装 束
現在の能の扮装を見た人は、到る処に思い切った時代錯誤や、身分錯誤? を発見して驚き
芝居ならば裸一貫であるべき漁師が、大臣と同じ
こうした現象は、やはり扮装の能的単純化から来たものである。すなわち昔は、その役々によって色々の扮装をしたものが、舞台効果を主として洗練されて行くうちに、次第に単純化され共通化されてしまったもので、現在でも、そうした方向にドシドシ進化しつつある。
造り物と小道具
これは能の舞台面に用いる家とか舟とか、樹木とか、又は演出を補助する糸車、鏡、桶、釣竿、なぞいうものであるが、これも初めはかなり写実的なもので種類も沢山あったのを、次第に単純化されたり、廃棄されたりして来た形跡がある。
たとえば船は一々布で張って、船の形にしていたのが、今日では只、四角い枠の前後に、半楕円形に曲げた竹を取りつけて、それから白い布で巻いただけである。丁度小児がチョークで描いた
その他、日月星辰、風雨明暗、山川草木等の森羅万象に関する背景、その他の大道具、小道具、舞台設備等いうものは絶無で、ひたすらに舞い手(主として主演者)の表現力によって、実物以上に深刻に美しく印象させられて行くばかりである。
一方から見れば、昔沢山にあった大道具、小道具は、次第に舞い手と謡い手と囃し手の表現能力(即ち仮面と装束の超自然的に偉大な表現力)の中に取り入れられて消滅してしまった……という事が出来る。
出 演 者
ここに云う出演者は地謡い(合唱隊)と囃方と後見とを除いたもので、扮装をして出て来る、曲中の人物のみを指す。
これも昔は必要に応じて、各種の人物を大勢出したものを、出来るだけ少数にして舞台効果を高めるべく努力して来た。多数の人間を登場さして舞台面の空弱な処を埋めたり、その人数の多さに依って演出の価値を向上させたりする行き方とは正反対である。
能楽では、何万という登場者があるべき舞台面を僅かに二人か三人で片付ける事が珍らしくない。そうしてその何万という群集の感じは演者の表現力……逆に云えば観客の芸術的直感力に訴えて現実以上に印象深く描き表わされるので、受ける感じの美くしさも亦幾層倍するのである。すなわち現実に何万人を並べた感じは、見物に客観的な事実感を与えるだけの力しかないが、それが舞い手……殊に仮面の舞台効果(
現在の能で最も出演者の多いのは十四五名であるが、これは特別で、普通は五六名以下である。その中で見た眼に感銘が深く、演る方も気が乗って緊張した舞台面を作り得るのは二人切りのもので、曲そのものもよく出来ているのが多いし、曲の数も亦
その出演者は、主演者一人(シテ)、主演者補助一人又は数人(シテツレ)、子役一人もしくは数名(コガタ)、助演者一人(ワキ)、助演者補助一人又は数名(ワキツレ)の五種類で、大別すると主演者の一団(シテ方)と助演者の一団(ワキ方)となる。二人切りの能は主演者と助演者と二人だけである。
能の曲目の大部分は主演者一人を舞わせるのを主眼としてあるので、その他の四種類の登場者は、その主演者の相手役、背景、もしくは主演者の舞を釣り出すべき舞台気分の演出役として登場して、主演者の演出を引立てる事のみに専念する。
尚この他に、狂言方という一種の道化役があって、能の一要素となっているが、こちらは私に体験がないから説明を略する。ただ、前述の助演者の一団と、狂言方の一団とは、主演者の一団と相
監 督
能を見ると、前述の舞い手、謡い手、囃方のほかに、謡い手と同じ礼装をした人間が一人もしくは二人、舞台の後方に座っている。これは後見(コウケン)というもので、二人居る場合には、向って左側に居るのが舞台監督、右側に居るのがその補助者である。
監督はその能の一曲の初めから終るまでの舞台面に対して一切の責任を持っている。
