ところが舞台に入ってみると、「
血気盛んな利彦氏が渾身の気合いをかけて前進し、非常な勢いで身をかわして踏み止まろうとするが、止まれない。腰が浮き上ってノメリそうになる。そこを全力を上げて踏み止まると、鏡代用の赤いお盆を持つ左手の気が抜けている。
翁は「ホラホラッ。それで鏡に見えるかッ」とか、「鬼ぞ鬼ぞ。地獄の鬼ぞ。鬼神ぞ鬼神ぞ。ヒョロヒョロ腰の人間ではないぞないぞ」と皮肉を怒号しながら滅多無性に張扇をタタキまくる。
利彦氏の顔は見る見る汗と涙にまみれて、肩は大浪を打ち、息は嵐のように
そのうちに利彦氏の腰付が心気の疲労のためいよいよ危くなって来ると、とうとう翁が
その
「この通り……ようと(充分の意)稽古しておきなさい」
と
「さあ。今度はアンタじゃ。『敦盛』じゃったのう」
「ハイ」
と答えたまま筆者は後見座に釘付になって立上れなかった事を記憶している。あんまり固くなって足がシビレていたのだ。
◇
翁の皮肉も
その中の某氏(名前は預かる)が謡の文句をつないでいなかったらしく、小さな声で地頭の謡にくっ付いて行った。
それを聞き
「誰かいな。誰か一人小さい声で謡い居るが、聞き苦しゅうてたまらん。誰かいな」
とギョロギョロ見まわした。ナアニ……翁はその小さい声の主をちゃんと知っていたのであるが、特に
そうして幾度も幾度も根気強く「誰かいな誰かいな」を繰返して、トウトウ「私で御座います」と白状させた。
「怪しからん。充分謡が出来もせぬ癖に大切なお能の舞台に出ようとするけに、
とうとうその場で某氏は
そのお能の当日の地謡の真剣さというものは恐ろしい位の出来であったという。(故林直規氏談)
◇
或る時、やはり五六人の門下が並んで同吟していた。相当出来た人ばかりであったが、その中の一人が正座した
「コラコラ。お前は足の先で拍子をとり居ろうが」
その人は
「拍子謡はならぬと云うのに何故コソコソと拍子を取んなさるか。
◇
度々筆者自身の事を書くので如何にも名聞がましくて気が差すが平にお許しを願いたい。
筆者の祖父は旧名三郎平、黒田藩の応接方で後、灌園と号し漢学を教えて生活していた。私は生れると間もなくからその祖父母の手一つで極度に甘やかして育てられたものであった。
祖父は旧藩時代から翁のお相手のワキ役を仰付られ、春藤流(今は絶えた)脇方の伝書聞書を持っていた。
そのせいか祖父灌園は非常というよりも、むしろ狂に近い只圓翁の崇拝者であった。筆者の父や叔父、親類連中は勿論のこと、同郷出身の相当の名士や豪傑が来ても頭ごなしに遣り付ける、漢学者一流の頑固な見識屋であったにも拘らず、翁の前に出ると、筆者が五遍ぐらいお辞儀をする間、額を畳にスリ付けてクドクドと何か挨拶をしていた。まるで何か御祈祷をしているようであった。
翁から何か云われると、犬ならば尻尾を振切るくらい嬉しそうに、
「ハイ。ハイ。ハイハイハイハイ……」
と云ってウロタエまわった。
その祖父灌園は方々の田舎で漢学を教えてまわった
「武士の子たる者が乱舞を習わぬというのは一生の恥じゃ」
といった論法で、面喰っている筆者の手を引いて中庄の翁の処を訪うて、翁の
まだ十歳未満の筆者が、座ったまま翁と応待していると、祖父が背後からイキナリ筆者の頸筋を掴まえて鼻の頭と額をギュウと畳にコスリ付けた事があった。礼儀が足りないという意味であったらしい。
◇
筆者の祖父は馬鹿正直者で、見栄坊で、負けん気で、誰にも頭を下げなかったが、しかし只圓翁にだけはそれこそ
神事能や翁の門下の月並能の番組が決定すると、祖父の灌園は総髪に
祖父はこうして翁門下の家々をまわって番組を触れまわる。舞台の世話、装束のまわりまで「その分心得候え」を繰返して奔走しては、出会う人毎に自分が行かないと能が出来ないような事を云っていたらしい。二三十銭の会費を出し渋ったり、役不足を云ったり、稽古を厭がったりする者があると、帰って来てからプンプン
◇
その頃博多に梅津朔造氏等の先輩で××という人が居たが、非常に器用な人で師伝を受けずに自分の工夫で舞って素人の喝采を博していた。その人が翁の稽古を
