の真中へ一人息子を呼び出して、
「
を云い渡す親達の怒った眼と正反対に涙ぐましい鼻の表現――そこにすっかり現われている千万無量の胸のうちは、その座にいる人々をして道理至極とうなずかせずには
「あの後家さんはいつも呑気そうに気さくな事ばかり云っては人を笑わしているけれど、
と界隈の噂に上るのは、その後家さんの鼻の表現が他人にうつるからであります。心の貞節や人知れぬ涙を決して人に見せまいとする悩みから湧くこの世の淋しさが、まざまざと鼻に現われて来るからであります。
情ない時、しくじった時、困った時、又はギャフンと参った時なぞは、その気持が特に著しく鼻にあらわれるものであります。
「ナアニ。何でもないよ。アハハハ」
と笑いながら、鼻はすっかりしょげている。
「人間到る所青山ありさ」
なぞ達観したような事を云いながら、鼻だけはゲッソリして白茶気ている。甚だしいのになると、何だか
かようにして眼や口なぞが如何に努力をしても、その人間の本心から湧き出して来る感情が鼻の上に現われるのばかりは瞞着する事が出来ないように出来ているのであります。
同様に鼻はその本人の真底の意志を少しも偽らずに表明しているものであります。
意志がグラグラしている以上、鼻は如何なる場合でも決意の
惚れたお方を婿殿にと図星をさされた娘がテレ隠しに、
「
と口では云いながら飛び立つ思いを見せた鼻の表現がある――一方に嫌な男の処へ行けという親の前に両手を突いて
「私はどうでも」
という進まぬ鼻の表情……
「オッと
といった程度の安請合いに対する誠意の有る無しは、その眼よりも口よりも真中でニヤニヤ笑っているところに最もよく現われていなければなりませぬ。
「
と云いながらちっとも頂戴する気にならない気もちは、細く波打つ眼とおちょぼ口との間にありありと見えすいているものであります。
男と死ぬ約束をして奉公先からそれとなく
「
と云われて、
「アイヨ」
と笑った眼つき口もと。その間に云い知れぬ悲しい決意を示す鼻の表現……それがそれとなく気にかかって、
「ああ。無分別な事でも仕出かしてくれなければよいが」
という物思い……。
その他「重々恐れ入りました」という奴の鼻が「今に見ろ」という気ぶりを見せ、「貴方はおえらいですよ」と賞める鼻が「賞めたい事はちっともない」と裏書きし、「
鼻の表現がその本人の意志を偽らないと同様に、その本人の性格を表現する場合でも決してその真相を誤らないのであります。
性格が愚鈍である以上、その鼻の尖端に才気の閃きは決して見る事が出来ないのであります。いくら謹み返っていても性得ガサツ者である限り、鼻は何となくソワソワしているものであります。
「もう私は今度でこりごりしました。ふっつり道楽を思い
と両手を突いて涙をこぼしている息子の鼻が、昔の通りニューとしている。こんなのはテッペンから、
「糞でも喰らえ、この野郎。今度切りが何遍あるんだ。トットと出てうせろ」
とたたき出されます。
「何だ喧嘩だ。喧嘩なら持って来い。俺が相手になってやる。
と大見得を切って立ち上っても、臆病者の鼻の表現は必ず
小田原評定の場合なぞ、真中へ出て理屈をこねまわしている鼻が案外無責任らしく見える一方に、隅っこで黙って聞いている鼻が
こんな例は挙げたら限りも無い事でありますからこれ位で略します。
いずれにしても、鼻が如何に忠実に各種の表現の主役をつとめているものであるか。その補助機関が如何に誤魔化そうとしても鼻の表現ばかりは偽る事が出来ないものであるという事は、右に挙げました実例だけでも一通り説明し尽されている事と信じます。
極めて大掴みに考えて見ますと、鼻以外の表現はその人の
それ以外のものは全部鼻が受け持って表現していると考えてよろしいようで、しかも又この任務は断じて奪う事は出来ないのが原則と認めて差し支えありませぬ。手で撫でても、ハンケチで拭いても、又は別誂えの咳払いをしても、鼻の表現ばかりは掻き消す事も吹き払う事も出来ないのであります。
