私が九歳の時、お祖父様、お祖母様、母、妹等は筥崎から父に従って上京し、麻布の
父は京橋の本八丁堀に事務所を構え、ヨシ、ミノという二人の
或る時、お祖父様の前で、地球に手足の生えた漫画を表紙にした雑誌を拡げて
「この雑誌は丸々珍聞という悪い雑誌ですが、私の悪口が盛んに掲載されるのでこの頃は皆、茂丸珍聞と呼んでおります。私も大分有名になりましたよ」
そうした説明に続いて、伊藤、山県、三井、三菱などいう名が出ていたのを、私は何故という事なしにシッカリと記憶していた。
その
父が何でも独創でなければ承知しない性格と、後年の建築道楽の癖を、私はこの時から印象して、心から「お父さんはエライ」と思い込んでいた。
三度目に帰省した時に父は鼻の下の髭を剃った。そうしてお祖父様にコンナ事を話した。
「私は社会と共に堕落して行きます。まず第一段の堕落でアゴ髭を剃り、今度の第二段の堕落で鼻の下の髭を剃りました。この次には眉毛を剃って俳優に堕落し、第四の堕落ではクルクル坊主になるつもりですが、まあ、そこまで行かずとも世の中は救えましょう。アハハ」
泣き中気のお祖父様は、そんな父の言葉を聞く
職人町から
お祖父様のお葬式が済むと間もなく母は妹と、弟を連れて九州に下り、福岡
中学に通い初めると間もなく私は宗教、文学、音楽、美術の研究に
その十六歳の時、久し振りに帰省した父から将来の目的を問われて、
「私は文学で立ちたいと思います」
と答えた時の父の不愉快そうな顔を今でも忘れない。あんまりイヤな顔をして黙っていたので私はタマラなくなって、
「そんなら美術家になります」
と云ったら父がイヨイヨ不愉快な顔になって私の顔をジイッと見たのでこっちもイヨイヨたまらなくなってしまった。
「そんなら
と云ったら父の顔が忽ち解けて、見る見るニコニコと笑い出したので、私はホッとしたものであった。
「フン。農業なら賛成する。何故かというと貴様は現在、神経過敏の固まりみたようになっている。
といったような事を長々と訓戒してくれた。
私は父の熱誠に圧伏されながらも、生涯の楽しみを奪われた悲しさに涙をポトポトと落しながら聞いていた。
その訓戒が済んでから茶を一パイ飲むと父は私を連れて裏庭に出て自分で
多分、父は早速私に農業の実地教育をしたつもりであったろう。
十九の時に私は母親に無断で上京して、お祖母様と母親を何故九州に放置しておくか……という事に付いて、猛烈に父に喰ってかかった。すると最後まで黙って聞いていた父はニンガリと笑って云った。
「ウム。貴様の神経過敏はまだ
私は三拝九拝して又涙を流した。
「それには先ず中学を卒業して来い。現在の社会で成功するのに中学以上の学力は要らぬ。それから軍隊へ
中学を出て福岡の市役所に出頭し、徴兵検査を早く受けたいと願ったら、吏員から
明治四十一年兵として近衛歩兵第一聯隊に配属された私は、極度の過労と、慣れない空気のために見る見る弱り果てて、とうとう第一期の検閲直前に肺炎で入院した。その四十度の高熱の中に、その頃の最新流行の鼠色の舶来
「貴様が死なずに少尉になって帰って来たら、この帽子を遣る」
と父は云った。私は病床でその帽子を冠って、ちょうどいいかどうかを試みながら、是非なおって見せる……この帽子を冠らずには
「直樹(私の旧名)の奴は俺の子供だけにダイブ変っている。死にかかっていても、油断のならぬところがある」
とその直後に母に語った……と母から聞いた時、私は息苦しい程赤面させられた。
軍隊を出ると体力に自信が出来たので九州に下って地所を買い(現在の香椎村)果樹園を営んだ。その時にも私が思わず赤面するような事を他人に語ったそうである。
「
全く以てその通りであった。
その
「俺が今死んだら貴様はドウするか、他人の厄介にならずに葬式が出来るか」
この言葉は平生、父が口癖のように云っている「子孫のために美田を買わず」という言葉と明らかに矛盾していたが、私はドチラも父の真情である事を知っていたので、わざと冷笑していた。「俺のような人間になるな」という事もよく云ったものであるが、これも父の或る悲しい、淋しい心理の一角を露出した言葉と察して、
その
今年の七月十七日、香椎の球場で西部高専野球の予選を見ている
「チチノウイツケツスクコイ」
私は
途中小郡で東京に病状を問合わせ、糸崎で返電を受取った。
「ジウタイノママジゾクセリ」
