僕は成るべく母を見ないようにして居ます。母も僕に遇うことを好みません。母の眼には成程僕が怨霊の顔と同じく見えるでしょうよ。僕は怨霊の児ですもの!
僕には母を母として愛さなければならん筈です、然し僕は母が僕の父を瀕死の際に捨て、僕を瀕死の父の病床に捨てて、密夫と走ったことを思うと、言うべからざる怨恨の情が起るのです。僕の耳には亡父の怒罵の声が聞こえるのです。僕の眼には疲れ果た身体を起して、何も知らない無心の子を擁き、男泣きに泣き給うた様が見えるのです。そして此声を聞き此様を見る僕には実に怨霊の気が乗移るのです。
夕暮の空ほの暗い時に、柱に靠れて居た僕が突然、眼を張り呼吸を凝して天の一方を睨む様を見た者は母でなくとも逃げ出すでしょう。母ならば気絶するでしょう。
けれども僕は里子のことを思うと、恨も怒も消えて、たゞ限りなき悲哀に沈み、この悲哀の底には愛と絶望が戦うて居るのです。
処が此九月でした、僕は余りの苦悩に平常殆ど酒杯を手にせぬ僕が、里子の止るのも聴ず飲めるだけ飲み、居間の中央に大の字になって居ると、何と思ったか、母が突然鎌倉から帰って来て里子だけを其居間に呼びつけました。そして僕は酔って居ながらも直ぐ其理由の尋常でないことを悟ったのです。
一時間ばかり経つと里子は眼を泣き膨らして僕の居間に帰て来ましたから、『如何したのだ。』と聞くと里子は僕の傍に突伏して泣きだしました。
『母上が僕を離婚すると云ったのだろう。』と僕は思わず怒鳴りました。すると里子は狼狽て、
『だからね、母が何と言っても所天[#「所天」は底本では「所夫」]決して気にしないで下さいな。気狂だと思って投擲って置いて下さいな、ね、後生ですから。』と泣声を振わして言いますから、『そういうことなら投擲って置く訳に行かない。』と僕はいきなり母の居間に突入しました。里子は止める間もなかったので僕に続いて部屋に入ったのです。僕は母の前に座るや、
『貴女は私を離婚すると里子に言ったそうですが、其理由を聞きましょう。離婚するなら仕ても私は平気です。或は寧ろ私の望む処で御座います。けれども理由を被仰い、是非其の理由を聞きましょう。』と酔に任せて詰寄りました。すると母は僕の剣幕の余り鋭いので喫驚して僕の顔を見て居るばかり、一言も発しません。
『サア理由を聞きましょう。怨霊が私に乗移って居るから気味が悪いというのでしょう。それは気味が悪いでしょうよ。私は怨霊の児ですもの。』と言い放ちました、見る/\母の顔色は変り、物をも言わず部屋の外へ駈け出て了いました。
僕は其まゝ母の居間に寝て了ったのです。眼が覚めるや酒の酔も醒め、頭の上には里子が心配そうに僕の顔を見て坐て居ました。母は直ぐ鎌倉に引返したのでした。
其後僕と母とは会わないのです。僕は母に交って此方に来て、母は今、横浜の宅に居ますが、里子は両方を交る/″\介抱して、二人の不幸をば一人で正直に解釈し、たゞ/\怨霊の業とのみ信じて、二人の胸の中の真の苦悩を全然知らないのです。
僕は酒を飲むことを里子からも医師からも禁じられて居ます。けれども如何でしょう。此のような目に遇って居る僕がブランデイの隠飲みをやるのは、果て無理でしょうか。
今や僕の力は全く悪運の鬼に挫がれて了いました。自殺の力もなく、自滅を待つほどの意久地のないものと成り果て居るのです。
如何でしょう、以上ザッと話しました僕の今日までの生涯の経過を考がえて見て、僕の心持になって貰いたいものです。これが唯だ源因結果の理法に過ないと数学の式に対するような冷かな心持で居られるものでしょうか。生の母は父の仇です、最愛の妻は兄妹です。これが冷かなる事実です。そして僕の運命です。
若し此運命から僕を救い得る人があるなら、僕は謹しんで教を奉じます。其人は僕の救主です。」
七
自分は一言を交えないで以上の物語を聞いた。聞き終って暫くは一言も発し得なかった。成程悲惨なる境遇に陥った人であるとツク/″\気の毒に思ったのである。けれども止むなくんばと、
「断然離婚なさったら如何です。」
「それは新らしき事実を作るばかりです。既に在る事実は其為めに消えません。」
「けれども其は止を得ないでしょう。」
「だから運命です。離婚した処で生の母が父の仇である事実は消ません。離婚した処で妹を妻として愛する僕の愛は変りません。人の力を以て過去の事実を消すことの出来ない限り、人は到底運命の力より脱るゝことは出来ないでしょう。」
自分は握手して、黙礼して、此不幸なる青年紳士と別れた、日は既に落ちて余光華かに夕の雲を染め、顧れば我運命論者は淋しき砂山の頂に立って沖を遙に眺て居た。
其後自分は此男に遇ないのである。
●表記について
- このファイルは W3C 勧告 XHTML1.1 にそった形式で作成されています。
- [#…]は、入力者による注を表す記号です。
- 「くの字点」は「/\」で、「濁点付きくの字点」は「/″\」で表しました。
- 「くの字点」をのぞくJIS X 0213にある文字は、画像化して埋め込みました。
- 傍点や圏点、傍線の付いた文字は、強調表示にしました。
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