よく出鱈目や
表現の受け渡し
――鼻の動的表現(十)
▼鼻の表現は眼にも止まらず心にも残らぬ。
▼しかも不断にその人の真実の奥底まで表現してソックリそのまま相手に感銘させている。
▼そして鼻自身は知らん顔をしている。
▼その相手の感銘にこっちの鼻以外の表現で
▼しかし鼻の表現だけは偽る事も誤魔化す事も出来ない。
この事実の如何に一般に認められていないかという事は驚くべきものがあります。それは
同時にこの偽り得る表現と偽り得ない表現とが如何に入れ
「こんな
と番頭さんには云いながら、「欲しいわねえ」という鼻の表現を御主人に振り向けられます。御主人はさり気なく葉巻の煙をさり気なく吹き上げながら、
「そうだなあ」
と鼻だけニッタリとさせて、「ネーアナタ」を期待しておられます。
「その代り柄や色合はしっかり致しておりますから
とか何とか思い切って踏ん込めば、最後の「ネーアナタ」と「止むを得ぬ」とを同時に占領する事が出来るのであります。
「あなたの御蔭で私は起死回生の思いを致しました。
「どう致しまして。
というような会話が如何にもまことしやかに取り換わされます。ところがお礼を云われた方では何だか物足りないような気がしている。
「あいつどうも本当に有難がっていないらしい。世話をして見ると案外軽薄な奴に見える。一寸一杯喰わされたかな」
という一種の不愉快と不安が湧いている。そのような場合はきっと相手の鼻が衷心からの感謝の意を表明していないためで、
「こう云っときゃあ喜ぶだろう。又頼む時にも都合がいいから」
位の有難さしか感じていないその熱誠の度合いがそっくりそのまま鼻の頭に
「お宅に伺いますとついのんびりして
と口では云いながら、内心実はつまらない。長居したくない。ほんの義理で来ているので、うちにはまだ用事がドッサリあるとノツソツしていると、眼や口はニコニコしながら鼻だけどことなくソワソワしております。
デリケートな相手になると
「ホントニ御ゆっくり遊ばせな。お久し振りですから」
とか何とかバツを合わせながら障子の蔭で鼻の頭をイライラさせつつ、急いでゆっくりとお茶やお菓子を出します。
双方のびやかにお茶を
「アノ……では……又」
「アラまあお宜しいじゃ御座いませんか」
と立ち上って玄関へ出る。ここで初めてどちらもホッとした鼻の表現を見せ合いながら、イソイソと出て行かれる。一方はサッサと引込まれるといったような御経験は、特におつとめの
田舎から出てきた叔父さんが天下泰平の長逗留をする。これに閉口した若夫婦が、
「お国のお子さん方は淋しいでしょうね」
と親切そうに云う時の鼻の表現を見損ねた叔父さんは、
「有難う。そのうちに学校が済んだら三人共呼び寄せるかね」
と飛んでもない感謝を表明する事になります。その時に見合わせる若夫婦の鼻の表現……。
「死にたい、死にたい」
と云いながら死にたい気ぶりも見えぬ姑の鼻。どうぞそう願えますなら――と云いたい一パイのところを、
「アレ、又あんな事。後生ですからおっしゃらずに」
と打ち消す嫁の取りなし顔の鼻の表現。そこに起こる明暗
「私はノラ見たいな女が好きだよ」
というキルク抜式の鼻の表現――これに対するお嫁さんがまたエヘヘンと云う見得で、
「私は矢張り乃木大将の夫人式が本当と信じますわ」
と
鼻と実社会
――鼻の動的表現(十一)
こうして鼻の表現は、その大小、深浅、厚薄取り取りをそのままに、無意識の裡に相手に感応させております。相手も又無意識のまま感応に相当する意志や感情を動かしてその鼻に表現しているのであります。
この点に気付かない人が多いのと同比例に、世の中の事が思い通りに行かぬ人が多いらしいのであります。そうしてそこに鼻の表現の使命が遺憾なく裏書きされているのであります。