「彼奴は流儀の御恩を知らぬ奴じゃ。お能で飯を喰うて行きよるけに老先生も大目に見て御座るが、今に見よれ。罰というものはあのような奴に当るものじゃ」
と口を極めて悪態を
◇
筆者の祖父は装束扱いがお得意で、楽屋の取まわしが好きだったらしい。舞台から引込んで来ると、自分の装束を脱がないまま他人の装束を着けている姿をよく見かけた。
月並能の後、一人頭二三十銭宛切り立てて舞台で御馳走を喰うのが習慣になっていたが、御馳走といっても、
そのまま筆者の手を引いて帰る事もあった。
「老先生に対して済まぬという考えがない。あいつは
という事をアトでよく云ったが、何の事やら誰の事やらむろんわからなかった。とにかく祖父は何もかも只圓翁を中心にして考えていたらしい。
◇
そんな訳で筆者は九歳から十七歳まで十年足らずの間翁のお稽古を受けた。
翁も亦そんな因縁からであったろう。筆者を引立てて可愛がってくれて、僅かの間にシテ、ツレ、ワキ役を通じて
「お能の稽古をせねば逐い出す」
と云われるのが怖ろしさに、遊びたい一パイの放課後を不承不承に翁の処へ通っていたものであった。実に相済まぬ面目ない話であるが、実際だったから仕方がない。
翁もこの点では気付いていたと見えて、筆者が翁の門口を這入ると、
「おお。よう来なさったよう来なさった」
と云って喜んでくれた。別に褒美を呉れるという事もなかったが、ほかの子供達とは違った慈愛の籠った叮嚀な口調で、
「あんたは『俊成忠度』じゃったのう。よしよし。おぼえておんなさるかの……」
といった調子で筆者の先に立って舞台に出る。
「イヨー。ホオーホオー。イヨオー」
と
「そらそら。左手左手。左手がブラブラじゃ。ちゃんと前へ出いて。肱を張って。そうそう。イヨオー。ホオーホオー。ホオ。ホオウ」
「前途程遠し。思いを雁山の夕の雲に馳す」
「そうそう。まっと長う引いて……イヨー。ホオホオ」
「いかに俊成の卿……」
「ソラソラ。ワキは
といった塩梅で双方とも知らず知らず喧嘩腰になって来るから妙であった。
◇
翁は筆者のような鼻垂小僧でも何でも、真正面から喧嘩腰になって稽古を附けるのが特徴であった。
張扇をバタバタと叩いて「ソラソラ」と云う時は軽い時で、笛の
◇
翁は甚だしく
「ホラホラホラホラッ」
と怒鳴って立上りがけに上の
◇
幾度も同じ舞いの順序を間違えると翁はやはり立上って来て、筆者の襟首を捉まえて舞台を引きずりまわしながら、
「ソラソラ。廻り返し、仕かけ開き……今度が左右じゃ」
といった風に一々号令して教え込んだ。翁に亀の子のように吊り提げられながら、その通りに手足を動かして行く筆者の姿は随分珍な図であったろうと思う。翁はその
「……片端から忘れるなあ、アンタは……ここには何の這入っておるとな」
と皮肉った事もあった。
遺憾ながらその頃の筆者は頭の中に脳味噌が詰まっている事を知らなかったが、翁は知っていたと見える。
◇
一番情なかったのは「
筆者が十二歳になった春と思う。
当日まで一箇月ばかりは毎日のように中庄の翁の舞台へ逐い遣られたものであった。途中で溝の中の蛙をイジメたり、白
ところが
「ソラソラッ」
と張扇が鳴り響いて謡は又も、
「そオれ漢王三尺の……」
と逆戻りする。今度は念入りに退屈な
「ソラソラッ」
と来る。「そオれ漢王三尺の」と文句が逆戻りする。筆者の頬に
何故この時に限って翁がコンナに残忍な拷問を筆者に試みたか筆者には今以てわからないが、何にしてもあんまり
◇
とにかくそんなに酷い目にあわされていながら、翁を恨む気には毛頭なれなかったから不思議であった。ただ縛られているのと同様の不自由な
だから或時筆者は稽古が済んでから藪の中へ走り込んで、思う存分タタキ散らしていたら翁が見てホホホと笑った。
「蚊という奴は憎い奴じゃのう。人間の血を吸いよるけに……」
◇
そんな目に毎日毎日、会わせられるので筆者は、
「もう今日限り稽古には来ぬ」
と思い込んで走って家に帰っても、又あくる日になると祖父母に叱られ叱られ稽古に行った。そんな次第で、やっと「小鍛冶」の上羽の謡になると型の動きが初まるので、蚊責めの難から逃れてホッとした。
