三
その夜八時過ぎでもあろうか、雨はしとしと降っている、踏切の八百屋では早く店をしまい、主人は長火鉢の前で大あぐらをかいて、いつもの四合の薬をぐびりぐびり飲っている、女房はその手つきを見ている、娘のお菊はそばで針仕事をしながら時々頭を上げて店の戸の方を見る。
『なるほど四合では足りねエ。』
『何がなるほどだよ。』女房はもう不平らしい。
『逆上の薬が足りないッてことよ。』
『ばか言ってらア。』女房には何のことだかわからない。
『お菊、もう二合取って来てくんねエ。』
『およしよ嘘だよ、ばかばかしい。』女房はしかるように言って、燗徳利をちょっと取って見て、『まだあるくせに。』
『あってもいいよ、二合取って来てくんねエ。明日口がきけねえから。』
『だれにさ、だれに口がきけねえんだよ。ばかばかしい。』
『なるほどうまいことを言うじゃアないか、今日おいらが蔦屋へ行って今朝の一件を話すと、長屋の者が、懐が寒くなるから頭へ逆上せるだッて言やアがる。うまいことを言うじゃアないか。そいでおいらア四合ずつ毎晩逆上薬を飲むが鉄道往生する気になんねえッて言ったら、お神さんにそう言ってもう二合も買ってもらえッてやアがる。』
『大きにお世話だッて言ってやればいいに。』と女房は言って見たが、笑わざるを得なかった、娘も笑った。
『だから二合取って来てくんねえッてんだ。』
『ほんとに今夜はおよしよ、道が悪くってお菊がかあいそうだから。』女房は優しく言った。
『いいよわたし行って来ても。』娘は針を置いた。
主人は最後の酒杯をじっと見ていたが、その目はとろんこになって、身体がふらふらしている。
『やっぱり四合かな。』
三人とも暫時無言。外面はしんとして雨の音さえよくは聞こえぬ。
『お前さん薬が利いたじゃアないか。』
『ハハハハハ』主人は快く笑って『しかしおいらアいくら逆上せても鉄道往生はご免だ。ドラ床の中で朝まで安楽成仏としようかな。今朝の野郎なんかまだ浮かばれねエでレールの上を迷ってるだろうよ。』
『チョッ薄気味の悪イ! ねエもうこんなところは引っ越してしまいたいねエ。』女房は心細そうに言った。
『ばか言ってらア、死ぬる奴は勝手に死ぬるんだ、こっちの為じゃアねエ。踏切の八百屋で顔が売れてるのを引っ越してどこへ行くんだイ。死にたい奴はこの踏切で遠慮なしにやってくれるがいいや、方々へ触れまわしてやらア、こっちの商売道具だ。』
あくまで太い事をいって、立ち上がって便所へ行きながら、『その代わり便所の窓から念仏の一つも唱えてやらア。』
『あれだもの』女房は苦い顔をして娘と顔を見合した。娘はすこぶるまじめで黙っている。主人は便所の窓を明けたが、外面は雨でも月があるから薄光でそこらが朧に見える。窓の下はすぐ鉄道線路である。この時傘をさしたる一人の男、線路のそばに立っていたのが主人の窓をあけたので、ソッと避けて家の壁に身を寄せた。それを主人はちらと見て、
『何を言っても命あっての物種だ、』と大きな声で独言を初めた、『どうせ自分から死ぬるてエなアよくよくだろうが死んじまえば命がねえからなア。』
この時クスリと一声、笑いを圧し殺すような気勢がしたが、主人はそれには気が付かない。
『命せえあればまたどんな事でもできらア。銭がねえならかせぐのよ、情人が不実なら別な情人を目つけるのよ。命がなくなりゃア種なしだ。』
娘が来て、
『何言ってるの?』気味わるそうに言う。
『命あっての物種だてエ事よ、そうじゃアねえか、まアまア今夜なんか死神に取っ付かれそうな晩だから、早く帰ってよく気を落ち着けて考えるんだなア。』
『何言ってるの。』
『まア出直した方がいいねエ、どうせ死ぬなら月でもいい晩の方がまだしゃれてらア。』
『いやな、』と娘は言って座敷の方へどたばたと逃げ出してしまった。
『出直した、出直した。その方がいい、あばよ、』と言って主人はよろめきながら出て来たが、火鉢の横にころりと寝たかと思うとすぐ大いびきをかいている。
『ほんとにこんなとこア早く越してしまいたいねえ、薄気味の悪い。しまいにはろくなことはないよ、ねえお菊。』母親はやはり針仕事を始めながら、それも朝が早いからもうそろそろ眠そうな目つきでいう。
『そうねえ。』娘はさほどにも思わぬよう。
『この月になってからでも今朝のが三人目だよ、よくよくこの踏切はけちがついていると見える。』
娘は黙って相手にならない。二人は無言で仕事をしていたが、母の手は折り折りやんで、その度ごとにこくりこくりと居眠りをしている。娘はこのさまを見て見ないふりをしていたが、しばらくしてソッと起き上がって土間を下りた。表の戸は二寸ばかり細目に開けてあるのを、音のせぬように開けて、身体を半分出して四辺を見まわすようであったが、ツと外に出た。軒下に立っているのが昨夜お梅から『お菊さんによろしく』と冷やかされた男。
『オヤ磯さん? なぜそんなところに立ってるの、お入りな、』と娘は小声でいう。
『入りそこねて変だから今夜はよそうよ、さっき親父さんが出直せッて言ったから、』とにやにや笑いながら言う。
『アラお前さんだったの? 何だか妙なことを言ってたと思ったよ。まアお入りな、かまわないから。』
『出直そうよ、ぐずぐずしてるとまた鉄道往生と間違えられるから、』と行きかける、
『人をばかばかしい、』と娘はまだ何か言いかけると内から母親があくび声で、
『お菊もう寝るから外をお閉め。』
『何だか雲ぎれがして晴れそうだよ、』と嘘を言ってだまかす。
『オヤ外にいたの、何してるんだねえ、早くお閉めよ、』と険貪に言う。
『星が見えるよ、』と言って娘は肩をすぼめて、男の顔を見てにっこり笑う。
『早くお入りよ、』と言って男は踏切の方へすたこら行ってしまったが、たちまち姿が見えなくなった。娘は軒の外へ首を出して、今度はほんとに空を仰いで見たが、晴れそうにもない。霧のような雨がひやひやと襟頸に入るので、舌打ちして『星どころか』と微かに言ったが、荒々しく戸を閉めたと思うと間もなく家の内ひっそりとなってしまった。
(明治三十三年七月作)
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