その鼻の先の海面へ、友吉おやじの禿頭が、忰に艫櫓を押させながら、悠々と廻わって来た。見ると赤ん坊の頭ぐらいの爆弾と、火を点けた巻線香を両手に持って、船橋に立っている吾輩の顔を見い見い、何かしら意味ありげにニヤニヤ笑っている。忰の方は向うむきになっていたので良くわからなかったが、吾輩が見下しているうちに二度ばかり袖口で顔を拭いた。泣いているようにも見えたが、多分、潮飛沫でもかかったんだろうと思って、気にも止めずにいたもんだ。
……しかし……そのせいでもあるまいが、吾輩はこの時にヤット友吉おやじの態度を、おかしいと思い初めたものだ。
第一……前にも云った通り吾輩はドンの実地作業を生れて初めて見るのだから、詳しい手順はわからなかったが、それでも友吉おやじの持っている爆弾が、嘗て実見した押収品のドンよりもズット大きいように感じられた。……のみならず、まだ魚群も見えないのに巻線香に火を点けているのが、腑に落ちないと思ったが、しかし何しろ初めて見る仕事だからハッキリした疑いの起しようがない。これが友吉おやじ一流の遣り方かな……ぐらいに考えて一心に看守っているだけの事であった。
一方、甲板の上では「シッカリ遣れエ」という酔っ払いの怒号や、ハンカチを振りながらキーキー声で声援する芸妓連中の声が入乱れて、トテモ煮えくり返るような景気だ。そのうちに慶北丸の惰力がダンダンと弛んで来て、小船の方が先に出かかると、友吉おやじは忰に命じて櫓を止めさせた。……と思ううちに、その舳先に仁王立ちになった向う鉢巻の友吉おやじが、巻線香と爆弾を高々と差し上げながら、何やら饒舌り初めた。
船の中が忽ちピッタリと静かになった。吾輩も、友吉おやじが吾輩の代りになって講演を初めるのかと思って、ちょっと度肝を抜かれたが、間もなく非常な興味をもって、皆と一緒に傾聴した。
友吉おやじの塩辛声は、少々上ずっていたが、よく透った。ことに頭から日光を浴びたその顔色は頗る平然たるもので、寧ろ勇気凜々たるものがあった。
「……皆さん……聞いておくんなさい。私はこの爆弾を投げて、生命がけの芸当をやっつける前に、ちょっと演説の真似方を遣らしてもらいます。白状しますが私は今から十四年ほど前に、柳河で嬶と、嬶の間男をブチ斬ってズラカッタ林友吉というお尋ね者です。……それから後五年ばかりというものこのドン商売に紛れ込みまして、海の上を逃げまわっておりましたが、その間に警察署とか裁判所とか、津々浦々の有志とか、お金持ちとかいう人達が、吾々に生命がけの仕事をさせながら、どんなに美味い汁を吸うて御座るかという証拠をピンからキリまで見てまわりました。爆弾の隠匿し処などもアラカタ残らず、探り出してしまったものです。
……それが恐ろしかったので御座んしょう。警察と裁判所と、有志の人達が棒組んで、この私を袋ダタキにして絶影島の裏海岸に捨てて下さった御恩バッカリは今でも忘れておりません。そう云うたら思い当んなさる人が皆さんの中にも一人や二人は御座る筈ですが。へへへへへへへへへへ……」
この笑い声を聞くと同時に、船の中で「キャ――ッ」という弱々しい叫びが起って、一人の仲居が引っくり返った。その拍子に近まわりの者が、ちょっとザワ付いたように見えたが、又もピッタリと静かになった。……友吉の気魄に呑まれた……とでも形容しようか……。相手が恐ろしい爆弾を持っているので、蛇に魅入られた蛙みたような心理状態に陥っていたものかも知れない。
友吉おやじの顔色は、その悲鳴と一所に、益々冷然と冴え返って来た。