譬えば出演中の主演者とか、その他の登場者とかに事故が出来て演主が不可能になった場合は、礼服のまま代って勤める。だから監督は通常の場合、主演者と同等以上の芸力がなければならぬ。第一流の人が主演者となった場合には、止むを得ずその主演者の最高の弟子が監督を引き受ける。又監督はその能の舞台面に於ける凡ての欠点を、謡、舞、囃子、装束、道具、その他何によらず出来るだけ眼に付かぬように正さねばならぬ。すなわちその能の最後の責任は常に監督の双肩に在るので、監督が
ここでチョット演出に関する出演者の責任関係を述べる。囃子のリズムをリードする責任者は普通太鼓で、太鼓が出ると、太鼓がリード役になる。そうして囃方は一団となって地謡い(合唱隊)や主演者、助演者の謡もしくは笛のリズムにくっ付いて行く。
合唱の責任者は中央(二列の場合は後方の中央……二列以上の場合はない)の一人で、合唱全部をリードしつつ、舞い手(主演、助演の各役)の舞いぶりや謡いぶりにリードされつつ調和し変化して行く。
舞い手は自分の仮面と装束とによって全局のリズムを支配しつつ、背後の監督に対して責任を負いつつ舞う。=註に
こう云って来ると、能の全局面で、観客に対して責任を負うている者は監督唯一人となる。しかもその演出が失敗した場合は全然監督の責任に帰するが、無事成功の場合は監督の手柄にはならない。唯楽屋に
尚、前に述べたような間違いのない場合には監督の責任は極めて単純である。只常に緊張した注意を全局に払って居ればよい。そうして舞い手が扮装する場合、又は笠とか杖とか、刀とか扇とかを棄てる場合は一定しているから、その場合に眼立たぬ態度で拾って来る。又は
いずれにしても能の舞台面で一番エライ人は、何と云っても監督で、その舞台面の現実的な守り神である。
能は常に以上の諸要素を以て、舞台面上に別
彫刻のたとえ
能楽は過去現在未来を貫いて、如何なる方面に進化して行きつつあるか……という事は以上述べて来たところに依って、あらかた察せられた事と思う。
すなわち、能楽の進化の中心を一直線にして云いあらわすと繁雑から単純へ……換言すれば外形的から内面的へ……客観から主観へ……写実から抽象へ……もう一つ突込んで云えば物質から精神へ……という事になる。
私は思う。すべての芸術の進化の方面は唯二つしかない……と……。
たとえば先ず、ここに一人の芸術家アルファがあらわれて、初めて彫刻という芸術を創始したとする。そうして一生の中にA、B、C、D、E……という風に色々の標題の彫刻を作って死ぬ。
そうするとその後を
然るに今一つの進化の仕方はこれと正反対で、進歩すると共に減って行くという行き方である。
すなわち、第一代の彫刻家Aが作った甲乙丙丁以下数百千の彫刻を第二代のBが鑑賞し批判しつつ、毎日毎日精魂を凝らして眺めているうちに、どうも気に入らぬ処が出来て来る。あそこを削ったら……又は、あそこを今少し高めたら……とか思うようになる。そんな処を甲乙丙丁の一つ一つに就いて、慎重に研究しては直し、直しては研究しつつ、一生を終る。そのあとを第三代のCが引き受けて、やはり同じ仕事を繰り返しつつ、その彫刻の価値を益々向上させて死ぬ。一方に、BもCも手を入れる気にならぬような、つまらないものは、そのままに残って、第四代のDに渡る。
こうして代を重ねて行くうちに、第一代のAが作った数千の彫刻の中で、芸術的価値の高いものは益々手を入れられてよくなるし、手を入れる張合いのないようなものは、いつまでも放ったらかされて、忘れられてしまう。遂には廃棄せられて、
これは「減って行く進化の形式」であるが、これと正反対の「殖えて行く進化の形式」を
こうした芸術進化の二方式の優劣論は暫くお預りとして、事実「能」は
ヘブライ文化が
能楽成立以前
能の曲の内容をよくよく
そのような慾求の中から生まれたものが能である事を信じたい。能は、こしらえたものでなく、出来たものである事を私は飽く迄も信じたい。
