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併し、Aと、B夫人との間はそれから加速度的に接近して行った。
夫の仕事の邪魔になるからとか、学校の研究会で帰りが遅くなって、一人でいるのは淋しいとか、いろいろな口実のもとに、Bの細君はAの家に入り浸った。
一度なぞは、Aの役所の退け時に、さも偶然らしく役所の前を通りかかって、一緒に散歩してお茶を飲んだり、自動車に乗ったりして帰って来た。尤も、その時はAも表面で全く成心なさそうに振舞ったが、併し家へ帰ると、二人ともそのことを内秘にしていた。
またBの細君はタンゴ・ダンスがうまかったので、A夫婦にも教えることにした。けれども、Aの細君の方が何時も気のすすまない顔をしていたので、大ていAばかりを相手にして踊った。Aは彼女と四肢を張り合わせるようにくっつけて、客間の中を引っぱり廻された。そして女の体を胸の中に抱きかかえる姿勢のところに来ると、自分の細君の方を振り返って赧くなるのだが、だんだん狎れると、一層赧い顔をしながら、そっと両腕に力を入れた。
「ごめんなさい、奥さん。――」とBの細君は、Aの細君へ彼女の夫の腕の中に身をたおしたまま声をかけるのであった。すると蓄音器係のAの細君が
「どうぞ。――」と冷かにそれに答えた。
結婚して三週間経つか経たない中に、Aは新妻を裏切ってしまった。
或る晩、矢張りタンゴを踊っていたのだが、Aは細君が退屈そうに脇見をしている隙を覗って、素早くパアトナーの唇に接吻した。そして、彼女が帰る時にも、わざわざポオチまで送って出て、そこの藤の緑廊(パーゴラ)の蔭で長い接吻をしたのである。
だが、その後で彼は直に家の中へ飛び込んで行って、すっかり細君に白状した。彼女も遉にびっくりして泣いた。
「あたし、何だか、そんなことになるのが前から判っていたような気もするの……」と彼女は泣きじゃくりながら云った。
「そう薄々感づいていながら、平気でいたお前にだって責任の一半はある。」Aは我儘な子供のように焦れったがった。
「あなた、なぜ、あたしを捨ててしまおうとなさらないの?」
「僕はお前と別れようなんて夢にも考えてやしないよ。……お前が、お前一人で、僕を堪能させてくれなかったからいけないのだ。結婚したばかりで、妻が夫の心の全部を占領していないなんて間違いだと思う。」
「――別れるの可哀相だから嫌だと云うだけでしょう?」
彼女は泣くのをやめて、ぼんやり考え込んだ。
「しばらく海水浴にでも行って、二人きりで暮そうじゃないか。」とAが急に思いついたように云った。「明日の朝、出発しよう。……お互にしっかり隙のない生活に嵌り込むことが必要だ。」
翌朝、役所へだけ届けをして、B夫婦には断らずに、海岸へたった。
ところが、一日置いて、海岸のAの細君から、Bの細君へ宛てて手紙が来た。
――突然ここの海辺へやって来ました。お驚きになったでしょう。だしぬいて驚かしてやろうとAが主張したのです。ごめんなさいね。
此処の海は人があんまり入りこまないので、水が澄んで底の方まですっかり透き通って見えるし、それに何時でも潟のように穏かです。
Bさんも、もう学校がお休みでしょう。あたし共ばかりでは、淋しくて困りますから、Bさんに願って、お二人連れでいらっしゃいませんか。――
Bの細君は、昨日からA夫婦の突然の行方不明が気懸りでならなかったのだが、この手紙で一先ずほっとしたわけである。そしてBにもこれを読ませると、Bは何時になく気軽にそこの海岸ヘ、夫婦のあとを追って海水浴に行くことを賛成した。
二三日して、学校の暑中休暇が初まると早々出発した。
途中の汽車の中で、Bは偶(ふ)と、細君に向って、こんなことを云い出した。久し振りで不精髯を剃ったので、平生より余計蒼白く骨ばった顔をしたこの生物学の教師は、支那人のように無愛想な笑いを浮べながら、
「Aの細君は、お前たちのことを、やっと今になって感づいたのかな?」
Bの細君は忽ち蒼ざめてしまった。
「あたしたちのことを?!」
「そんなに吃驚するところを見ると、お前は僕迄騙していたつもりらしいが、実を云えば、僕なんか、或はお前たち自身よりも、もっと早くお前たちの今日を気がついていたかも知れないのだ。」
「まあ、何てひどい!」と彼女は、泪を流して、併し人目を憚って泣声を噛み殺しながら云った。
「あなたは、あたしを罠に落そうとなさるんですか? どんなに確かな証拠があって――」
「そう、たった一ぺん、こないだの晩、Aの家のポオチでお前たちが接吻し合っているのを見たきりだが、併し、Aが自分の女房よりお前の方を余計愛していることや、お前が僕よりAを愛していることは、そんな他愛もない証拠などを云々する迄もなく、誰でもお前たちの様子を一目見さえすれば納得が行くに違いない。」
「…………」
「そして、誰だって無理はないと思うことさ。だが、僕をごまかして置こうなんてのは沙汰の限りだ。」
「ああ! あたし、どうすればいいのでしょう。どうしても誘惑に打ち勝てなかったのです。……でも、もういくら悔んだところで、追い付かないことだわ。」
「今更、なまじ後悔なんかされると、恋の神様が戸惑いなさるよ。矢鱈に後悔したり、詫[#【詫】は底本では言(ごんべん)に它]びたりし度がるのは、悪い癖だ。」
「――ごめんなさい」
「僕は昔からAの性質を知っているが、彼奴は見かけだけ如何にも明快そうにしていて、その実ひどく卑怯な性質だ。気がいいと云えば云えないこともないが、それだからと云って、僕の生活までが、そんな被害を甘んじてうけ入れていられるものではない。」
「あなた、それを承知で、これから乗り込んで行って、どうなさるおつもりなの?」
「適当に自分の決心を実行するだけだ。僕は科学者だから、何時だって冷静に計画を立てることが出来る。」
「決心って、どんなことをなさるの?」
「歯には歯、眼には眼さ。――だがA夫婦と会って見た上でなければ判らない。」
「ねえ、お願いですから、あたし一人、さきにAさんと会わせて下さい。」とBの細君は歎願した。
「いいとも。そして、Aに決意をすすめるがいい。出来るだけ、自分の浅はかさを手厳しく感じさせてやりたまえ。尤も、僕はAのために、一時間だって待って遣るわけにはいかないがね。――だが、細君は、若しかすると未だ何も判っていないのかも知れないのだから、兎に角細君の前では出来るだけ何気なく振舞わなければいけない……」
Bはそう答えると、外景の夕暮れた窓に向って、ガラスの中に映った自分の不機嫌な顔を瞶めるように、むっつりと口を鎖した。
細君は大きな不安に怯えながら、泪を乾して思案に暮れた。
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