「……アンタ方は、ええ気色な人達だ。罪人を捕まえて生命がけの仕事をさせながら、芸者を揚げて酒を飲んで、高見の見物をしているなんて……お役人が聞いて呆れる。私は轟先生の御命令じゃから不承不承にここまで来るには来てみたが、モウモウ堪忍袋の緒が切れた。持って生れたカンシャク玉が承知せん。
……アンタ方は日本の役人の面よごしだ。……ええかね。……これはアンタ方に絞られたドン仲間の恩返しだよ。コイツを喰らってクタバッてしまえ……」
と云ううちに爆弾の導火線を悠々と巻線香にクッ付けて、タッタ一吹きフッと吹くとシューシューいう奴を片手に、
「へへへへ……」
と笑いながら船首の吃水線下に投げ付けた。……トタンに轟然たる振動と、芸者連中の悲鳴が耳も潰れるほど空気を劈いた。それを見上げた友吉おやじは又も、
「へへへへへへへ……」
と笑いながら、今一つの爆弾を揚板の下から取出して導火線に火を点けた。それを頭の上に差し上げて、
「……コレ外道サレッ……」
と大喝しながら投げ出したと思ったが、その時遅く彼の時早く、シューシューと火を噴く黒い爆弾がおやじの手から三尺ばかりも離れたと見るうちに、眼も眩むような黄色い閃光がサッと流れた。同時に灰色の煙がムックリと小舟の全体を引っ包んだ中から、友吉おやじの手か、足か、顔か、それとも舷か、板子か、何だかわからない黒いものが八方に飛び散ってポチャンポチャンと海へ落ちた。そうしてその煙が消え失せた時には、半分水船になった血まみれの小舟が、肉片のヘバリ付いた艫櫓を引きずったまま、のた打ちまわる波紋の中に漂っていた。
不思議な事に吾輩は、その間じゅう何をしていたか全く記憶していない。危険いとも、恐ろしいとも何とも感じないまま船橋の上から見下ろしていたものだ。恐らく側に立っていた船長も同様であったろうと思う。……友吉おやじの演説をハッキリと聞いて、二つの爆弾が炸裂するのを眼の前に見ていながら、一種の催眠術にかかったような気持ちで、両手をポケットに突込んだなりに、棒のように硬直していたように思う。ただ、その石のように握り締めた両手の拳の間から、生温るい汗がタラタラと迸しり流れるのをハッキリと意識していたものだが、「手に汗を握る」という形容はアンナ状態を指したものかも知れん。
船の甲板は、むろん一瞬間に修羅場と化していた。今の今まで、抱き合ったり、吸付き合ったりしていた男や女が、先を争って舷側に馳け付けた。そこへ誰だかわからないが非常汽笛を鳴らした者がいたので一層騒ぎが深刻化してしまった。
船体はいつの間にか十度ばかり左舷に傾いて、まだまだ傾きそうな動揺を見せていたが、そのために酔った連中の足元がイヨイヨ定まらなくなったらしい。折重なって辷り倒れる。その上から狼藉していた杯盤がガラガラガラと雪崩かかる。その中を押し合い、ヘシ合い、突飛ばし合いながら両舷のボートに乗移ろうとする。上から上から這いかかり乗りかかる。怪我をする。血を流す。嘔吐く。気絶する。その上から踏み躙る。警官も役人も有志も芸妓も有ったもんじゃない。皆血相の変った引歪んだ顔ばかりで、醜態、狼狽、叫喚、大叫喚の活地獄だ。その上から非常汽笛が真白く、モノスゴク、途切れ途切れに鳴り響くのだ。
左右の舷側に吊した四隻のカッター端舟はセイゼイ廿人も乗れる位のもので在ったろうか。一艘毎に素早い船員が飛乗って、声を嗄らして制止しているが耳に入れる者なんか一人も居ない。我勝ちに飛乗る、縋り付く、オールを振廻すという状態で、あぶなくて操作が出来ない。そのうちに左舷の船尾から猛烈な悲鳴が湧き起ったから、振り返ってみると、今しも人間を山盛りにして降りかけた端舟が、操作を誤って片っ方の吊綱だけ弛めたために、逆釣りになってブラ下がった。同時に満載していた人間がドブンドブンと海へ落ちてしまったのだ。海の深さはそこいらで十五六尋も在ったろうか……。
