こうした点を、よく注意して考えてみますと東作老人は、その事件当夜に麻酔をかけられていた者ではないかという疑いが可能になって来るようです。脳髄の機能をここで説明すると時間を取りますが、東作は相当の酒飲みなので、十分……十二分の麻酔をかけたつもりでも、半分ぐらいしか掛かっていない事が医学上あり得るのです。半醒半睡の時には、よく東作のようなハッキリした月や太陽を見たり、半自覚的な夢中
ですから犯人は多分ロスコー氏の留守を狙っていたものでしょう。この部屋に酔って寝ている東作を麻酔させておいて、軒下の
犬田博士の話の切目を待兼ねていた司法主任が、多少の興奮気味に
「……そうすると……先生のその臆測では……その犯人は麻酔剤を使用し、万能鍵を持っている奴ですから……相当の奴ですね」
犬田博士は軽く手を振って笑った。
「ハハハ。イヤ。まだ部屋の中を見ないのですから結論を附けるには早過ぎます。目下のところ、確定しているのは東作が犯人でないことと、犯人らしい奴が麻酔薬の使用に
司法主任はちょっと返事を躊躇して署長の顔を見た。署長は鷹揚にうなずいた。
「フウム。
「ちょっと待って下さい」
犬田博士は透かさず手を揚げて制した。
「もうすこし犯人に関する証跡が上るまで待って下さい。最後まで研究してみて、その犯人にピッタリ来るかどうかが問題なのですから……指紋は一つも無いでしょう……どこにも……」
署長が無言のまま眼を丸くして犬田博士の顔を見た。同時に司法主任がハッと強直した。そうして二人とも小供のように犬田博士の顔を凝視したまま
アトから聞いたところによると、この事件の終始を通じてこの時ぐらい署長と司法主任が度肝を抜かれた事はなかったという。もちろん犬田博士は、まだこの家の内部を一度も調べた事はなかったが、一番最初に署長の話を聞いた時から指紋が一つも残っていない事をアラカタ察していたので何気なくこう云ったものであったが、この時に署長と司法主任の警部の想像に浮かんでいた犯人の特徴の一つとして、手配されて来た書類の中に「如何なる場合にも指紋を残さず」という一項が特筆されていたので、その点不意討式にズバリと云い当た犬田博士の言葉に、二人とも殆んど神に近い敬意を感じたという。
続いて犬田博士は数人の専門家が鋭い眼を光らしている前で、犯人の侵入路と確認されている玄関の扉を調べたが、何も新しく得るところがなかったので、直ぐ横の寝室の扉の前まで来た。
「この扉には万能鍵を用いた形跡はありませんね」
予審判事と主任警部が同時にうなずいた。犬田博士もうなずいて微笑した。
「マリイ夫人はロスコー氏が持って出て行った玄関の鍵一つで安心して、この扉には鍵を掛けずに眠っていた訳ですね。マリイ夫人は、そうした点まで気が強かった……極端にいうと女らしくない程度にまで大胆不敵な男
今度は予審判事と特高課の二人が同時にうなずいた。予審判事は静かに云った。
「夫人の寝台の下に在った鍵束には、この扉に合う鍵が二つ在りました。しかしロスコー氏の遺骸のポケットから発見された鍵束には、この扉の鍵が無かったのです」
そうした説明を聞いているうちに犬田博士は、その寝室の扉をピッタリと閉めて、鍵穴から内部を覗いてみた。そうして自分の跪いた膝小僧の正面に当る扉の青ペンキ塗の表面に見当をつけて、指紋検出用のアルミニューム粉末をしきりに
「この犯人は、やはり日本人ですね。日本人でない限り膝小僧を露出する犯人は居ない筈ですからね。しかしかなり背の低い奴と見えて、しゃがんでこの鍵穴を覗く拍子に、
署長も太いため息をしいしい安心したように汗を拭いた。蒲生検事をかえりみて云った。
「これだからR市にも鑑識課を一つ置いてくれと僕がイツモ云っているんだよ」
一同がソレゾレに同感らしく
そのうちに犬田博士は寝室に這入った。屍体を除いた以外の情況は、その当時のままになっている寝台の上下左右を詳細に調べた後に、検事をかえりみて云った。
「その当時に使用した電燈のコードは、この寝台の下に転がっている豆スタンドのものでしたかね」
横合いから司法主任が引取って答えた。
「そうです。ここに持って来ております」
と云う
「そのコードの犯人が手で握った処の折れ曲りなぞもその時の通りですか」
「そうです。その点を特に注意して保存しておきましたが……」
犬田博士の顔に云い知れぬ満足の色が浮んだ。
「それはどうも結構でした。
と云う中に犬田博士は鄭重な手附でコードを受取ったが直ぐ司法主任を振返った。
「これは一巻き巻かっていたのですか」
「イヤ
「いかにも……成る程。してみると犯人はマリイ夫人が眠っている間にソッと二巻き捲いておいて、突然、絞殺に掛った訳ですね」
「そうです……ですから計画的な殺人と認めているのですが……」
