一
秋の中過、冬近くなると何れの海浜を問ず、大方は淋れて来る、鎌倉も其通りで、自分のように年中住んで居る者の外は、浜へ出て見ても、里の子、浦の子、地曳網の男、或は浜づたいに往通う行商を見るばかり、都人士らしい者の姿を見るのは稀なのである。
或日自分は何時のように滑川の辺まで散歩して、さて砂山に登ると、思の外、北風が身に沁ので直ぐ麓に下て其処ら日あたりの可い所、身体を伸して楽に書の読めそうな所と四辺を見廻わしたが、思うようなところがないので、彼方此方と探し歩いた、すると一個所、面白い場所を発見けた。
砂山が急に崩げて草の根で僅にそれを支え、其下が崕のようになって居る、其根方に座って両足を投げ出すと、背は後の砂山に靠れ、右の臂は傍らの小高いところに懸り、恰度ソハに倚ったようで、真に心持の佳い場処である。
自分は持て来た小説を懐から出して心長閑に読んで居ると、日は暖かに照り空は高く晴れ此処よりは海も見えず、人声も聞えず、汀に転がる波音の穏かに重々しく聞える外は四囲寂然として居るので、何時しか心を全然書籍に取られて了った。
然にふと物音の為たようであるから何心なく頭を上げると、自分から四五間離れた処に人が立て居たのである。何時此処へ来て、何処から現われたのか少も気がつかなかったので、恰も地の底から湧出たかのように思われ、自分は驚いて能く見ると年輩は三十ばかり、面長の鼻の高い男、背はすらりとした
形、衣装といい品といい、一見して別荘に来て居る人か、それとも旅宿を取って滞留して居る紳士と知れた。
彼は其処につッ立って自分の方を凝と見て居る其眼つきを見て自分は更に驚き且つ怪しんだ。敵を見る怒の眼か、それにしては力薄し。人を疑う猜忌の眼か、それにしては光鈍し。たゞ何心なく他を眺る眼にしては甚[#「甚」は底本では「其」]だ凄味を帯ぶ。
妙な奴だと自分も見返して居ること暫し、彼は忽ち眼を砂の上に転じて、一歩一歩、静かに歩きだした。されども此窪地の外に出ようとは仕ないで、たゞ其処らをブラブラ歩いて居る、そして時々凄い眼で自分の方を見る、一たいの様子が尋常でないので、自分は心持が悪くなり、場所を変る積で其処を起ち、砂山の上まで来て、後を顧ると、如何だろう怪の男は早くも自分の座って居た場処に身体を投げて居た! そして自分を見送って居る筈が、そうでなく立た膝の上に腕組をして突伏して顔を腕の間に埋めて居た。
余りの不思議さに自分は様子を見てやる気になって、兎ある小蔭に枯草を敷て這いつくばい、書を見ながら、折々頭を挙げて彼の男を覗って居た。
彼はやゝ暫く顔を上なかった。けれども十分とは自分を待さなかった、彼の起あがるや病人の如く、何となく力なげであったが、起ったと思うと其儘くるりと後向になって、砂山の崕に面と向き、右の手で其麓を掘りはじめた。
取り出した物は大きな罎、彼は袂からハンケチを出して罎の砂を払い、更に小な洋盃様のものを出して、罎の栓を抜や、一盃一盃、三四杯続けさまに飲んだが、罎を静かに下に置き、手に杯を持たまゝ、昂然と頭をあげて大空を眺めて居た。
そして又一杯飲んだ。そして端なく眼を自分の方へ転じたと思うと、洋杯を手にしたまゝ自分の方へ大股で歩いて来る、其歩武の気力ある様は以前の様子と全然違うて居た。
自分は驚いて逃げ出そうかと思った。然し直ぐ思い返して其まゝ横になって居ると、彼は間もなく自分の傍まで来て、怪げな笑味を浮べながら
「貴様は僕が今何を為たか見て居たでしょう?」
と言った声は少し嗄れて居た。
「見て居ました。」と自分は判然答えた。
「貴様は他人の秘密を覗がって可いと思いますか。」と彼は益怪げな笑味を深くする。
「可いとは思いません。」
「それなら何故僕の秘密を覗いました。」
「僕は此処で書籍を読むの自由を持て居ます。」
「それは別問題です。」と彼は一寸眼を自分の書籍の上に注いだ。
