「オホ……いけないこと? 弱虫ねあなたは、オホホホ……でもこうなっちゃ駄目よ。どんなにあなたがもがいても云い訳は立たないから。あなたは私と一緒に東京を逃げ出して、どこか遠方へ行って所帯を持つよりほかないわよ……今から……すぐに」
「エッ……」
「オホホホホ」と未亡人は一層高い調子で止め度なく高笑いをした。私はクラクラと眼が
「あのね……」
と未亡人はやっと笑い止んだ。その声はなめらかに落ち付いていた。私の枕元に坐り直したらしい。
「音丸さん。よく気を落ちつけて、まじめにきいて頂戴よ。あなたと私の
「覚悟とは……」
と私は突然に起き直って問うた。けれども未亡人の燃え立つような美しさと、その眼に籠めた情火に打たれて意気地なくうなだれた。
「覚悟ったって何でもないんです。私は妻木に飽きちゃったんです。血の気のない影法師みたいな男がイヤになったんです。あんな死人みたいな男はあたし大嫌いなんです……」
と云ううちに未亡人は一番大きなコップに並々と金茶色の酒を
「だけどあなたは無垢な生き生きした坊ちゃんでした。だから
と云いつつ未亡人は両手をあげて心持ち
「ですから私は今日までのうちにすっかり財産を始末して、現金に換えられるだけ換えて押し入れの
私は両手を顔に当てた。
「もう追つけ三時です。四時には自動車が来る筈です。敏郎は夜中過ぎからグッスリ睡りますからなかなか眼を醒ましますまい」
私は両手を顔に当てたまま頭を強く左右に振った。
「アラ……アラ……あなたはまだ覚悟がきまっていないこと……」
と云ううちに未亡人の声は怒りを帯びて乱れて来た。
「駄目よ音丸さん。お前さんはまだ私に降参しないのね。私がどんな女だか知らないんですね……よござんす」
と云ううちに未亡人が立ち上った気はいがした。ハッと思って顔を上げると、すぐ眼の前に今までに見たことのない怖ろしいものが迫り近付いていた。……しどけない長繻絆の裾と、解けかかった
未亡人はほつれかかる
未亡人は一句一句、奥歯で噛み切るように云った。
「覚悟をしてお聞きなさい。よござんすか。私の前の主人は私のまごころを受け入れなかったからこの鞭で責め殺してやったんですよ。今の妻木もそうです。この鞭のおかげで、あんなに生きた死骸みたように
私の呼吸は次第に荒くなった。
「サ……しょうちしますか……しませんか」
と云い切って未亡人は切れるように唇を噛んだ。燐火のような青白さがその顔に
「ああ……わたくしが悪う御座いました」
と云いながら私は又両手を顔に当てた。
……バタリ……と馬の鞭が畳の上に落ちた。
ガチャリと
「許して……許して……下さい」
と私は身を悶えて立ち上ろうとした。
「奥さん……奥さん奥さん」
と云う妻木君の声が廊下の向うからきこえた。同時にポーッと燃え上る
「火事……ですよ」という悲しそうな妻木君の声が何やらバタバタという音と一緒にきこえた。
未亡人はハッとしたらしく、立ち上って夜具の上を渡って障子をサラリと開いた。同時に廊下のくらがりの中に白い浴衣がけで髪をふり乱した妻木君が現われて未亡人の前に立ち
「アッ」と未亡人は叫んだ。両手で左の胸を押えて
妻木君はつかつかと這入って来て未亡人の枕元に立った。手に冷たく光る細身の懐剣を持って妙にニコニコしながら私の顔を見下した。
「驚いたろう。しかしあぶないところだった。もすこしで
と妻木君は左の片肌を脱いで痩せた横腹を電燈の方へ向けた。その
「おれはこれに甘んじたんだ」と妻木君は肌を入れながら悠々と云った。「この女に溺れてしまって
「僕を助ける?」と私は夢のようにつぶやいた。
「しっかりしておくれ。おれはお前の兄なんだよ。六ツの年に高林家へ売られた久禄だよ」
と云ううちにその青白い顔が涙をポトポト落しながら私の鼻の先に迫って来た。痩せた両手を私の肩にかけると強くゆすぶった。
私はその顔をつくづくと見た。……その近眼らしい痩せこけた顔付きの下から、死んだおやじの顔がありありと浮き上って来るように思った。兄――兄――若先生――妻木君――と私は考えて見た。けれども別に何の感じも起らなかった。すべてが活動写真を見ているようで……。
その兄は浴衣の袖で涙を拭いて淋しく笑った。
「ハハハハハ、あとで思い出して笑っちゃいけないよ久弥……おれははじめて真人間に帰ったんだ。今日はじめて『あやかしの鼓』の呪いから醒めたんだ」
兄の眼から又新しい涙が湧いた。
「お前はもうじきに自動車が来るからそれに乗って九段へ帰ってくれ。その時にあの押し入れの中にある鞄を持って行くんだよ。あれはこの
