僕は父の言葉が気になって堪りませんでした。これも普通の小供なら間もなく忘れて了っただろうと思いますが、僕は忘れる処か、間がな隙がな、何故父は彼のような事を問うたのか、父が斯くまでに狼狽した処を見ると、余程の大事であろうと、少年心に色々と考えて、そして其大事は僕の身の上に関することだと信ずるようになりました。
何故でしょう。僕は今でも不思議に思って居るのです。何故父の問うたことが僕の身の上のことと自分で信ずるに至ったでしょう。
暗黒に住みなれたものは、能く暗黒に物を見ると同じ事で、不自然なる境に置れたる少年は何時しか其暗き不自然の底に蔭んで居る黒点を認めることが出来たのだろうと思います。
けれども僕の其黒点の真相を捉え得たのはずっと後のことです。僕は気にかかりながらも、これを父に問い返すことは出来ず、又母には猶更ら出来ず、小な心を痛めながらも月日を送って居ました。そして十五の歳に中学校の寄宿舎に入れられましたが、其前に一ツお話して置く事があるのです。
大塚の隣屋敷に広い桑畑があって其横に板葺の小な家がある、それに老人夫婦と其ころ十六七になる娘が住で居ました。以前は立派な士族で、桑園は則ち其屋敷跡だそうです。此老人が僕の仲善でしたが、或日僕に囲碁の遊戯を教えて呉れました。二三日経て夜食の時、このことを父母に話しました処、何時も遊戯のことは余り気にしない父が眼に角を立て叱り、母すら驚いた眼を張って僕の顔を見つめました。そして父母が顔を見合わした時の様子の尋常でなかったので、僕は甚だ妙に感じました。
何故僕が囲碁を敵としなければならぬか、それも後に解りましたが、其が解った時こそ、僕が全く運命の鬼に圧倒せられ、僕が今の苦悩を甞め尽す初で御座いました。
四
僕の十六の時、父は東京に転任したので大塚一家は父と共に移転しましたが、僕だけは岡山中学校の寄宿舎に残されました。
僕は其後三年間の生活を思うと、僕の此世に於ける真の生活は唯だ彼の学校時代だけであったのを知ります。
学生は皆な僕に親切でした。僕は心の自由を恢復し、悪運の手より脱れ、身の上の疑惑を懐くこと次第に薄くなり、沈欝の気象までが何時しか雪の融ける如く消えて、快濶な青年の気を帯びて来ました。
然るに十八の秋、突然東京の父から手紙が来て僕に上京を命じたのです。穏な僕の心は急に擾乱され、僕は殆んど父の真意を知るに苦しみ、返書を出して責めて今一年、卒業の日まで此儘に仕て置いて貰おうかと思いましたが、思い返して直ぐ上京しました。麹町の宅に着くや、父は一室に僕を喚んで、『早速だがお前と能く相談したいことが有るのだ。お前これから法律を学ぶ気はないかね。』
思いもかけぬ言葉です。僕は驚いて父の顔を見つめたきり容易に口を開くことが出来ない。
『実は手紙で詳しく言ってやろうかとも思ったが、廻りくどいから喚んだのだ。お前も卒業までと思ったろうし、又大学までとも志して居たろうけれど、人は一日も早く独立の生活を営む方が可えことはお前も知って居るだろう。それでお前これから直ぐ私立の法律学校に入るのじゃ。三年で卒業する。弁護士の試験を受ける。そした暁は私と懇意な弁護士の事務所に世話してやるから、其処で四五年も実地の勉強をするのじゃ。其内に独立して事務所を開けば、それこそ立派なもの、お前も三十にならん内、堂々たる紳士となることが出来る。如何じゃな、其方が近道じゃぞ。』という父の言葉を聴いて居る、僕の心の全く顛動したのも無理はないでしょう。
これ実に他人の言葉です。他人の親切です。居候の書生に主人の先生が示す恩愛です。
大塚剛蔵は何時しか其自然に返って居たのです。知らず/\其自然を暴露すに至ったのです。僕を外に置くこと三年、其実子なる秀輔のみを傍に愛撫すること三年、人間が其天真に帰るべき門、墳墓に近くこと三年、此三年の月日は彼をして自然に返らしたのです。けれども彼は未だ其自然を自認することが出来ず、何処までも自分を以前の父の如く、僕を以前の子の如く見ようとして居るのです。
其処で僕は最早進んで僕の希望を述るどころではありません。たゞこれ命これ従がうだけのことを手短かに答えて父の部屋を出てしまいました。
父ばかりでなく母の様子も一変して居たのです。日の経つに従ごうて僕は僕の身の上に一大秘密のあることを益々信ずるようになり、父母の挙動に気をつければつけるほど疑惑の増すばかりなのです。
一度は僕も自分の癖見だろうかと思いましたが、合憎と想起すは十二の時、庭で父から問いつめられた事で、彼を想い、これを思えば、最早自分の身の秘密を疑がうことは出来ないのです。