それを見た瞬間に吾輩はヤット我に返った……これは俺の責任……といったような感じにヒドク打たれたように思う。
傍を見ると船長が吾輩と同じ恰好でボンヤリと突立っている。肩をたたいて見たが、唖然として吾輩を振り返るばかりだ。船橋の下の光景に気を呑まれていたんだろう。
吾輩はその横で背広服を脱いで、メリヤスの襯衣とズボン下だけになった。メリヤスを一枚着ていると大抵な冷めたい海でも凌げる事を体験していたからね。それから船橋の前にブラ下げて在った浮袋を一個引っ抱えて上甲板へ馳け降りた。船尾から落ちた連中を救けて水舟に取付かせてやるつもりだった。それからボートの前の連中を整理して狼狽させないようにしようと思い思いモウ一つ下甲板へ馳け降りると、その階段の昇り口の暗い処でバッタリとこの船の運転士に行き会った。よく吾輩の処へ議論を吹っかけに来る江戸ッ子の若造で、友吉とも心安い、来島という柔道家だったが、これも猿股一つになって、真黒な腕に浮袋を抱え込んでいた。
「……あっ……轟先生。ちょうどいい。一所に来て下さい」
と云ううちに吾輩を引っぱって、客室の横の階段から廊下伝いに混雑を避けながら、誰も居ない船首へ出た。その時に非常汽笛がパッタリと鳴り止んだので、急に淋しく、モノスゴクなったような気がしたが、そこで改めて来島の顔を見ると、眼に泪を一パイ溜め、青い顔をしている。友太郎の事を考えているのだろうと思ったが、しかし二人とも口には出さなかった。来島は落付いて云った。
「……轟先生……損害は軽いんです。汽笛なんか鳴らしたから不可なかったんです。……傾いだ原因はまだ判然りませんが、船底の銅版と、木板の境い目二尺に五尺ばかりグザグザに遣られただけなんです。都合よく反対に傾いだお蔭で、モウ水面に出かかっているんですから、外から仕事をした方が早いと思うんです。済みませんが先生、この道具袋を持って飛込んでくれませんか。水夫も火夫もみんなポンプに掛り切っていて手が足りないんですから……浮袋を離してはいけませんよ。仕事が出来ませんから……いいですか……」
吾輩は一も二もなくこの若造の命令に従って海に飛込んだ。イザとなると覚悟のいい奴には敵わないね。
ところが、それから引続いた来島の働らき振りには吾輩イヨイヨ舌を捲かされたもんだよ。溺れている人間なんか見向きもしない。一生懸命で、上からブラ下げた綱に縋りながら、船の横っ腹に取付いて、穴の周囲にポンポンポンと釘を打ち並べると、八番ぐらいの銅線を縦横十文字に引っかけまわした。その上から帆布を当てがって、片っ方から順々に大釘で止めて行く……最後に残った一尺四方ばかりの穴から猛烈に走り込む水を、針金に押し当てがった帆布で巧みにアシライながら遮り止めてしまった。その上からモウ二枚帆布を当てがって、周囲をピッシリ釘付けにして、その上からモウ一つ、流れていた櫂を三本並べながら、鎹釘で頑丈にタタキ付けてしまった。どこで研究したものか知らないが、百人ばかりの生命の親様だ。思わず頭が下がったよ。
その吾々が仕事をしている二三間向うには、端舟の釣綱が二本、中途から引っ切れたままブラ下がっていた。切れ落ちたボートは人間を満載したまま一度デングリ返しを打った奴が、十間ばかり離れた処に漂流していたが、その周囲には人間の手が、干大根を並べたようにビッシリと取付いている。……にも拘わらず、その尻の切れた二本の綱には、上から上から取付いてブラ下がって来る人間が、重なり重なり繋がり合っているのだ。芸者、紳士、警官、お酌、判事、検事、等々々といった順序に重なり合った珍妙極まる人間の数珠玉なんだ。しかもその一つ一つが「助けてくれ助けてくれ」と五色の悲鳴をあげているのだから、平生なら抱腹絶倒の奇観なんだが、この時はドウシテ……その一人一人が絶体絶命の真剣なんだから遣り切れない。巡査の握り拳の上に芸者のお尻がノシかかって来る。仲居の股倉が有志の肩に馬乗りになる。「降りちゃ不可ん降りちゃ不可ん」と下から怒鳴っているんだから堪らない。ズルリズルリと下がって来るうちに、見る見る綱が詰まって来てポチャンポチャンと海へ陥ち込む。そのまま、