兄はドッカとうしろにあぐらをかいた。浴衣の両袖で顔を蔽うてさめざめと泣いた。私はやはり茫然として眼の前に落ちた革の鞭と短刀とを見ていた。
そのうちに未亡人の
「ウ――ムムム」
という低い細い声がきこえると、未亡人が青白い顔を挙げながら私と兄の顔を血走った眼で見まわした。私は何故ともなくジリジリと蒲団から辷り降りた。未亡人の白い唇がワナワナとふるえ始めた。
「す……み……ませ……ん」
とすきとおるような声で云いながら、枕元にある銀の
未亡人は二口三口ゴクゴクと飲むと手を離した。蒲団から畳に転がり落ちた銀瓶からドッと水が
未亡人はガックリとなった。
「サ……ヨ……ナ……ラ……」
と消え消えに云ううちに夫人の顔は私の方を向いたまま次第次第に死相をあらわしはじめた。
兄は唇を噛んでその横顔を睨み詰めた。
自動車が桜田町へ出ると私は運転手を呼び止めて、「東京駅へ」と云った。何のために東京駅へ行くかわからないまま……。
「九段じゃないのですか」と若い運転手が聴き返した。私は「ウン」とうなずいた。
私の奇妙な無意味な生活はこの時から始まったのであった。
東京駅へ着くと私はやはり何の意味もなしに京都行きの切符を買った。何の意味もなしに
夕方になって眼が醒めたがその時初めて御飯を食べると、何の意味もなしに又西行きの汽車に乗った。その時に待合所の女中か何かが見覚えのない小さな鞄を持って来たのを、
「おれのじゃない」
と押し問答したあげく、やっと
汽車が動き出してから気が付くと私の
▲未亡人は二、三日前東洋銀行から預金全部を引き出したばかりでなく、家や地面も数日前から
▲未亡人と一緒に焼け死んでいた青年は、同居していた夫人の甥で妻木敏郎(二七)という青年であることが判明した。同家には女中も何も居なかったらしく様子が全くわからないが痴情の果という噂もある。
▲当局では目下全力を挙げてこの怪事件を調査中……。
あくる朝京都で降りると私はどこを当てともなくあるきまわった。すこし閑静なところへ来ると通りがかりの人を捕まえて、
「ここいらに鶴原卿の屋敷跡はありませんでしょうか」
ときいた。その人は妙な顔をして返事もせずに行ってしまった。それから今大路家や音丸家のあとも一々尋ねて見たがみんな無駄骨折りにおわった。そこに行ってどうするというつもりもなかったけれども只何となく
夕方になって祇園の通りへ出たが、そこの町々の美しいあかりを見ると私はたまらなくなつかしくなった。何だか赤ん坊になって生れ故郷へ帰ったような気持ちになってボンヤリ立っていると向うから綺麗な舞い
「どこかで僕とお話ししてくれませんか」
というと二人で名刺をのぞいていたが眼を丸くしてうなずき合って私の顔を見ながらニッコリするとすこし先の「
その時
「音丸」と答えたら美千代が腹を抱えて笑った。私も東京を出て初めて大きな声で笑った。
それから
大阪から別府、博多、長崎、そのほか名ある津々浦々を飲んでは酔い、酔うては女を探してまわった。
酔わない時は小説や講談を読んで寝ころんでいた。そうしてもしや自分に似た恋をしたものがいはしまいか。いたらどうするだろうと思って探したが、
そのうちに二年経つと東京の大地震の騒ぎを伊予の道後できいたが、九段が無事ときいたので東京へ帰るのをやめて又あるきまわった。けれども今度は長く続かなかった。私の
久し振りに、なつかしい箱根を越えて小田原に来たのはその翌年の春の初めであった。そこで暖くなるのを待っているうちに懐中がいよいよ淋しくなって来たので、私は宿屋の払いをして東の方へブラブラとあるき出した。すてきにいい天気で村々の家々に桃や椿が咲き、
その途中あんまり疲れたので、とある丘の上の青い麦畑の横に腰を
私は東京を出てから丸三年目にやっと
東京に着くと私は着物を売り払って労働者風になって四谷の木賃宿に泊った。そうして夜のあけるのを待ちかねて電車で九段に向った。
なつかしい
その日は見なれぬ内弟子が一人高林家の門を出たきり鼓の音一つせずに暗くなりかけて来た。
私は咳をしいしい四谷まで帰って木賃宿に寝た。そうして夜があけると又高林家の門前へ来て出入りの人を見送ったが老先生らしい姿は見えなかった。鼓の
私はそのあくる日又来た。そのあくる日もその又あくる日も来た。しかし老先生の影も見えない。亡くなられたのか知らんと思うと私の胸は急に暗くなった。
「しかしまだわからない。せめて老先生のうしろ影でも拝んで死なねば……」
