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たき火(たきび)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-11-26 9:02:33  点击:  切换到繁體中文


 げに今まで燃えつかざりし拾木ひろいぎの、たちまち風に誘われて火を起こし、濃き煙うずまきのぼり、くれないの炎の舌見えつ隠れつす。竹の節のるる音聞こえ火の子舞い立ちぬ。火はまさしく燃えつきたり。されど童らはもはやこの火にかえることをせず、ただ喜ばしげに手を拍ち、高く歓声を放ちて、いっせいに砂山のふもとなる家路のほうへせ下りけり。
 今は海暮れ浜も暮れぬ。冬の淋しき夜となりぬ。この淋しき逗子の浜に、あるじなき火はさびしく燃えつ。
 たちまち見る、水ぎわをたどりて、火のかたへと近づきくる黒き影あり。こは年老いたる旅人なり。彼は今しも御最後川を渡りて浜にで、浜づたいに小坪街道へとこころざしぬるなり。火を目がけて小走りに歩むその足音重し。
 しわがれし声にて、よき火やとかすかに叫びつ、杖なげ捨てていそがしく背の小包を下ろし、りょうの手をまず炎の上にかざしぬ。その手は震い、そのひざはわななきたり。げに寒き夜かな、いう歯の根も合わぬがごとし。炎は赤くその顔を照らしぬ。しわの深さよ。まなこいたくくぼみ、その光は濁りてにぶし。
 頭髪もひげ胡麻白ごまじろにてちりにまみれ、鼻の先のみ赤く、ほおは土色せり。哀れいずくの誰ぞや、してゆくさきはいずくぞ、行衛ゆくえ定めぬ旅なるかも。
 げに寒き夜かな。ひとりごちし時、総身そうしんを心ありげに震いぬ。かくて温まりし掌もて心地よげに顔をりたり。いたく古びてところどころ古綿ふるわたの現われし衣の、火に近きすそのあたりより湯気を放つは、朝の雨にうるおいて、なおすことだに得ざりしなるべし。
 あな心地よき火や。いいつつ投げやりし杖を拾いて、これを力に片足を揚げ火の上にかざしぬ。脚絆きゃはん足袋たびも、紺の色あせ、のみならず血色ちいろなき小指現われぬ。一声いっせい高く竹のるる音して、勢いよく燃え上がりし炎は足を焦がさんとす、されどおきなは足を引かざりき。
 げに心地よき火や、たが燃やしつる火ぞ、かたじけなし。いいさして足をえつ。十とせの昔、楽しきいろり見捨てぬるよりこのかた、いまだこのようなるうれしき火にわざりき。いいつつ火の奥を見つむるなざしは遠きものを眺むるごとし。火の奥には過ぎし昔のいろりの火、昔のままに描かれやしつらん。鮮やかに現わるるものは児にや孫にや。
 昔の火は楽しく、今の火は悲し、あらず、あらず、昔は昔、今は今、心地よきこの火や。いう声は震いぬ。荒ら荒らしく杖を投げやりつ。火を背になし、沖のかたを前にして立ちたいをそらせ、両のこぶしもて腰をたたきたり。仰ぎ見る大ぞら、晴に晴れて、黒澄くろすみ、星河せいかしもをつつみて、遠く伊豆の岬角こうかくに垂れたり。
 身うちあたたかくなりまさりゆき、ひじたる衣のすそそでも乾きぬ。ああこの火、が燃やしつる火ぞ、がためにとて、たれが燃やしつるぞ。今や翁の心は感謝の情にみたされつ、老のまなこは涙ぐみたり。風なく波なく、さしくるうしおの、しみじみと砂をひたす音を翁はまなこ閉じて聴きぬ。さすらう旅のうきもこの刹那せつなにや忘れはてけん、翁が心、今ひとたび童の昔にかえりぬ。
 あわれこの火、ようように消えなんとす。竹も燃えつき、板も燃えつきぬ。かの太き丸太のみはなおよく燃えたり。されど翁はもはやこれをしとも思わざりき。ただ立去りぎわに名残惜しくてや、両手もて輪をつくり、いだくように胸のあたりまで火の上にかざしつ、眼しばだたきてありしが、いざとばかり腰うちのばし、二足三足ふたあしみあしゆかんとして立ちかえれり、燃えのこりたる木の端々はしばし掻集かきあつめて火に加えつ、勢いよく燃え上がるを見て心地よげにうち笑みぬ。
 翁のゆきし後、火はくれないの光を放ちて、寂寞じゃくばくたる夜の闇のうちにおぼつかなく燃えたり。夜更け、潮みち、童らがたきし火も旅の翁が足跡も永久とこしえの波に消されぬ。





底本:「日本文学全集12 国木田独歩 石川啄木集」集英社
   1967(昭和42)年9月7日初版
   1972(昭和47)年9月10日9版
底本の親本:「国木田独歩全集」学習研究社
入力:j.utiyama
校正:八巻美惠
1998年10月29日公開
2004年6月7日修正
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