「おれがこんなにお百度を踏むのに、
「
「
「
なぞよく承わる事でありますが、これはさも有るべき事で、御本人の誠意が無い限り鼻が決してその誠意を裏書きしてくれないからであります。お向う様を怨むよりお手前の鼻に文句をつけた方が早わかりかも知れませぬ。このほか……
「親仁は癪に障るけど、おふくろが可哀相だから帰って来た」
という意気地無しの土性骨。
「奥様がおかわいそう」
という居候のねらい処。
「一ひねりだぞ」
と睨む空威張。
「会いとうて会いとうて」
という空涙。いずれもすっかり鼻に現われて相手の反感を買っているのであります。
しかもこうした鼻の表現の影響は単に差し向いの場合に限られたものではありませぬ。もっと大きな世間的の行事又は社会的の運動――そんなものにも現われて、その如何に偉大深刻なものであるかを切実に証明しているのであります。
「資本家を倒すのは人類のためだ」
と揚言しながら「実はおれ自身のためだ」というさもしい欲求――
「労働運動は多数を
と罵倒しながら「おれの儲け処が貴様達にわかるものか」という
「多数党如何に横暴なりとも正義が許さぬぞ」
という物欲しさ――
「本大臣は充分責任を負うております」
という不誠意――
どれもこれもその云う口の下からの鼻の表現に依って値打ちは付けられて、天下の軽侮嘲弄を買い、同時にその成功不成功を未然に判断させているのであります。
鼻の表現は随分遠方からでも見えるらしいのであります。
議会壇上に立って満場の選良に対して、
「本大臣は本日ここに諸君に
とか何とか音吐朗々とやっております。然るに内心では、
「ヤレヤレ又馬の糞議員共が寄り集まった。
という考えでおりますと、不思議に議場の隅に生あくびを噛み殺す奴が出て来るのであります。御同様に議員さんが立ち上って、
「国家のために政府案に賛成するのだ」
と拳固をふりまわしているのを見ると、
「これも役目だから」
という気持がスッカリ鼻の表現をだれさせているために、「国家のため」という言葉が根っから感動を与えないのがあります。
数万の聴衆を飽かせない大雄弁家でも、
「とにかくおれの演説はうまいだろう」
という気もちを鼻の頭にブラ下げて壇を
「うまいもんだなあ」
という印象だけが残ります。うっかりすると「演説使い」だとか「雄弁売り」――又は時と場合では「偽国士」とか「
喰い詰めた宗教家はよく十字街頭に立ちます。鬚だらけの
「アア天よ。この恵まれざる人々を……」
なぞやっております。しかしその下から、
「皆さん、欲をお離れなさい。そして私に御喜捨をなさい。私が神様に取次いで上げますから」
という情ない心境をその日に焼けた鼻に表現しておりまするために、人々に嘲笑冷視を以て迎えられております。
彼等はこれを知らずして只
「どうぞや、どうぞ」
と言う乞食よりも賢明でないものである事を同時にその鼻が表明しているのであります。
悪魔の鼻
――悪魔式鼻の表現(一)
こうして鼻の表現は絶対に偽る事は出来ないものでしょうか。どんなにうまい口前で如何ように眼や口を使いわけても、それが心にもない事である限りいつも鼻の表現に裏切られていなければならぬ筈のものでありましょうか。喜怒色に表わさずというモットーを文字通りに守り得る程の社交的人物でも、鼻ばかりは常に喜怒を表わしていなければならぬ筈のものでありましょうか。
フットライトの中に浮き出してあでやかに笑いまわる舞姫の鼻の表現のわびしさは、絶対に拭い
鼻の表現は眼や口なんぞと同じように支配する事は絶対に出来ないものと決っているものでありましょうか。
もしこの鼻の表現を自由自在に使いこなして、如何なる出鱈目でも嘘っ八でも決して他人に看破されない位に充実した鼻の表現でもって、その真実である事を裏書きして行く事が出来るものがいるとしたら、その者は如何に恐るべき成功を世渡りの上に博する事が出来るでありましょうか。