「……アアッ……ああッ……」
と藻掻き狂いながらブクブクブクと沈んで行く。その表情のムゴタラシサ……それを上から見い見いブラ下がっている連中の悲鳴のモノスゴサといったらなかったよ。
そんな光景を見殺しにしながら仕事をしていた吾輩は、仕事が済むとモウ矢も楯もたまらない。道具袋を海にタタッ込んで、抜手を切って沖合いの小舟に泳ぎ付いた。血だらけの櫓柄を洗って、臍に引っかけると水舟のまま漕ぎ戻して、そこいらのブクブク連中をアラカタ舷の周囲に取付かせてしまったので、とりあえずホッとしたもんだ。
その間に来島は本船に上って、帆布で塞いだ穴の内側から、本式にピッタリと板を打付けた。一層馬力をかけて水を汲み出す一方に、在らん限りの品物を海に投込む。ボートの連中を艙口から収容すると、今度は船員が漕ぎながら人間を拾い集める。綱を持った水夫を飛込ましてブカブカ遣っている連中を拾い集める。上って来た奴は片っ端から二等室に担ぎ込んで水を吐かせる。摩擦する。人工呼吸を施すなどして、ヤットの事で取止めた頭数を勘定してみると、警官、役人、有志、人夫を合わせて、七名の人間が死んでいる。そのほかに芸妓二名の行方がわからない……という事が判明した。これは男連中が腕力に任せて先を争った結果で、同時に女を見殺しにした事実を雄弁に物語っているのだ。お酌や仲居が一人も飛込まないで助かったのは、お客や姉さん等に対して遠慮勝ちな彼等の平生の癖が、コンナ場合にも出たんじゃないかと思うがね。イヤ。冗談じゃないんだ。危急の場合に限って平生の習慣が一番よく出るもんだからね。
ところがその中に西寄りの北風が吹き初めて、急に寒くなったせいでもあったろうか。死骸を並べた二等室の広間に青い顔をして固まり合っていた、生き残りの連中が騒ぎ初めた。当てもないのに立ち上りながら異口同音に、
「……帰ろう帰ろう。風邪を引きそうだ……」
「船長を呼べ船長を呼べ……」
とワメキ出したのには呆れ返ったよ。イクラ現金でもアンマリ露骨過ぎる話だからね。片隅で屍体の世話を焼いていた丸裸の来島運転士も、これを聞くと顔色を変えて立上ったもんだ。あらん限りの醜態を見せ付けられてジリジリしていたんだからね。
「……何ですって……帰るんですって……いけませんいけません。まだ仕事があるんです」
「……ナンダ……何だ貴様は……水夫か……」
「この船の運転士です。……船の修繕はもうスッカリ出来上っているんですから、済みませんがモウ暫く落付いていて下さい。これから屍体の捜索にかかろうというところですからね」
「……探してわかるのか……」
「……わからなくたって仕方がありません。行方不明の屍体を打っちゃらかして、日の暮れないうちに帰ったら、貴方がたの責任問題になるんじゃないですか。……モウ一度探しに来るったって、この広ッパじゃ見当が付きませんよ」
と詰め寄ったが、裁判所や、警察連中は、何を憤っているのか、白い眼をして吾輩と来島の顔を見比べているばかりであった。すると又その中に大勢の背後の方で、
「……アア寒い寒い……」
と大きな声を出しながら、四合瓶の喇叭を吹いていた一人が、ヒョロヒョロと前に出て来た。トロンとした眼を据えて、