懊悩の中に神田の法律学校に通って三月も経ましたろうか。僕は今日こそ父に向い、断然此方から言い出して秘密の有無を訊そうと決心し、学校から日の暮方に帰って夜食を済ますや、父の居間にゆきました。父はランプの下で手紙を認めて居ましたが、僕を見て、『何ぞ用か』と問い、やはり筆を執て居ます。僕は父の脇の火鉢の傍に座って、暫く黙って居ましたが、此時降りかけて居た空が愈々時雨て来たと見え、廂を打つ霰[#「霙」の誤り?、400-7]の音がパラ/\聞えました。父は筆を擱いて徐ら此方に向き、
『何ぞ用でもあるか、』と優しく問いました。
『少し訊ねたいことが有りますので、』と僅かに口を切るや、父は早くも様子を見て取ったか
『何じゃ。』と厳かに膝を進めました。
『父様、私は真実に父様の児なのでしょうか。』と兼て思い定めて置いた通り、単刀直入に問いました。
『何じゃと』と父の一言、其眼光の鋭さ! けれども直ぐ父は顔を柔げて、
『何故お前はそんなことを私に聞くのじゃ、何か私共がお前に親らしくないことでもして、それでそういうのか。』
『そういう訳では御座いませんが、私には昔から如何いう者か此疑があるので、始終胸を痛めて居るので御座ます、知らして益のない秘密だから父上も黙ってお居でになるのでしょうけれど、私は是非それが知りたいので御座います。』と僕は静に、決然と言い放ちました。
父は暫時く腕組をして考えて居ましたが、徐ろに顔を上げて、
『お前が疑がって居ることも私は知って居たのじゃ。私の方から言うた方がと思ったことも此頃ある。それで最早お前から聞れて見ると猶お言うて了うが可えから言うことに仕よう。』とそれから父は長々と物語りました。
けれども父の知らして呉れた事実はこれだけなのです。周防山口の地方裁判所に父が奉職して居た時分、馬場金之助という碁客が居て、父と非常に懇親を結び、常に兄弟の如く往来して居たそうです。その馬場という人物は一種非凡な処があって、碁以外に父は其人物を尊敬して居たということです。その一子が則ち僕であったのです。
父は其頃三十八、母は三十四で最早子は出来ないものと諦らめて居ると、馬場が病で没し、其妻も間もなく夫の後を襲て此世を去り、残ったのは二歳になる男の子、これ幸と父が引取って自分の児とし養ったので、父からいうと半分は孤児を救う義侠でしたろう。
僕の生の父母は未だ年が若く、父は三十二、母は二十五であったそうです。けれども母の籍が未だ馬場の籍に入らん内に僕が生れ、其為でしょう、僕の出産届が未だ仕てなかったので、大塚の父は僕を引取るや直に自分の子として届けたのだそうです。
以上の事を話して大塚の父のいうには、
『其後私は間もなく山口を去ったから、お前を私の実子でないと知るものは多くないのじゃ。私達夫婦は飽くまで実子の積でこれまで育てて来たのじゃ。この先も同じことだからお前も決して癖見根生を起さず、何処までも私達を父母と思って老先を見届けて呉れ。秀輔は実子じゃがお前のことは決して知らさんから、お前も真実の兄となって生涯彼れの力ともなって呉れ。』と、老の眼に涙を見るより先に僕は最早泣いて居たのです。
其処で養父と僕とは此等の秘密を飽くまで人に洩さぬ約束をし、又た僕が此先何かの用事で山口にゆくとも、たゞ他所ながら父母の墓に詣で、決して公けにはせぬということを僕は養父に約しました。
其後の月日は以前よりも却って穏かに過たのです。養父も秘密を明けて却って安心した様子、僕も養父母の高恩を思うにつけて、心を傾けて敬愛するようになり、勉学をも励むようになりました。
そして一日も早く独立の生活を営み得るようになり、自分は大塚の家から別れ、義弟の秀輔に家督を譲りたいものと深く心に決する処があったのです。
三年の月日は忽ち逝き、僕は首尾よく学校を卒業しましたが、猶お養父の言葉に従い、一年間更に勉強して、さて弁護士の試験を受けました処、意外の上首尾、養父も大よろこびで早速其友なる井上博士の法律事務所に周旋して呉れました。
兎も角も一人前の弁護士となって日々京橋区なる事務所に通うて居ましたが、若し彼のまゝで今日になったら、養父も其目的通りに僕を始末し、僕も平穏な月日を送って益々前途の幸福を楽んで居たでしょう。
けれども、僕は如何しても悪運の児であったのです。殆ど何人も想像することの出来ない陥穽が僕の前に出来て居て、悪運の鬼は惨刻にも僕を突き落しました。
上一页 [1] [2] [3] [4] [5] 下一页 尾页