それから下曲が済んで中入前の引込みの難しかったこと。
「……静かに……静かにッ……」
という翁の怒鳴り声が暗い舞台の中に雷のように反響して私を縮み上らした。又もワンワンと寄って来る蚊の群を怖れ怖れシテ柱をまわる時の息苦しかったこと。
◇
それからやっと「小鍛冶」の後シテになって、翁と二人で台を正面へ抱え出す。その上に翁が張盤を据えて、翁は自分の膝で早笛をあしらい初める。それがトテも猛烈なものでよく膝が痛まないものだと思ううちにシテの出になる。
その時の運びの
その序に翁は台の上からビックリする程高く宙に飛んで、板張りの上に片膝をストンと突いて見せたが、これは筆者も真似て大いに成功したらしい。
「よしよし」
と賞められた。註をしておくが翁は滅多に芸を賞めた事がない。「まあソレ位でよかろう」とか、「それでは外のものを稽古しよう」と云われたら一生一パイの上出来と思っていなければならないので、「よしよし」と云われた人は余りいない筈である。
さて光雲神社神事能当日の私の「小鍛冶」の成績はどうであったか。翁は黙っていたのでわからなかった。ただ祖父母は勿論、知りもしない人から色々な喰物を沢山に貰った。饅頭、煎餅、
もっとも二番目の「七騎落」の遠平になった半ちゃん(故白木半次郎君)も大抵同じ位貰っていたからあんまり自慢にはならないが。
◇
「うむ。あれは灌園(祖父)が教えるけに、ああなるのじゃ」
と不興げに答えたという。(宇佐元緒氏談)
◇
誰であったか名前は忘れたが、「松風」の能のお稽古が願いたいと申出た事があった。翁は知らん顔をして、
「おお。稽古してやらん事もないが。先ず謡を謡うてみなさい」
という訳で初同を謡わせられた。本人ここぞと神妙に謡ったが翁は聞き終ると、
「それ見なさい。謡さえマンゾクに謡いきらんで舞おうなぞとは以ての外……」
とキメ付けられたので、本人はどこが悪いのかわからないまま一縮みになって引退った。(柴藤精蔵氏談)
◇
梅津朔造氏の歿後は斎田惟成氏が門下を牛耳っていたが、或る時門弟を代表して翁の前に出て、
「皆今度のお能に『松風』を出して頂きたいと申しておりますが……」
と恐る恐る伺いを立てたところ、翁は言下に頭を振った。
「まあだ『松風』はいかん。『
◇
当時四国で一番と呼ばれた喜多流の謡曲家池内信嘉氏が或る時、わざわざ只圓翁を尋ねて来て、何かしら一曲聞いてもらった。聞いたアトで翁はただ、
「結構なお謡い――御器用なことで――」
とか何とか云ったきり何も云わない。それでも是非遠慮のないところを……と
「貴方のお謡いはアンマリ拍子に合い過ぎる。それでは謡いとは云われぬ。謡いは言葉の心持ちを謡うもので拍子を謡うものでない。拍子がちゃんとわかっておって、それを通り越した自由自在な謡でなければ能の役には立たぬ」(林直規氏談)
◇
翁は単に稽古のみならず、楽屋内の礼儀にまでも到れり尽せりの厳重さを
「慰みに遣るのなら、ほかの芸を神様に献上しなさい。神様に上ぐる芸は能よりほかにない道理がわからんか。下司下郎のお能は下司下郎だけで芝居小舎ででも
◇
次のような例もある。
筆者が十二三歳の折、中庄の翁の舞台で先代松本健三翁の追善能が催された。
筆者はその時、「小袖曾我」のシテを承っていたが、筆者の装束を着けていた高弟の某氏(秘名)が筆者の小さなチンポコを指の先でチョイと弾じいた。筆者は直ぐに両手でそこを押えて、「痛い痛い」と金切声を揚げたので近まりに居た高弟諸氏がドッと笑い崩れた。
隣の居間から見ていた翁の顔色が見る見る変った。某氏を呼付けて非常な見幕で叱責した。
「楽屋を何と心得ているか。子供とはいえシテはシテである。シテは舞台の神様で能の
といったような文句であったと思う。
某氏は平あやまりに詫まった。ほかの一緒に笑った人々も代る代る翁に
「ただ今は存じがけもない御無礼を仕りまして……今後、決して致しませぬけに、何卒御勘弁を……」