「……何だ何だ。わからないのは芸妓だけじゃないか。芸妓なんぞドウでもいい……」
とウッカリ口を辷らしたから堪まらない。隅ッ子の方に固まっていた雛妓が「ワッ」と泣き出す……トタンに来島の血相が又も一変して真青になった。
「……何ですか貴方は……芸妓なんぞドウでもいいたあ何です」
「……バカア……好色漢……そんな事を云うたて雛妓は惚れんぞ……」
「……惚れようが惚れまいがこっちの勝手だ。フザケやがって……芸妓だって同等の人間じゃねえか。好色漢がドウしたんだ……手前等あ役人の癖に……」
と云いさしたので吾輩は……ハッ……としたが間に合わなかった。二三人の警官と有志らしい男が一人か二人、素早く立上って来島と睨み合った。しかし来島は眉一つ動かさなかった。心持ち笑い顔を冴え返らしただけであった。
「……何だ……貴様は社会主義者か……」
「……篦棒めえ人道主義者だ……このまんま帰れあ死体遺棄罪じゃあねえか。不人情もいい加減にするがいい……手前等あタッタ今までその芸妓を……」
「黙れ黙れッ。貴様等の知った事じゃない。吾々が命令するのだ。帰れと云ったら帰れッ……」
「……ヘン……帰らないよ。海員の義務って奴が在るんだ。芸妓だろうが何だろうが……」
「……馬鹿ッ……反抗するカッ……」
と云ううちに前に居た癇癪持ちらしい警官が、来島の横ッ面を一つ、平手でピシャリとハタキ付けた。トタンに来島が猛然として飛かかろうとしたから、吾輩が逸早く遮り止めて力一パイ睨み付けて鎮まらした。来島は柔道三段の腕前だったからね。打棄っておくと警官の一人や二人絞め倒おしかねないんだ。
そのうちに来島は、吾輩の顔を見てヒョッコリと頭を一つ下げた。そのまま火の出るような眼付きで一同を見まわしていたが、突然にクルリと身を飜すと、入口の扉をパタンと閉めて飛び出して行った。吾輩もそのアトから、何の意味もなしに飛出して行ったが、来島の影はどこにも見えない。船橋に上って見ると船はもう轟々と唸りながら半回転しかけていた。
その一面に白波を噛み出した曇り空の海上の一点を凝視しているうちに吾輩は、裸体のまんま石のように固くなってしまったよ。吾輩の足下に大波瀾を捲き起して消え失せた友吉親子と、無情なく見棄てられた二人の芸妓の事を思うと、何ともいえない悽愴たる涙が、滂沱として止まるところを知らなかったのだ。……
……ドウダイ……これが吾輩の首無し事件の真相だ。君等の耳には最、トックの昔に這入っている事と思っていたんだが……秘密にすべく余りに事件が大き過ぎるからね。
ウンウンその通りその通り。朝鮮の内部で喰い止めて内地へ伝わらないように必死的の運動をしたものに相違ないね。司法官連中にも弱い尻が在るからな。旅費日当を貰って聴きに来た講演をサボって、芸者を揚げて舟遊山をした……その酒の肴に前科者を雇って、生命がけの不正漁業を実演させたとなったら事が穏やかでないからな。
ナニ、吾輩に対する嫌疑かい。
それあ無論かかったとも。……かかったにも何にも、お話にならないヒドイ嫌疑だ。人間の運命が傾き初めると意外な事ばかり続くものらしいね。
その翌る朝の事だ。善後の処置について御相談したい事があるからというので、釜山府尹官舎の応接間に呼び付けられてみると、どうだい。昨日の事件は吾輩と、友吉おやじと、慶北丸の運転士来島とが腹を合わせた何かの威嚇手段じゃないか。その背後には在鮮五十万の漁民の社会主義的、思想運動の力が動いているのじゃないかというので、根掘り葉掘り訊問されたもんだ。どこから考え付いたものか解からんが馬鹿馬鹿し過ぎて返事も出来ない。よっぽど面喰って、血迷っていたんだね。……しかもその入れ代り立代り訊問する連中の中心に立った人間というのが誰でもない。昨日、イの一番に芸妓を突飛ばして船尾のボートに噛り付いた釜山の署長と予審判事と検事の三人組と来ているんだ。或は一種の責任問題から、この三人が先鋒に立たされたものかも知れないがね。……その背後には慶北、全南あたりの司法官が五六名、容易ならぬ眼色を光らしている。表面は事件の善後策に関する相談と称しながら、事実は純然たる秘密訊問に相違なかったのだ。
