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只圓翁の「山姥」と「景清」が絶品であった事は今でも故老の
「
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扇でも張扇でも殆んど力を入れないで持っていたらしく、よく取落した。
その癖弟子がそんな事をすると非道く叱った。弟子連中は
夏なぞは弟子に型を演って見せる時素足のままであったが、それでも弟子連中よりもズットスラスラと動いた。足拍子でも徹底した音がした。
平生は悪い方の左足を
型の方は上述の通り誠に印象が薄いが、これに反して謡の方はハッキリと記憶に残っている。謡本を前にして眼を閉じると、翁のその曲の
何よりも先に翁の謡は舞いぶりとソックリの直線的な大きな声であった。むろん
梅津朔造氏の調子は
山本毎氏のは咽喉を開放した、九州地方一流の発音のハッキリし過ぎた、間拍子のキチンとしたもので、いつも地頭を承っていた。
桐山孫次郎氏のは底張りの柔かな含み声であった。一番穏当な謡と翁門下で云われていた。
又斎田氏のは凝った、響の強いイキミ声で、謡っている顔付きが能面のように恐ろしかった。
梅津利彦氏のは声が全く潰れた張りばっかりの一本調子で、どうかすると翁の声と聞き誤られた。
いずれも翁の謡振りの或る一部分を伝えたものであったらしいが、それ等の謡い盛りの一同の地謡の中に高齢の只圓翁が一人座り込むと、ほかの声は何の苦もなく翁の楽々とした調子の中に消え込んで行った。
吉本董三氏か大野仁平氏であったと思う。
「先生の傍に座ると、イクラ気張っても紡績会社の横で木綿車を引いているような気持ちになる」
と云って皆を笑わせていたが、全く子供ながらも、そんな感じを受けた。ツクヅク翁の紡績会社振りに驚嘆させられていた。
喜多六平太氏は右に就いて筆者に
「ナアニ。声量の問題じゃない。只圓の張りが素晴らしく立派だったからですよ。全く鍛練の結果ああなったのですね。ですから只圓が死ぬと、皆が皆彼の張りの真似をして、間拍子も何も構わないで、ただ死物狂いに張上げるのです。これが只圓先生の遺風だ。ほんとうの喜多流だってんで、二人集まると怒鳴りくらが初まる。お能の時など吾も吾もと張上げて、地頭の謡を我流でマゼ返すので百姓一揆みたいな地謡になっちまう。その無鉄砲な
又、梅津利彦氏(現牟田口利彦氏)は翁の型についてこう語った。
「二十歳ぐらいまではただ鍛われるばっかりで、何が何やら
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牟田口利彦氏の話によると、翁は平生極めて気の弱い、涙もろい性分で、家庭百般の事について角立った口の利き方なんか滅多にしなかったが、それでも能の二三月前になると何となく眼の光りが冴えて来て、口の利き方が厳重になった。大抵の事は大まかに見逃していたものが、能前の昂奮期に入ると、「それはいかん」と云う口の下から自身で立上って始末したという。
こうして月並能であれ祭事能であれ、催能が近付いて来ると翁の態度が、何となく目に立って昂奮して来るのであった。能の当日になると、夏ならば生
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稽古を離れると翁は実になつかしい好々爺であった。地獄の鬼から急に極楽の仏様に変化するのが子供心に不思議で仕様がなかった。たとえば八十八賀の時、能のアトで、
「元気は元気じゃが、倅の方が先にお浄土参りしてしもうた。クニャクニャになって詰まらん」
と云って門弟連中を絶倒させた。それから赤い頭巾に赤い
「乳の呑みたい。乳のもう乳のもう」
と七十歳近い老夫人に戯れたりした。
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「さあ飴を食うぞ」
と翁が云うと老夫人が、大きな茶碗に水を入れたのを翁の前に捧げる。翁はそれに上下の
「フムフム。
と云って翁自身も笑った。
しかしその飴を分けてくれた事は一度もなかった。喰い余りを
「モグモグ。さあ謡いなさい」
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夕方になると翁は一合入の透明な
翁の嗜好は昔から淡白で、油濃いものが嫌いと老夫人がよく他人に吹聴して居られた。
筆者も稽古が遅くなった時、二三度夕食のお相伴をしたことがあるが、遠慮のないところ無類の肉類好きの祖父の影響を受けた