筆者は弱った。どうしていいかわからないまま固くなって翁の顔を見た。翁はまだ眉を逆立てたまま向うから睨み付けていた。
◇
こんな風だったから翁が恐れられていた事は非常なものであった。実に秋霜烈日の如き威光であった。
能の進行中、すこし気に入らぬ事があると楽屋に端座している翁は眼を据えて、唇を一文字に閉じた怖い顔になりながらムクムクと立上って、鏡の間に来る。幕の間から顔を出して舞台を睨むと、不思議なもので誰が気付くともなく舞台が見る見る緊張して来る。
翁が物見窓から舞台を覗いている時は、機嫌のいい時である事がその顔色で推量されたが、それでも何となく舞台が引緊まって来た。囃子方の声や拍子が真剣になり、地謡に張りが附き、シテが固くなってヒョロヒョロしたから妙であった。実に霊験アラタカといおうか現金と形容しようか。子供心にも馬鹿馬鹿しい位であった。
出演者自身の述懐によると……翁が覗いて御座るナ……と思ったトタンに囃子方は手を忘れ、地謡は文句を飛ばし、シテは膝頭がふるえ出したという。自分の未熟を翁に塗り付ける云い草であったかも知れないが……。
◇
能管の金内吉平氏は翁の生存当時の能管の中でも一番の年少者で、体格も弱少であったが、或る時、「敦盛」の男舞を吹いている最中に翁が覗いているのに気が付いたので固くなったらしく、笛がパッタリ鳴らなくなった。それでも翁が恐ろしさに、なおも一生懸命に位を取りながら吹くとイヨイヨ調子が消え消えとなる。そこで死物狂いになってスースーフウフウと音無しの笛を吹き立てたが、とうとう鳴らないまま一曲を終えて、どんなに叱られるかと思い思い楽屋へ這入ると、翁は非常な御機嫌であった。
「結構結構。きょうの意気と位取りはよかったよかった」
と賞められた時の嬉しかったこと……初めて能管としての自信が出来たという。(金内吉平氏談)
◇
前述のような数々の逸話は、翁一流の
翁は意気組さえよければ型の出来栄えは第二第三と考えていたらしい実例がイクラでも在る。
現在の型では肩が
只圓翁門下の高足、斎田惟成氏なんかの仕舞姿の写真を見ても、その凝りようはかなり甚だしいものがある。記憶に残っている地謡連中の、マチマチに凝った姿勢を見てもそうであった。凝って凝って凝り抜いて、突っ張るだけ突っ張り抜いて柔かになったのでなければ真の芸でないというのが翁の指導の根本精神である事が、大きくなるにつれてわかって来た。
だから小器用なニヤケた型は翁の最も嫌うところで、極力罵倒しタタキ付けたものであった。そんな先輩連の真似をツイうっかりでも学ぶと、非道い眼に会わされた。
◇
翁が稽古中に先輩や筆者を叱った言葉の中で記憶に残っているものを、云われた人名と一緒に左に列記してみる。アトから他人に聞いた話もある。
「お前が、そげな事をばするけにほかの者が真似する。喜多流にはそげな左右はない。どこを見て来たか……云え……云いなさい……馬鹿ッ」(梅津朔造氏へ)
「扇はお前の心ぞ。武士の刀とおなじもんぞ。チャント両手で取んなさい」(筆者へ)
「イカンイカン。扇の先ばっかりチョコチョコさせるのは踊りじゃ踊りじゃ――。心が生きねば扇も生きん。お能ぞお能ぞ……踊りじゃないぞ」(筆者へ)
「俺が足の悪い真似をお前がする事は要らん。お前はお前。俺は俺じゃ。馬鹿ッ」(梅津朔造氏へ)
「人に真似されるような芸は本物じゃないぞ」(梅津利彦氏へ)
=シンミリした穏かな口調で=「謡は芸当じゃない。心持ちとか口伝とかいうて加減するのが一番の禁物じゃ。私が教えた通りに
=或る天狗能楽師の悪口を云った後=「能は芝居や踊りのように上手な人間が作ったものではない。代々の名人聖人の心から生まれたものじゃ。その人達の真似をさせてもらいよるのじゃ。出来ても自慢にはならぬ。自分のたしなみだけのものじゃ。それを自慢にする奴は先祖なしに生まれた人間のような
=或る囃子方の悪口を云って=「彼奴のような高慢な奴が鼓を打つと向うへ進まれぬ。
=光雲神社の鏡の間で囃子方へ=「馬鹿どもが。仕手がまだ来んとに調べを打って何になるか。貴様達だけで能をするならせい。この馬鹿どもが」
◇