と思うと私の足は夜が明けるとすぐに九段の方に向いた。高林家の門からかなり離れた処にある往来の棄て石が、毎日腰をかけるために何となくなつかしいものに思われるようになった。
「又あの乞食が……」と二人の婦人弟子らしいのが私の方を指しながら高林家の門を這入った。私はその時にうとうとと居ねむりをしていたが、やがて私の肩にそっと手を置いたものがあった。巡査かと思って眼をこすって見ると、それは思いもかけぬ老先生だった。私はいきなり土下座した。
「やっぱりお前だった。……よく来た……待っていた……この金で身なりを作って
と云いつつ老先生は私の手にハンケチで包んだ銀貨のカタマリを置いて、サッサと帰って行かれた。その銀貨の包みを両手に載せたまま、私は土に額をすりつけた。
その夜は曇ってあたたかかった。
植木職人の風をした私は高林家の裏庭にジッと
……と……「ポポポ……プポ……ポポポ」という鼓の音が頭の上の老先生の
私はハッと息を呑んだ。
「
と思いつつ私は耳を傾けた。
鼓の音は一度絶えて又起った。その静かな美しい音をきいているうちに私の胸が次第に高く波打って来た。
陰気に……陰気に……淋しく、……淋しく……極度まで打ち込まれて行った鼓の
みるみる鼓の音に明る味がついて来てやがて全く普通の鼓の
「イヤア……
それは名曲『
「とう――とうたらりたらりらア――。
と私は心の中で謡い合わせながら、久しぶりに身も心も消えうせて行くような荘厳な芽出度い気持になっていた。
やがてその音がバッタリと止んだ。それから五、六分の間何の物音もない。
私は前の雨戸に手をかけた。スーッと音もなく開いたので私は新しいゴム靴を脱いで買い立ての靴下の塵を払って、微塵も音を立てずに思い出の多い裏二階の梯子を登り切って、板の間に片手を支えながら
……………………
私はこのあとのことを書くに忍びない。只順序だけつないでおく。
私は老先生の死骸を電気の紐から外して、敷いてあった床の中に寝かした。
室の隅の仏壇にあった私の両親と兄の位牌を取って来て、老先生の枕元に並べて線香を上げて一緒に拝んだ。
それから暫くして「あやかしの鼓」を箱ごと抱えて高林家を出た。ザアザア降る雨の中を四ツ谷の木賃宿へ帰った。
あくる日は幸いと天気が上ったので宿の連中は皆出払ったが、私一人は加減が悪いといって寝残った。そうして
私はお前達兄弟の腕に惚れ込み過ぎた。安心してこの鼓を取りに遣った。そのためにあのような取り返しの附かないことを仕出かした。私はお前の親御様へお詫びにゆく。
私は死ぬかと思う程泣かされた。この御恩を報ずる
しかしまだ私の
私は鼓を抱えて、その夜の夜汽車で東京を出て
温泉宿に落ちついて翌日であったか、東京の新聞が来たのに高林家の事が大きく出ていた。その一番初めに載っていたのはなつかしい老先生の写真であったが、一番おしまいに出ているのは私が見も知らぬ人であるのにその下に「稀代の怪賊高林久弥事旧名音丸久弥」と書いてあったのには驚いた。その本文にはこんなことが書き並べてあった。
▲然るにその後久弥はその金を
▲彼は数日前から高林家の門前に乞食
▲尚高林家では前にも後嗣高林靖二郎氏の失踪事件があったので、久弥の事は全然秘密にしていたのであるが、兇行の際犯人が大胆にも被害者の枕元に義兄靖二郎氏と犯人の両親の位牌を並べて焼香して行った事実から一切の関係が判明したものである。云々。
私は今からこの鼓を打ち砕いて死にたいと思う。私の先祖音丸久能の怨みはもうこの間老先生の手で晴らされている。この怨みの脱け殻の鼓とその血統は今日を限りにこの世から消え失せるのだ。思い残すことは一つもない。
しかし私はこんな一片の因縁話を残すために生れて来たのかと思うと夢のような気もちにもなる。
底本:「夢野久作怪奇幻想傑作選 あやかしの鼓」角川ホラー文庫、角川書店
1998(平成10)年4月10日初版発行
初出:「新青年」博文館
1926(大正15)年10月
※このファイルは、ディスクマガジン『電脳倶楽部』に収録されたものをもとにしています。
入力:上村光治
校正:浜野 智
1998年11月10日公開
2003年10月15日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
●表記について
- このファイルは W3C 勧告 XHTML1.1 にそった形式で作成されています。
- 傍点や圏点、傍線の付いた文字は、強調表示にしました。