如何なる残忍酷薄な奴でもその鼻の表現に、自由自在に熱情の光を輝かす事が出来るものとしたならば、その人間の運命は如何に光明に満ち満ちたものとなり、その人間以外の社会生活は如何に暗黒な不安の
ここに「悪魔の鼻」と題しましたのは、この鼻の表現をある程度まで自由に支配しうる種族が人間社会にかなり沢山に存在しているのを総括して研究し批判して見たいためであります。
一面から申しますれば、眼付きや口もとの表現で他人を欺き得るものはまだ徹底的に欺き得るものとは云えない……悪魔の名を
先ず悪魔の鼻の研究に先だって是非とも研究しておかなければならぬ鼻が一種類あります。それは名優と称する人種の鼻であります。
名優の鼻
――悪魔式鼻の表現(二)
昔から名優と名を付けられた程の人々は、その
泣く時は衷心から泣き、笑う時は腹の底から笑う。怒る時は鼻柱から
これが所謂腹芸という奴で、こうして名優の心の底の変化は腹の底から鼻の頭へ表現されて、自由自在に見物に感動を与える事、
彼等名優がどうしてこのような不可思議な術を弄する事が出来るかという疑問は、昔から既に解決されております。その人物になり切ってしまう――その境界になり切ってしまう――という芸術界の最大の標語がそれであります。
その人物になり切ってしまう――見物の中にいい女がいようと、道具方が不行届であろうと、相手方がまずかろうと、人気があろうと無かろうと、そんな事は一切お構い無しに、すべての娑婆世界の利害損失の観念、即ち自己から離れてしまって、その持ち役の人物の性格や身の上を自分の事と思い込んで
その境界になり切ってしまう――すべての実世間の時間と空間とを脱却して、舞台上の時間と空間に魂の底まではまり込んでしまう。舞台の道具立て、入れかわり立ちかわる役者の表現、そこに移りかわってゆく出来事と気分、そこにしか自分の生命は無いようになってしまう。
実在する悪魔
――悪魔式鼻の表現(三)
然るにここに、この名優式の鼻の表現法を堂々と実世間で御披露に及んで、名優以上の木戸銭や
その主なるものは、毒婦とか色魔とか悪党とか又は横着政治家(政治家でいて横着でないものはあまりありますまいが、ここでは仮りに正真正銘の憂国慨世の士と対照してかく名付けたのであります)とか名づけられる種類であります。この他その商売商売に依っていろいろの悪魔性を帯びた者がいくらもあるに違いありませぬが、ここにはこの四つを代表的なものとして取り扱って見る事に致します。
彼等がその鼻の表現を使いわける代価として望むものはいろいろあります。男女の貞操を手はじめに、金銭、貴金属、衣服、財産、その他何でも……わけても横着政治家となりますとずっと狙い処が大きくなって、名誉権勢、地位人望、利権領土、その他あらゆるものを鼻の表現で釣り寄せようとするのであります。
毒婦とか色魔とかが異性を操る事の自由自在さは全く驚くべきものがあります。
これには引っかけられる側の
「それでは私に死ねとおっしゃるのですね」
と云うと、相手の異性は真青になってしまうのであります。これはその鼻が本当に死にたいという切り詰まった表現をしていると同時に、あなたより他に思う人は無いという気心を裏書きしているからであります。同様に、
「あなたとならばドコマデモ……」
という月並みな文句で相手をグンニャリトロリとさせて
これが少々ハイカラなのになって来ると、
「あなたを恋してはじめて私の卑しいすべてが私をさいなみ初めました」
と告白するその鼻が、その謙遜と誠意とをもって自己のアラを
「私のようなもののためにあなたのような貴いお美しい方の生涯を傷つけるという事はあまりに残酷だと思うと、つい気が引けて……」