「別問題ではありません。貴様が何にを為ようと僕が何を為ようと、それが他人に害を及ぼさぬ限りはお互の自由です。若し貴様に秘密があるなら自から先ず秘密に為たら可いでしょう。」
彼は急にそわ/\して左の手で頭の毛を揉るように掻きながら、
「そうです、そうです。けれども彼れが僕の做し得るかぎりの秘密なんです。」と言って暫らく言葉を途切し、気を塞めて居たが、
「僕が貴様を責めたのは悪う御座いました、けれども何乎今御覧になったことを秘密に仕て下さいませんかお願いですが。」
「お頼とあれば秘密にします。別に僕の関したことではありませんから。」
「難有う御座います。それで僕も安心しました。イヤ真に失礼しました匆卒貴様を詰めまして……」と彼は人を圧つけようとする最初の気勢とは打て変り、如何にも力なげに詫たのを見て、自分も気の毒になり、
「何もそう謝るには及びません、僕も実は貴様が先刻僕の前に佇立って僕ばかり見て居た時の風が何となく怪かったから、それで此処へ来て貴様の為ることを覗ごうて居たのです。矢張貴様を覗がったのです。けれども彼の事が貴様の秘密とあれば、堅く僕は其秘密を守りますから御安心なさい。」
彼は黙って自分の顔を見て居たが、
「貴様は必定守って下さる方です。」と声をふるわし、
「如何でしょう、一つ僕の杯を受けて下さいませんか。」
「酒ですか、酒なら僕は飲ないほうが可いのです。」
「飲まないほうが! 飲まないほうが! 無論そうです。もう飲まないで済むことなら僕とても飲まないほうが可いのです。けれども僕は飲のです。それが僕の秘密なんです。如何でしょう、僕と貴様と斯やって話をするのも何かの運命です、怪い運命ですから、不思議な縁ですから一つ僕の秘密の杯を受けて下さいませんか、え、如何でしょう、受けて下さいませんか。」という言葉の節々、其声音、其眼元、其顔色は実に大なる秘密、痛しい秘密を包んで居るように思われた。
「よろしゅう御座います、それでは一つ戴きましょう。」と自分の答うるや直ぐ彼は先に立て元の場処へと引返えすので、自分も其後に従った。
二
「これは上等のブランデーです。自分で上等も無いもんですが、先日上京した時、銀座の亀屋へ行って最上のを呉れろと内証で三本買て来て此処へ匿して置いたのです、一本は最早たいらげて空罎は滑川に投げ込みました。これが二本目です、未だ一本この砂の中に埋めてあります、無くなれば又買って来ます。」
自分は彼の差した杯を受け、少ずつ啜りながら彼の言う処を聞て居たが、聞くに連れて自分は彼を怪しむ念の益々高るを禁じ得なかった。けれども決して彼の秘密に立入うとは思なかった。
「それで先刻僕が此処へ来て見ると、意外にも貴様が既に此場処を占領して居たのです、驚きましたね、怪しからん人もあるものだ僕の酒庫を犯し、僕の酒宴の莚を奪いながら平気で書籍を読んで居るなんてと、僕はそれで貴様を見つめながら此処を去らなかったのです。」と彼は微笑して言った、其眼元には心の底に潜んで居る彼の優い、正直な人柄の光さえ髣髴いて、自分には更に其が惨しげに見えた、其処で自分も笑を含み、
「そうでしょう、それでなければあんな眼つきで僕を御覧になる訳は御座いません。さも恨めしそうでした。」
「イヤ恨めしくは御座いません、情なかったのです。オヤ/\乃公は隠して置いた酒さえも何時か他人の尻の下に敷れて了うのか、と自分の運命を詛ったのです。詛うと言えば凄く聞えますが、実は僕にはそんな凄い了見も亦た気力もありません。運命が僕を詛うて居るのです――貴様は運命ということを信じますか? え、運命ということ。如何です、も一」と彼は罎を上げたので
「イヤ僕は最早戴ますまい。」と杯を彼に返し「僕は運命論者ではありません。」
彼は手酌で飲み、酒気を吐いて、
「それでは偶然論者ですか。」
「原因結果の理法を信ずるばかりです。」