吾輩は勿論、癪に障ったから、都合のいい返事を一つもしてやらなかった。当り前なら法律と算盤の前には頭を下げる事にきめている吾輩だったが、あの時には、前の日に死んだ友吉おやじのヒネクレ根性が、爆薬の臭気とゴッチャになって、吾輩の鼻の穴から臓腑へ染み渡っていたらしいね。
「吾輩の講演を忌避して、船遊山を思い立ったのは誰でしたっけね」
と空っトボケてやったもんだ。
すると誰だか知らない検事か判事みたような男が背後の方から、
「それでも友吉親子を推薦したのは貴下ではなかったか」
と突込んで来たから、わざとその男の顔を見い見い冷笑してやった。
「……ハハハ……その事ならアンマリ突込まれん方が良くはないですか。実は昨晩、弁護士に調べさせてみますと、友吉の前科はズット以前に時効にかかっていたものだそうです。私は法律を知らないのですが……それでなくとも拘留中の現行犯人を引出して、犯罪の実演をさせるよりは無難だろうと思って、実は、あの男を推薦した次第でしたが……それでも貴方がたの法律眼から御覧になると、現行犯を使った方が合理的な意味になりますかな……」
と乙に絡んで捻じ返してくれた。吾れながら感心するくらい頭がヒネクレて来たもんだからね……ところが流石は商売柄だ。これ位の逆襲には凹まなかった。
「そんな事を議論しているのじゃない。友吉おやじに、あんな乱暴を働らかした責任は当然ソッチに在る筈だ。その責任を問うているのだ」
と吾輩の一番痛いところを刺して来た。その時には吾輩、思わずカッとなりかけたもんだ……が、しかしここが大事なところと思ったから、わざと平気な顔で空を嘯いて見せた。
「……成る程……その責任なら当方で十分十二分に負いましょうよ。……しかし爆弾を投げさせた心理的の動機はこの限りに非ずだから、そのつもりでおってもらいたいですな。無辜の人間に生命がけの不正を働らかせながら、芸妓を揚げて高見の見物をしようとした諸君の方が悪いにきまっているのだから……諸君は友吉おやじの最後の演説を記憶しておられるだろう……」
と云って満座の顔を一つ一つに見廻わしたら、一名残らず眼を白黒させていたよ。
「……しかし……あれは元来……有志連中が計画したもので……」
と隅の方から苦しそうな弁解をした者がいたので、吾輩は思わず噴飯させられた。
「……アハハ。そうでしたか。ちっとも知りませんでした。……しかし拙者が拝見したところでは、有志の連中には余り酔った者はいなかったようである。実際に泥酔して乱痴気騒ぎを演じたのは諸君ばかりのように見受けたが、違っていたか知らん。序にお尋ねするが一体、諸君は講演の第二日の報告を、何と書かれるつもりですか。参考のために承っておきたい。まさか公会堂で演説中に爆弾が破裂したとも書けまいし……困った問題ですなあ……これは……」
と冷やかしてやった。ところがコイツが一等コタエたらしいね。イキナリ、
「……ケ……怪しからん……」
と来たもんだ。眼先の見えない唐変木もあったもんだね。
「……そ……そんな事に就いては職務上、君等の干渉を受ける必要はない。君はただ訊問に答えておればいいのだ」