と恥じらいを含んだ鼻の表現が、如何に相手の気を引き動かすに充分であるか、そうしてその自尊心をゾッとするまでに満足させるか……。
毒婦、色魔、悪党
――悪魔式鼻の表現(四)
敵は本能寺にあり、相手の生血を吸い取り得れば――相手を丸裸になし得れば――又はどこかに売りこかし得れば、あとは野となれ山となれ――泣こうが
毒婦や色魔は世間を摺れ枯らした結果、すべてに対して捨て鉢であると同時に高を
ですからすべての執着や気がかりを離れて、どんな気もちにでもなる事が出来るのであります。名優と同じように、その境界や場面のうちで最も相手の弱点を捕え得べき感情や意志を腹の底から表現する事が出来るのであります。真そこから泣き、笑い、怒り、怨み、
悪党とても同様であります。彼等は実世間を舞台とし背景として名優の鼻の表現法を行うものであります。
彼等は無言の裡に満腔の涙をその鼻の表現に浮き上らせて、相手の真実の感銘を誘います。彼等は物事が如何に思う壺にはまっても、そんな事はこっちの本旨ではないという、冷然たる鼻の表現を示し得るのであります。
「おれを引き渡すなら引渡せ。そうなりゃあ貴様も地獄の
と度胸をきめた鼻の表現の物凄さは、大抵の向う見ずでも震え上らせずにはおきませぬ。
「思いもかけぬ御
とひれ伏した鼻の表現の神妙さ。一通りのお役人なら一杯喰わされるにきまっております。
彼等の偉大なものになると、泰平の世に何十万石の知行とか何万両の財産とかを手に入れるため、十数年もしくは数十年の間忠実無二の性格を鼻の頭に輝かしつつ明かし暮らす事が出来るのであります。明日こそ毒殺してくれようという当の相手の主人の前に出て、「恐悦至極」の表現を鼻の頭に捧げ奉る事が出来るのであります。
本心を殺して時節を見る事を知らずに正面から諫言をする一刻者の鼻の表現のうちに当然含まれている良心の輝き、主人に対する怨恨、不平、さかしら振り、そのようなものがいろいろ主人の反感を買うのとうらはらに、悪党たちの柔和な、へり下った鼻の表現が着々として成果を収めて行くのは無理もない事であります。
こうして回を重ねた
横着政治家
――悪魔式鼻の表現(五)
横着政治家も
この種政治家は事実でもない事を事実として吹聴して人を驚かしたり、確信も無い事を実際に出来るかのように世間に認めさせたりしなければならぬ場合に数限りなく出合うために、つい有意識無意識の間に鼻の表現の使い方をおぼえ込んでしまうのであります。
老人に会えば「旧式の教育法を復活しない限り国家は滅亡の他ない」と悠然として長大息し、青年と席を同じくしては「日本文化の時代遅れ」を慨然として痛論します。軍人に出会って、世界の帝国主義が事実上に高潮しつつある事を厳然として指摘するかと思えば、社会主義者の顔を見ては、人類社会に於ける形而上と形而下のすべてが宗教、政治、芸術、経済の各方面に亘って民衆化し共産化しつつある事を決然として断言します。
みんなを一所に聞いていると何の事やらさっぱり見当がつきませぬが、相手は皆一人一人に本当だと思って傾聴し感激し共鳴しているのであります。つまり本人はその都度別の人間になって衷心からそう信じて云うから、鼻の頭までも熱誠と確信の光りを
さらに大嫌いの先輩に腹の底からの好意を示し、真誠無双の国士に白い眼を見せ、資本家のノラ息子の人格に絶大の敬意を払い、失脚者の孝行息子を無下に軽侮した鼻の表現を以て迎える。又は有力家の前に堂々たる容儀を整え、金銭の奴隷に下足を揃えて御機嫌を伺う。しかも微塵も鼻の表現をたじろがせずに常に先方に遺憾なき感動を与えるのをお茶の子仕事と心得ているのであります。
彼等は幾度か身の毛も
こうしてその心にすこしのわだかまりも不安も無しに如何なる場面にでもしっくりと落ち着き合う事が出来るのであります。
どんな気分にでもゆったりと調和し合う事が出来るのであります。
ここに於て……