そのうちに翁は真赤になった顔を巨大な皺だらけの平手で撫でまわして、「モウ飯」と云った。燗瓶には必ず盃一杯分ばかり残していた。
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翁から直筆の短冊を貰った人は随分多いであろうと思う。筆者も七八枚持っていたが、人々に所望されて現在巻頭の二枚しか残っていない。[#巻頭に梅津只圓翁の写真と合わせて3枚の写真あり]
筆跡は巻頭に掲ぐる通り、二川様に、お家様、定家様、唐様等を加味したらしい雅順なものである。舞台上の翁の雄渾豪壮な風格はミジンも認められないが、恐らく翁の本性をあらわしたものであろう。歌意は歌詞と共に、能楽の気品情操を一歩も出でない古風なもので月並と云えば、それまでであるが、翁はそれを短冊に自筆して人に与えるのがなかなかの楽みであったらしい。気が向くと弟子の帰りを待たしておいて悠々と墨を磨りながら一二枚宛書いて与えた。
福岡の人林大寿氏は奇特の人で、只圓翁の自筆の短冊数十葉を蒐集し、同翁の門下生に分与しようとされたものが現在故あって一纏めにして古賀得四郎氏の手許に預けられている。古賀氏の尽力で、表装されて只圓翁肉筆の歌集として世に残る筈である。翁の歌風を知るには誠に便宜と思うからその和歌を左に掲げておく。
夕附日荻のはこしにかたむきて
ふく風さむしのべのかよひ路
帰雁
桜さくおぼろ月夜にかりがねの
かへるとこよやいかにのとけき
河暮春 (八十八歳時代)
ちる花もはるもながれてゆく河に
なにをかへるのひとりなくらん
河暮春
大井河花のわかれをしとふまに
はるは流れて暮にけるかな
雉
春雨のふりてはれぬるやま畑の
すゝしろかくれ雉子なくなり
寒松風
枯はてしこすへはしらぬ夜あらしを
あつめてさむき松の声かな
船中月
心なきあま人さへもをのつから
あはれと見えん船のうへの月
夏草
秋になく虫の音きかんたよりにと
はらひのこしゝ庭の夏草
葵
神祭るけふのみあれのあふひ草
とる袖にこそ露はかけゝれ
夕春雨
椿ちる音もしすけき夕くれの
こけちの庭に春雨のふる
葵
加茂山にをふる二葉のあふひ草
とりかさしつゝ神まつるなり
夏草
はたちかふ牛のすかたも見えぬまで
しけりあひたる野への夏草
夕春雨
春雨のふるともわかで夕ぐれの
のきのしのふにつとふ玉水
庭菊
折とりてかさゝぬ袖もさく菊の
はなの香うつす庭の秋風
群雁
いくつらの落きてこゝにあそふらん
堅田のうちにむるゝかりかね
庭菊
くる人もなき菊そのゝ花さけば
はゝき手にとる庭の面かな
蚊遣火
蚊遣火はとまやのうちにたき捨て
しほのひかたにすむ海人の子
新年山
こそのはる花みし峰に年たちて
かすみもにほふよしのゝ山
群雁
治れる御代のしるしと大君の
みいけの雁の数もしられず
船中月
棹さしてうたふ声さへすみにけり
つきになるとの浦の舟人
更衣 (八十九歳時代)
人並にぬきかへぬれと老の身の
またはたさむき夏衣かな
夜蛙
せとちかき苗代小田にかけやとす
月のうへにもなく蛙かな
埋火
桜炭さしそへにけりをもふとち
はなのまとひに春こゝちして
池鴛鴦 (九十二歳時代)
山かけの池の水さえ浅かれと
ことしも来鳴をしの声かな
寒雁啼
露霜のふかき汀の蘆のはに
こゑもしをれて雁そ啼なる
春木 (九十三歳時代)
しはしこそ梅をくれけれ春来ても
いつかさくらと人にまたれつ
夏獣
重荷おひてゆきゝ隙なき牛車
なつのあつさに舌もこかれつ
友獣
をく山の青葉をつたふ木のは猿
つはさなき身も枝うつりして
名所恋 (九十四歳時代)
しのひねの泪の波のかゝるか那
つかしき妙の袖のみなとに
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茶の湯とか俳諧とかいう趣味は翁にはなかったように思う。ところが最近知人武田信次郎氏から、高川邦子女史の茶室で
又翁が博多北船の梅津朔造氏宅に出向いた際、折節山笠の稚児流れの太鼓を大勢の子供が寄ってたたいているのを、翁が立寄って指の先で
書画骨董の趣味も鑑識は在ったに相違ないが、生活が質素なせいか格別、玩弄した事実を見聞しなかった。勝負事なんか無論であった。
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一面に翁はナカナカ器用だったという話もある。翁の門下で木原杢之丞という人が福岡市内荒戸町に住んでいた。余程古い門下であったらしく、翁が舞った「安宅」のお能を見たそうで、「方々は何故に」と富樫に立ちかかって行く翁の顔がトテモ恐ろしかった……とよく人に話していたという。