と頭ごなしに引っ被せて来た。……ところが又、こいつを聞くと同時に、最前から捻じれるだけ捻じれていた吾輩の神経がモウ一と捻じりキリキリ決着のところまで捻じ上ってしまったから止むを得ない。モウこれまでだ。談判破裂だ……と思うと、フロックの腕を捲くって坐り直したもんだ。
「……ハハア……これは訊問ですか。面白い……訊問なら訊問で結構ですから、一つ正式の召喚状を出してもらいましょうかね。その上で……如何にも吾輩が最初から計画してやった仕事に相違ない……という事にして、洗い泄い泥水を吐き出しましょうかね。要するに諸君の首が繋がりさえすれあ、ほかに文句はないでしょう……」
と喰らわしてやったら、連中の顔色が一度にサッと変ったよ。
「……エヘン……吾輩は多分、終身懲役か死刑になるでしょう。君等のお誂え向きに饒舌ればね……ウッカリすると社会主義者の汚名を着せられるかも知れないが、ソレも面白いだろう。日本民族の腸が……特に朝鮮官吏の植民地根性が、ここまで腐り抜いている以上、吾輩がタッタ一人で、いくらジタバタしたって爆弾漁業の勦滅は……」
「……黙り給えッ……司直に対して僭越だぞ……」
「何が僭越だ。令状を執行されない以上、官等は君等の上席じゃないか……」
と開き直ってくれたが、その時に横合いから釜山署長が、慌てて割込んで来た。
「……そ……それじゃ丸で喧嘩だ。まあまあ……」
「……喧嘩でもいいじゃないか。こっちから売ったおぼえはないが、ドウセ友吉おやじの鬱憤晴らしだ」
「……そ……そんな事を云ったらアンタの不利になる……」
「……不利は最初から覚悟の前だ。出る処へ出た方がメチャメチャになって宜い……」
「……だ……だからその善後策を……」
「何が善後策だ。吾輩の善後策はタッタ一つ……漁民五十万の死活問題あるのみだ。お互いの首の五十や六十、惜しい事はチットモない。真相を発表するのは吾輩の自由だからね」
「そ……それでは困る。御趣旨は重々わかっているからそこをどっちにも傷の附かんように、胸襟を開いて懇談を……」
「それが既に間違っているじゃないか。死んだ人間はまだ沖に放りっ放しになっているのに何が善後策だ。その弔慰の方法も講じないまま自分達の尻ぬぐいに取りかかるザマは何だ。況んや自分達の失態を蔽うために、孤立無援の吾輩をコケ威しにかけて、何とか辻褄を合わさせようとする醜態はどうだ」
「……………」
「ソッチがそんな了簡ならこっちにも覚悟がある。……憚りながら全鮮五十万の漁民を植え付けて来た三十年間には、何遍、血の雨を潜ったかわからない吾輩だ。骨が舎利になるともこの真相を発表せずには措かないから……」
「……イヤ。その御精神は重々、相わかっております。誤解されては困ります。爆弾漁業の取締りに就いて今後共に一層の注意を払う覚悟でおりますが、しかし、それはそれとしてとりあえず今度の事件だけに就いての善後策を、今日、この席上で……」
とか何とか云いながら上席らしい胡麻塩頭の一人が改まって頭を下げ初めた。それに連れて二三人頭を下げたようであったが、内心ヨッポド屁古垂れたらしいね。しかし吾輩はモウ欺されなかった。
「……待って下さい。その交換条件ならこっちから御免を蒙りましょう。陛下の赤子、五十万の生霊を救う爆弾漁業の取締りは、誰でも無条件で遣らなければならぬ神聖な事業ですからね。今後、絶対に君等のお世話を受けたくない考えでいるのです。……ですから君等の職権で、勝手な報告を作って出されたらいいでしょう。……吾輩は忙がしいからこれで失礼する」
「……まあまあ……そう急き込まずと……」
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