「それなら先ず手近な酒のことから話しましょう。貴様は定めし不思議なことと思って居るでしょうが、実は世間に有りふれたことで、苦悩を忘れたさの魔酔剤に用いて居るのです。砂の中に隠して置くのは隠くして飲まなければならない宅の事情があるからなので、その上、此場所は如何にも静で且つ快濶で、如何な毒々しい運命の魔も身を隠して人を覗がう暗い蔭のないのが僕の気に入ったからです。此処へ身を横たえて酒精の力に身を托し高い大空を仰いで居る間は、僕の心が幾何か自由を得る時です。その中には此激烈な酒精が左なきだに弱り果た僕の心臓を次第に破って、遂には首尾よく僕も自滅するだろうと思って居ます。」
「そんなら貴様は、自殺を願うて居るのですか。」と自分は驚いて問うた。
「自殺じゃアない、自滅です。運命は僕の自殺すら許さないのです。貴様、運命の鬼が最も巧に使う道具の一は『惑』ですよ。『惑』は悲を苦に変ます。苦悩を更に自乗させます。自殺は決心です。始終惑のために苦んで居る者に、如何して此決心が起りましょう。だから『惑』という鈍い、重々しい苦悩から脱れるには矢張、自滅という遅鈍な方法しか策がないのです。」
と沁々言う彼の顔には明に絶望の影が動いて居た。
「如何いう理由があるのか知りませんが、僕は他人の自殺を知って之を傍観する訳には行きません。自滅というも自殺に違いないのですから。」と自分が言うや、
「けれども自殺は人々の自由でしょう。」と彼は笑味を含んで言った。
「そうかも知れません。然し之を止め得るならば、止めるのが又人々の自由なり義務です。」
「可う御座います。僕も決して自滅したくは有りません若し貴様が僕の物話を悉皆聴て、其上で僕を救うの策を立てて下さるのなら僕は此上もない幸福です。」
斯う聞いては自分も黙って居られない、
「可しい! 何卒か悉皆聴かして貰いましょう。今度は僕の方からお願します。」
三
「僕は高橋信造という姓名ですが、高橋の姓は養家のを冒したので、僕の元の姓[#「姓」は底本では「性」]は大塚というです。
大塚信造と言った時のことから話しますが、父は大塚剛蔵と言って御存知でも御座いますか、東京控訴院の判事としては一寸世間でも名の知れた男で、剛蔵の名の示す如く、剛直一端の人物。随分僕を教育する上には苦心したようでした。けれども如何いうものか僕は小児の時分から学問が嫌いで、たゞ物陰に一人引込んで、何を考がえるともなく茫然して居ることが何より好でした。十二歳の時分と覚えて居ます、頃は春の末ということは庭の桜が殆ど散り尽して、色褪せた花弁の未だ梢に残って居たのが、若葉の際からホロ/\と一片三片落つる様を今も判然と想いだすことが出来るので知れます。僕は土蔵の石段に腰かけて例の如く茫然と庭の面を眺めて居ますと、夕日が斜に庭の木の間に射し込で、さなきだに静かな庭が、一増粛然して、凝然として、眺めて居ると少年心にも哀いような楽いような、所謂る春愁でしょう、そんな心持になりました。
人の心の不思議を知って居るものは、童児の胸にも春の静な夕を感ずることの、実際有り得ることを否まぬだろうと思います。
兎も角も僕はそういう少年でした。父の剛蔵[#「剛蔵」は底本では「剛造」]はこのことを大変苦にして、僕のことを坊頭臭い子だと数々小言を言い、僧侶なら寺へ与て了うなど怒鳴ったこともあります。それに引かえ僕の弟の秀輔は腕白小僧で、僕より二ツ年齢が下でしたが骨格も父に肖て逞ましく、気象もまるで僕とは変って居たのです。
父が僕を叱る時、母と弟とは何時も笑って傍で見て居たものです。母というはお豊といい、言葉の少ない、柔和らしく見えて確固した気象の女でしたが、僕を叱ったこともなく、さりとて甘やかす程に可愛がりもせず、言わば寄らず触らずにして居たようです。
それで僕の気象が性来今言ったようなのであるか、或はそうでなく、僕は小児の時、早く不自然な境に置れて、我知らずの孤独な生活を送った故かも知れないのです。
成程父は僕のことを苦にしました。けれども其心配はたゞ普通の親が其子の上を憂るのとは異って居たのです、それで父が『折角男に生れたのなら男らしくなれ、女のような男は育て甲斐がない』と愚痴めいた小言を言う、其言葉の中にも僕の怪しい運命の穂先が見えて居たのですが、少年の僕には未だ気が着きませんでした。
言うことを忘れて居ましたが、其頃は父が岡山地方裁判所長の役で、大塚の一家は岡山の市中に住んで居たので、一家が東京に移ったのは未だ余程後のことです。
或日のことでした、僕が平時のように庭へ出て松の根に腰をかけ茫然して居ると、何時の間にか父が傍に来て、
『お前は何を考がえて居るのだ。持て生れた気象なら致方もないが、乃父はお前のような気象は大嫌だ、最少し確固しろ。』と真面目の顔で言いますから、僕は顔も上げ得ないで黙って居ました。すると父は僕の傍に腰を下して、
『オイ信造』と言って急に声を潜め『お前は誰かに何か聞は為なかったか。』
僕には何のことか全然解らないから、驚いて父の顔を仰ぎましたが、不思議にも我知らず涙含みました。それを見て父の顔色は俄に変り、益々声を潜めて、
『慝すには及ばんぞ、聞たら聞いたと言うが可え。そんなら乃父には考案があるから。サア慝くさずに言うが可え。何か聞いたろう?』
此時の父の様子は余程狼狽して居るようでした。それで声さえ平時と変り、僕は可怕くなりましたから、しく/\泣き出すと、父は益々狼狽え、
『サア言え! 聞いたら聞たと言え! 慝すかお前は』と僕の顔を睨みつけましたから、僕も益々可怕なり、
『御免なさい、御免なさい』とたゞ謝罪りました。
『謝罪れと言うんじゃない。若し何かお前が妙なことを聞て、それで茫然考がえて居るじゃないかと思うから、それで訊くのだ。何にも聞かんのなら其で可え。サア正直に言え!』と今度は真実に怒って言いますから、僕は何のことか解らず、たゞ非常な悪いことでも仕たのかと、おろ/\声で、
『御免なさい、御免なさい。』
『馬鹿! 大馬鹿者! 誰が謝罪れと言った。十二にもなって男の癖に直ぐ泣く。』
怒鳴られたので僕は喫驚して泣きながら父の顔を見て居ると、父も暫くは黙って熟と僕の顔を見て居ましたが、急に涙含んで、
『泣んでも可え、最早乃父も問わんから、サア奥へ帰るが可え、』と優しく言った其言葉は少ないが、慈愛に満て居たのです。
其後でした、父が僕のことを余り言わなくなったのは。けれども又其後でした僕の心の底に一片の雲影の沈んだのは。運命の怪しき鬼が其爪を僕の心に打込んだのは実に此時です。
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