その木原氏の処へ翁が或る時屏風の張り方を習いに来た。平面の処や角々は翁自身の工夫でどうにか出来たが、
その時に翁は盃二三杯這入る小さな
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明治二十八年頃知人(門下?)に大山忠平という人が居た。なかなかの親孝行な人で、老母が病臥しているのを慰めるため真宗の『二世安楽和讃』を読んで聞かせる事が毎度であった。
老母は大の真宗信者で且、只圓翁崇拝家であったが、或る時忠平氏に、
「お前の読み方では退屈する。只圓先生に
と云った。忠平氏は難しい註文とは思ったが、ともかくも翁にこの事を願い出ると、元来涙
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翁の愛婿、前記野中到氏が富士山頂に日本最初の測候所を立てて越冬した明治二十六年の事、翁は半紙十帖ばかりに自筆の謡曲を書いて与えた。「富士山の絶頂で退屈した時に謡いなさい」というので暗に氏の壮挙を援けたい意味であったろう。その曲目は左の通りであった。
柏崎、三井寺、桜川、
野中氏は感激して岳父の希望通りこの一冊を友としつつ富士山頂に一冬を籠居したが、その時に「景清」の「松門謡」に擬した次のような
「氷雪堅く閉じて。光陰を送り。天上音信を得ざれば。世の風声を骨
この戯謡の文句を見ると野中到氏は両親の諫止をも聴かず、富士山頂測候所設立の壮挙を企てたものらしい。そうして只圓翁の
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翁は家のまわりをよく掃除した。畑を作って野菜を仕立てた。
畑は舞台の橋がかり裏の茶の畝と梅と柿とハタン
毛虫と蛙はさほどでもなかったが、蛇を見付けると、
「おおおお。喰付くぞ喰付くぞ。打ち殺せ打ち殺せ」
と指をさして逃げまわった。
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翁の家の門は
或る日の事、その門の敷居を跨ぐと、翁が南天の根の草をっていたので、
「先生。きょうは朔造(梅津)さんは病気で稽古を休みますと
と云ったら、翁は「ウフウフ」と微苦笑して、
「今の若い者は弱いけに詰まらん」
と云った。その時の朔造氏は六十近かったと思う。
この話を帰ってから中風にかかっていた祖父灌園に話したら、泣き中風の祖父は叶わぬ口で、
「先生はイツモ御元気じゃのう。ありがたい事じゃ」
と云ってメソメソ泣き出した。
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翁はよく網打ちに行った。それも
その
その頃の那珂川の水は透明清冽で博多織糸の
ハラジロは形が小さいので、獲ったアト始末が面倒なために普通の
霜の真白い浅瀬に足を
「ああ。まだ只圓先生はお元気そうな」
と云い云い
翁は網打ちに行くといつもまだ日足の高いうちに自宅に帰って、獲れた魚の料理にかかる。
大きいのは三寸位の本物の沙魚やドンク(ダボハゼの方言)の二三十位から、一寸にも足らぬハラジロの無数を、一々切出小刀で腹を割いて一列に竹串に刺し、行燈型の枠を取付けた白角い七輪のトロ火で
また俎板に残った臓腑は白子、真子を一々串の
翁自身は勿論、老夫人や女中も総がかりでこの仕末をする。筆者も翁の姪に当る荒巻トシ子嬢と二人で手伝った事があったが、ナカナカ面倒なのでじきに飽きてしまった。
いよいよ獲物が片付く頃は日が暮てしまって、日に焼けた翁の顔が五分芯のラムプに赤々と光る。
そこで例の一合足らずの硝子燗瓶が傾いて翁の顔がイヨイヨ海老色に染まる。ニコニコと限りなく嬉しそうにしている翁の前に筆者は頭を下げてお
「おお。御苦労じゃった。又来なさい」
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只圓翁は重い曲を容易に弟子に教えなかったばかりでなく、謡の中の秘伝、口伝はもとより、稽古の時に叱って直した理由なぞは滅多に説明しなかったらしい。後で質問しても、
「インマわかる。稽古が足らん稽古が足らん」
とか何とか追払われたものらしい。高足の人達が、
「私も老年になりましたから一つ何々のお稽古を……」
とか何とか云って甘たれかかっても、
「稽古に
なぞと手厳しく
「ここのところはどういう心持ちで……」
なぞと大切な事を尋ねても、
「尋ねて解るものなら教える。尋ねずとも解る位にならねば教えてもわからぬ」
と面皮を
「心持ちなぞはない。教えた通りに
なぞと叱っているのを見受けた。