という逆定理が完全に彼等のものとなって来るのであります。この逆定理を応用してその本心を打ち消し、その性格を隠して、鼻の表現をさながらにそれらしく変化させて行く事が出来るのであります。
この逆定理を舞台上の修業で手に入れたものは
この悪魔式鼻の表現に威かされたり、感銘したり、共鳴したりする人も又頗る多いように見受けられます。そのままに世の中は
しかしこれを正しい鼻の表現法から見れば、極めて浅薄な皮相的な研究法で、鼻の表現の真諦に入る階梯とはならないのであります。
鼻の表現法の真意義の研究に入るには、先ずその邪道なるものを飽く迄も知り抜いていなければ、その真意義なるものがはっきりとわかりにくいのみならず、却ってこの邪道に陥って又と再び本通りに帰る事が出来ないようになる恐れがあるのであります。
鼻の表現法の邪道なるものは、一度踏み込んでみると中中面白いものであります。大抵の奴はこの邪道でコロリコロリと参る……俗物は色気や欲気で誘い出し、君子はその道を以てこれを欺くといった風に、その効果が眼の前に現われます。どんな場合でもフン詰まらず、如何なる逆境でも順境に引っくり返す事が出来て、世間はどこまでも拡がって行くように見える。とうとうこれに浮されて、一生しんみりした鼻の表現の価値を認めず人間らしいつき合いの味を知らずに、しかも得々として眼をつぶる者さえ
正表現、邪表現
――悪魔式鼻の表現(六)
このような人々は悪魔に一生を捧げ尽した人と云うべきでありましょう。否、虚偽を以て真実を
その
それならそれでもいいじゃないかと功利派の人は云うかも知れませぬが、
鼻の表現研究の面白味はここに到って
最初から只今までズーッと述べて参りました鼻の表現の実例は、これを大別すると二通りになるのであります。
前の方に述べました実例は、主として鼻の表現を支配し得ぬ人々で、これを支配するは愚なこと、そんな表現機関が自分の顔の真中に存在している事すら夢にも気付かずにいた人々がその大部分を占めているのであります。
それからおしまいの方に悪魔式鼻の表現法として挙げましたのは、虚偽であれ何であれ、
ところでこの鼻の表現の支配し得る人々が何故に相手に深い感動を与え得るかと云うと、その眼や口や身ぶりの表現が鼻の表現と悉く一致しているからであります。だから本心からそう云っているように見える。思っているように察せられる。信ぜられる。
だから相手も疑わない。共鳴する。本気になる。とどのつまりが真っ赤な偽ものを真実至誠の者と認めて、身命を惜しまず奉公するという順序になって来るのであります。
個人もしくは民衆を徹底的に動かすものは真情の流露、至誠の発動であるという事は、今衆口の一致するところであります。
本当に喜んでいるものならば、その全身の表現はその上っ面の表現機関たる眼や口や身ぶりはもとより、鼻の表現までも一貫して徹底的に喜んでいる筈であります。
衷心からそう信じているものならば、その鼻の表現は他の表現機関ともろともに徹頭徹尾確信の輝きに満ちていなければなりませぬ。
こうしてその人のすべての表現が鼻のために少しも裏切られていない事が相手にわかった時に初めて、その人の表現が純一であると認められ得るのであります。その人の真剣味や至誠の力が相手を動かし得るものなのであります。
すべての表現の渾然たる一致――それが相手たる個人及び民衆に及ぼす影響の偉大さ――この機微を盗んで或る程度まで成功しているものがかの名優、その他仮りに悪魔式鼻の表現家と名づけた人々であります。
この中でも名優は商売でありますし、その表現は或る意味に於て実社会と直接交渉が無いのでありますから
この種の人々はその最大限度に於て仮りの本心、仮りの性格に依ってその鼻の表現を支配し得るに
如何に徹底した悪魔式の鼻の表現であっても、無欲にして明鏡の如くに澄み切った心――悪魔以上に