犬田博士は調査を終った寝台の端に片足をかけて、足首の上の細い処へ、そのコードを二巻、捲付けた。犯人の力で折曲った処を、その通り掴んだままギューギューと絞めてみた。そうしてコードにコビリ付いている血痕の三個所の中心が、完全に重なり合う処まで来ると、緊張した表情のまま検事をかえりみた。
「……この犯人は、やはり小男ですね。このコードの折曲りを起点とした力の入れ工合を見ると、肩幅が普通人よりも狭いようです。東作老人もロスコー氏も肩幅が並外れて広いのですからね。ほかの西洋人は勿論のこと、日本人でもコンナに狭いのは先ず珍らしいでしょう」
「どうして麻酔剤を使わなかったでしょうか」
と蒲生検事が質問した。犬田博士は苦笑しいしい顔を掻いた。
「さあ。その点は私にもわかりませんがね。恐らくこの事件の中では一番デリケートなところでしょう」
それから犬田博士は寝台の上にかけて在った羽根布団をめくってシーツの表面に残る隈なく拡大鏡を当てがってみた後に、署長と、検事、判事、司法主任を招き寄せた。ズボンのポケットから洋服屋が使うチャコを
「御覧なさい。ここがマリイ夫人の頸部に当る処です。口から
そうだったでしょう。
ところでこのマリイ夫人の臀部の向って右側のここに極めて淡い黄色の斑点があらわれております。これは事件直後には誰にも気附かれていなかったものが、この数日の
と説明しながら犬田博士はポケットから小さな巻尺を取出して、薄黄色と、薄黒の二つの斑紋間の距離を測定して手牒に記入した。
山口老署長は喜びに堪えないかのように額を輝やかしながら傍の司法主任の警部をかえりみた。
「ヤッパリ
「そうです。間違いありません」
と警部も満足らしくうなずいた。
「指紋を一つも残しておりませぬので万一、
「ウムウム。しかし
「そうです。そのお蔭で捜査方針が全く立たなかったのです。イヤ、助かりましたよ」
「君等の方で東作老人を拘留してくれたんで、これだけの
と蒲生検事が慰めた。真赤になった山口老署長が帽子を脱いで汗を拭いた。
「この膝小僧の褶紋を本人のと合せて御覧になったらイヨイヨのところがわかりましょう。指紋と同じ価値があるのですから」
司法主任の警部は検事、判事、署長と何事かヒソヒソと打合わせている
しかし犬田博士の活躍はまだ終りを告げなかった。
それから犬田博士は二人の特高課員と協力してロスコー家の内外を隈なく捜索した。その結果、浴室の天井裏のタイルの裡面から重要な機密書類を、夥しく発見したそうであるが、その内容は窺い知る由もない。ただその後の調査によって、その時までロスコー家に掛けられていた国際スパイの嫌疑に関する主犯者は他ならぬマリイ夫人に相違ない事が確認されたという。すなわちマリイ夫人はその美貌と、刺青とを利用する親譲りの国際スパイであった。その背部に施してある刺青の中で、普通よりも
尚、犬田博士はこの時に、自分の研究の参考資料として、ロスコー家の刺青研究に関する書類を、事件に直接関係のない部分だけ貰い受けたいと申出たが、それは犯人の就縛後、一年半以上経過してから許可された。そうして惜しい事に、この間のR大学、法医学部の怪火事件の時に焼失してしまった事を併せて附記しておく。
犯人はやはり犬田博士の推測通りの、五尺一寸足らずの小男であった。S岬事件の起る二週間前に、相当遠距離に在る刑務所を出ると間もなく、各地を荒しまわったために、R市方面へも手配されていたマヤクの
その時の自白によると音吉は、R市の某
それから目的の書斎に忍び込むべく、寝室を通過する時に、天井からブラ下った仄暗い一
「そこまで御調べが届いていちゃ
何も
しかし私が、あの爺さんに麻酔をかけた事が、どうしてお解りになったのか、どうも不思議で御座います。この麻酔の一件さえわからなければ、滅多に私と星を刺される気づかいはないと思って、出来るだけの用心をしていたつもりで御座いましたが……散らかるといけませんから脱脂綿の代りに、あの爺さんの古手拭を使いましたし、爺さんの寝姿は酔払って寝ているとしか思えませんでしたし、薬瓶は二つとも途中の海の上で棄ててしまいましたし、アトから本人が思い出す気づかいは尚更ありませぬ筈なのに、まるで現場で見ておいでになったようなお話で……」
と眼をパチクリさせていたという。但、音吉がソレ程に巧妙な麻酔薬の使用法をどこで修得したか。如何なる手段で薬品を手に入れていたか……という事実は、遺憾ながら
東作老人はまだ生きている。どこか単純な、愚鈍な性格を持っているらしく、九十幾歳の高齢でありながら、娘夫婦が
底本:「夢野久作全集10」ちくま文庫、筑摩書房
1992(平成4)年10月22日第1刷発行
入力:柴田卓治
校正:ちはる
2001年1月31日公開
2006年2月21日修正
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