「けれども其原因は人間の力より発し、そして其結果が人間の頭上に落ち来るばかりでなく、人間の力以上に原因したる結果を人間が受ける場合が沢山ある。その時、貴様は運命という人間の力以上の者を感じませんか。」
「感じます、けれども其は自然の力です。そして自然界は原因結果の理法以外には働かないものと僕は信じて居ますから、運命という如き神秘らしい名目を其力に加えることは出来ません。」
「そうですか、そうですか、解りました。それでは貴様は宇宙に神秘なしと言うお考なのです、要之、貴様には此宇宙に寄する此人生の意義が、極く平易明亮なので、貴様の頭は二々が四で、一切が間に合うのです。貴様の宇宙は立体でなく平面です。無窮無限という事実も貴様には何等、感興と畏懼と沈思とを喚び起す当面の大いなる事実ではなく、数の連続を以てインフィニテー(無限)を式で示そうとする数学者のお仲間でしょう。」と言って苦しそうな嘆息を洩し、冷かな、嘲るような語気で、
「けれども、実は其方が幸福なのです。僕の言葉で言えば貴様は運命に祝福されて居る方、貴様の言葉で言えば僕は不幸な結果を身に受けて居る男です。」
「それでは此で失礼します。」と自分は起上った、すると彼は狼狽て自分を引止め、「ま、ま、貴様怒ったのですか。若し僕の言った事がお気に触ったら御勘弁を願います。つい其の自分で勝手に苦んで勝手に色々なことを、馬鹿な訳にも立たん事を考がえて居るもんですから、つい見境もなく饒舌のです。否、誰にも斯んなことを言った事はないのです。けれども何んだか貴様には言って見とう感じましたから遠慮もなく勝手な熱を吹いたので、貴様には笑われるかも知れませんが。僕にはやはり怪しの運命が僕と貴様を引着たように感ぜられるのです。不幸せな男と思って、もすこしお話し下さいませんか、もすこし……」
「けれども別にお話しするようなことも僕には有りませんが……」
「そう言わないで何卒もすこし此処に居て下さいな、もすこし……。噫! 如何して斯う僕は無理ばかり言うのでしょう! 酔たのでしょうか。運命です、運命です、可う御座います、貴様にお話がないなら僕が話します。僕が話すから聞いて下さい、せめて聴て下さい、僕の不幸な運命を!」
此苦痛の叫を聞いて何人か心を動かさざらん。自分は其儘止って、
「聞きましょうとも。僕が聴いてお差支えがなければ何事でも承たまわりましょう。」
「聴いて下さいますか。それならお話しましょう。けれども僕の運命の怪しき力に惑うて居る者ですから、其積で聴いて下さい。若し原因結果の理法と貴様が言うならそれでも可う御座います。たゞ其原因結果の発展が余りに人意の外に出て居て、其為に一人の若い男が無限の苦悩に沈んで居る事実を貴様が知りましたなら、それを僕が怪しき運命の力と思うのも無理の無いことだけは承知下さるだろうと思います、で貴様に聞きますが此処に一人の男があって、其男が何心なく途を歩いて居ると、何処からとも知れず一の石が飛んで来て其男の頭に命中り、即死する、そのために其男の妻子は餓に沈み、其為めに母と子は争い、其為に親子は血を流す程の惨劇を演ずるという事実が、此世に有り得ることと貴様は信ずるでしょうか。」
「実際有ることか無いことかは知りませんが、有り得ることとは信じます、それは。」
「そうでしょう、それなら貴様は人の意表に出た原因のために、ふとした原因のために、非常なる悲惨がやゝもすれば、人の頭上に落ちてくるという事実を認たむるのです、僕の身の上の如き、全たく其なので、殆んど信ず可からざる怪しい運命が僕を弄そんで居るのです。僕は運命と言います。僕にはそう外には信じられんですから。」と言って彼は吻と嘆息を吐き、
「けれども貴様聴いて呉れますか。」
「聴きますとも! 何卒かお話なさい。」
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