私は学者でないから、そのような事を如実に考証する力はないが、今日迄色々聞いた話や、又は能の各曲が「いつ頃、誰の手によって出来たものである」というハッキリした記録が無いらしい事実なぞを考え合わせると、どうもそんな気がしてならない。
能の作者は色々伝えられているようであるが、どれも
能の作者は、かくして結局、神秘的存在となって行くように思うのは私が無学だからであろうか。それとも思い
いずれにしても私は自分の無学と共に確信している。能は作ったものでない。自然と生れ出たものである。そうして事実上、生まれ出たものと同様の生命と進化力を持っている。進化の途中に在る色々な不完全さと、どこまで向上するかわからぬ溌溂さを持っている。
能は日本民族最高の表現慾が生んだものに相違ない。作者の有無に
曲の進化
最初に能の曲目が千番か二千番存在していたとすると、能役者の表現慾は、その中でもいいものを今一度
そこでこれを幾度も幾度も繰返し繰返し演出してみると、まだ足りない処や余計な処があるのが発見される。全体から見てはいいけれども焦点がハッキリしない……重点の置き処がズレている。……出来過ぎた処がある……ダレた処がある……ああでもない、こうでもいけない……と演出される
こうして洗練されて来るうちに、洗練し甲斐のない事が判明して来た曲目は一つ一つに棄てられて行く。すなわちどこか喰い足りないために見物が見たがらないし、役者の方も張り合いがないというわけで、次第に演ずる度合いが
これに反して、いいものはわるいものよりもはるかに度数をかけて洗練される結果、いよいよ立派なものになって行く。後世の人々の血も涙も無い観賞眼、又は演者の芸術的良心によって益々芸術的に光ったものとなされて行く。……全体の調和と変化が極く必要な部分だけ残されて、曲の緊張味とか、余裕とかいうものが、あくまでも適当に按配され、シックリさせられて行く。その装束の極めて小さな部分、舞の一手、謡の一句一節、鼓の手の一粒に到るまでも、古名人が代を重ねて洗練して来た芸術的良心の純真純美さが
かくして能の表現は次第次第に写実を脱却して象徴? へ……俗受けを棄てて純真へ……華麗から率直へ……客観から主観へ……最高の芸術的良心の表現へ……透徹した生命の躍動へと進化して行く。画で云えば、未来派、構成派、感覚派、印象派なぞいう式の表現のなやみは
だから目下の能は、芝居なぞに比較すると、その表現が遥かに単純率直である。元始のままの処が残っている。元始の状態へ逆戻りしつつある処さえあるらしい。しかしその表現の内容、陰影、余韻などいう芸術的の要素は新作新作と大衆に迎合して行く他の芸術と比較されぬくらい深く、鋭く、貴く、美しく純化され、一如化されて来ている。
一方にその舞、謡、囃子は、手法が簡単であるために、あまり天分のない素人にまでも習われ易くなっている。そうしてこれを習ってみると、初め異様に、不可解に感ぜられていた舞の手、謡の節、囃子の一クサリの中から、理屈なしに或る気持ちのいい芸術的の感銘を受けられる。そこに含まれている古人の芸術的良心……すなわちそんな単純さにまで洗練された人間性の純真純美さが天分に応じ、練習に応じて、次第次第に深く感得されるようになっている。すなわち能は非常に高踏的な芸術であると同時に、一方から見ると、極端に大衆的になっている。貴族的であると同時に平民的であり得るところまで、単純素朴化され、純真純美化されている。
この道理は小謡の一節、囃子の一クサリ、舞の一と手を習っても、直に不言不語の裡にうなずかれる。
尚、能の進化は家元制度を参考すると一層よく解る。
能とは何か(のうとはなにか)
作家录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语
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