私は直ぐに持久戦を覚悟した。中風で重態のまま三箇月も持続した例を知っていたから……。
それからグッスリと眠った。不思議なほど安眠した。そうして姫路で眼がさめた。それから先の一日の永かったこと。
東京駅に着いて父が意識不明の病状をハッキリ聞いた時に初めてガッカリした。そうして、そのままの心理状態を今日まで持続している。
翌朝、七月十九日の午前十時二十二分に三年町の自宅自室で父が七十二歳の息を引取った時、私は脱脂綿を巻いた
ところが、その綿を巻いた箸に手を出す人々の指が皆わなないて箸を取り得なかった。もちろん一人残らず顔を
私の
もちろん母や妹、看護婦なぞいう女共が泣くのは何ともなかったが、男の人達が一々唇をわななかし、
それから間もなく、父の友人で、永い間、私等の家族の世話をして下さった人々が協議された結果、私を別室に招いて次のような事を云われた。
「
そうした誠意に満ち満ちた言葉は、何もわからぬ程、色々の思い出に混乱していた私の頭を北極の氷のような冷静さに返らせた。そうして一切の覚悟をきめた私は即座にありがたくお受けをした。直ぐに母の前に走って行って頭を下げながら、私の専断の許しを請うと、母は涙に暮れながら、私の手をシッカリと握って云った。
「モウ、これからは何もかもアンタの思い通りにしなさい」
それから混雑の中を押し分け押し分け
間もなく郷里の福岡で玄洋社葬にしたいという電報が来たから、これも独断で拝承して
父は生前、死体の全部を大学に寄附する旨を大勢の人に云っていたので、母が情なさそうな顔をするのを押し切って、その通りに決行した。その前に父のデスマスクを斎藤という人が取って下すったが、そのデスマスクを取る直前の父の顔は実に満足そうな……生前に見たドノ顔よりも気高い、懐しい微笑を含んでいた。さてはこれが父のホントウの顔であったかナと思うと、又タマラなくなりそうになったので慌てて湯殿に行って顔を洗った。
葬式は増上寺で盛大に行われた。色々、大勢の人々がやって来て告別の焼香をして下すったが、その中に古びたカンカン帽、素足に駒下駄、浴衣がけにステッキ一本の書生さんが、アッサリと焼香し、叮嚀に
「アイツは愉快な奴だ。故人はアンナ調子の人間が一番好きだったからね。あの気軽く焼香に来てくれた心意気が嬉しいじゃないか」
「一層の事、告別式をどこかの野ッ原に持出して、野人葬とすればよかったかも知れないね。野辺送りという位だから……ハハハ」
「私は近所の爺さんから頼まれて杉山さんの霊前にこの和歌を捧げてくれという事ですから、この手紙を上げます。私は杉山という人がドンな人だか、よく知りませんが謹んでお悔みを申上げます」
といったような朗らかなのや、お悔みのつもりであろう、
「杉山先生が亡くなられても、君に忠義という事は決して忘れません」
と簡単に楷書して泣かせるのや、
「先生は私にとって実の親よりも有難い人でした。どうぞ今後も、お父さんに代って私を可愛がって下さい」
といった、いじらしい意味の長文や、
「新聞で見てビックリしました。
という奇特な方や、色々であったが、一番痛快でタタキ付けられたのは敬弔の文字を印刷したカードを二銭の開封にして来た一通であった。この人は日本国中を皆殺しにするつもりで、こんなカードをフンダンに印刷して用意しているのじゃないか知らんと思って茫然となった。
九州で玄洋社葬をして頂くために、東京駅を出発したのは八月二十八日であった。
駅頭まで見送りに来た頭山満先生が、父の遺骨を安置した車の前に立ちながら、見栄も何も構わずに涙をダクダクと流していられるのを見た時に、私は顔を上げ得なかった。
広田弘毅閣下も泣いておられたそうであるが、これは気付かなかった。
「頭山さんが頭山さんが」
と云って、今年六十七になる母親が、
父が生前に社会の父であったかドウか私は知らない。けれども生前の父をこれ程までに思って、葬式までして下すった世間の方々が、今からは疑いもなく私の父の死後の父になって下すった訳である。
あらゆる意味に於て
底本:「夢野久作全集11」ちくま文庫、筑摩書房
1992(平成4)年12月3日第1刷発行
入力:柴田卓治
校正:小林徹
2001年12月5日公開
2006年3月3日修正
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