筆者が「夜討曾我」のお稽古を受けている時であった。
後シテの御所の五郎丸
これは最初筆者が、子供ながら翁のような老人を本気に投げていいかどうか迷って躊躇したのが翁に悪印象を残したのに原因していたらしい。実に意地の悪い不愉快な爺さんだと思った。
そればかりでない。
遠慮のないところを告白すると翁は
「本気で、本気で投げんと
というソノ息吹きの臭いこと。とても息苦しくてムカムカして来てしようがなかった。
◇
高弟梅津朔造氏の令息で、梅津昌吉という人が居た。今四谷の喜多宗家に居られる梅津兼邦君の父君であるが、翁の歿後は脇方専門のようになっていた。
元来無器用な人であったらしく、狂言から仕手方に転向した上村又次郎氏と共にいつも翁から叱られるので有名であったが、それでも屈せず
氏は、正直一途な性格で、あんまり翁から叱られて、真剣になり過ぎたらしく「虚眼」というのになってしまった。虚眼というのは、お能一番初まってから終るまで一時間か二時間の間、瞬きを一つもしないことで、昌吉氏が真白くクワッと眼を見開いて舞台の空間を凝視したままでいるのが、矢張り只圓翁門下一統の名物のようになっていた。
「昌吉は、あんまり一生懸命になり過ぎたんですね。あんなにしていると肝腎の眼が死んでしまいます。あんなのを虚眼と云ってね。時々ありますよ」
と現六平太先生が評された。
只圓翁は一生懸命になり過ぎる分ならイクラなり過ぎようとも、出来損っても
◇
これに引続いた話であるが、前記河原田平助氏の櫛田神社に於ける還暦祝賀能に「大仏供養」が出た。シテの景清が梅津利彦氏で、ワキの畠山重忠が前記梅津昌吉氏であった。
その頃互いに二十代であった両氏の意気組は非常なもので稽古もずいぶん猛烈であったが、サテ能の当日になると文字通り焦げ附くような暑さであった。それに装束を着けて舞うのだから大変で、
「名乗れ名乗れと責めかけられ」
と畠山が景清を橋がかりへ追込む時の如き、二人とも満面夕立のような汗が
揚幕を背にした景清の利彦氏は真赤に上気して、血走った眼を互い違いにシカメつつ流れ込む汗に
「言語道断」
と云った。その勢いのモノスゴかったこと。
「今日のような『大仏供養』を見た事がない」
と楽屋で老人連が口を極めて賞讃したのに対し翁はタッタ一言、
「ウフフ。面白かったのう」
と微笑した。昌吉氏はズット離れた処で装束を脱ぎながら、
「汗が眼に這入って困りましたが、橋がかりに這入ると向うの幕の間から先生の片眼がチラリと見えました。それなりけり気が遠うなって、何もかもわからんようになりました」
と云って皆を笑わせていた。
◇
或る時中庄の只圓翁の舞台で催された月並能で、大賀小次郎という人が何かしら
その後シテの時にどこからか舞台に舞い込んで来た一匹の足長蜂が大の面の鼻の穴から
大賀氏は気が遠くなった。しかし例によって幕の間から翁が見ているのが恐ろしさに後見を呼ぶ事さえ忘れて舞い続けた。「舞台は戦場舞台は戦場」と思い直し思い直し一曲を終った。
幕へ這入って仮面を脱ぐと大賀氏の顔が一面に腫れ上って、似ても似つかぬ顔になっているので皆驚いた。(柴藤精蔵氏談)
◇
翁の門下の催能にワキをつとめた人は筆者の祖父灌園以外に船津権平氏兄弟及その令息の権平氏が居た。観世の関屋庄太郎氏も出ていた。
そのほか他流の人で翁の門下同様の指導を受けていた人々には観世の不破国雄、山崎友来氏等がある。
しかし翁は他流の人や囃子方、狂言方には、あまり
翁は事ある毎に、
「朔造朔造」
と呼んだ。その声がトテモ大きくて烈しいので舞台から見所まで筒抜けに聞こえた。
その声が聞こえると朔造氏はどこへ居ても直ぐに飛んで来て、持病の喘息を咳入り咳入り翁の用を足した。翁の「朔造朔造」は催能の際の名物であり風景であった。
梅津只円翁伝(うめづしえんおうでん)
作家录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语
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