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勝敗(しょうはい)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-11-26 8:38:26  点击:  切换到繁體中文


 ――僕の幸子さんに対する愛情は、僕たちが引きさかれてしまってからだって、ちっとも薄らぐことはなかった。いくら諦めなければいけないと自分の心に云いふくめてみたところで、所詮無駄だった。そして兄さんを怨んだ。我々の如き境遇にあって、たとえ幸子さんが兄さんの許婚であったにせよ、二人がお互に一切を擲って愛し合っているものを、引きはなす権利が兄さんの何処にあろうか! 兄さんが彼女を愛しているから、なぞと云うのはまことに理不尽千万な、この上もなく無法な理屈だ。僕には到底ゆるせなかった。僕は、どんなことがあったって、必ず幸子さんを自分のものにしてみせる覚悟だった。併し、悲しいことに、間もなく当の幸子さんが心変りしたものと見えて、むざむざと兄さんの妻になった。僕は結婚式に列(つらな)った時、心の中に復讐を誓った。まさか殺そうとまで計画しなかったけれども、そんなに義理人情を弁えない兄夫婦であるならば、その無節操な嫂(あによめ)に対して敢えて不倫を行ったところで、自分の良心に恥ずべきところは些もない筈だと考えて、窃に機会を待つことにした。これは今になってみると如何にも卑劣極まる考え方に違いないのだが、生れつき小心な上に病気のお蔭で一層卑屈になった根性で、どうにもならなかったのだ。兄さん達が結婚後二人連れで、僕を見舞に来てくれる度毎に、睦しい夫婦仲を見せつけられて、僕のさもしい情慾は愈々残酷に鞭うたれた。僕は焦せりはじめた。けれども、幸子さんは、僕が思った様ないたずら女ではなかったらしく、そんな機会はいつかなやって来そうもなかった。その中に僕の病気は次第に悪くなった。僕の罰当りな悪だくみそれ自身が、病勢を募らせる有力なる原因だったことは云う迄もない。秋口に入って、僕が寝起にも自由を欠く程の有様になってから、幸子さんは泊りがけで看病に来てくれたが、併しそれと同時に、最早や単に情慾なぞと云う生やさしいものではなく、もっと執拗な純然たる復讐の形の下に、たとえ破れかぶれであろうともこの目的を果さなければならないと決心するに至った。僕は到頭或る晩のこと、四辺に幸子さんの外誰もいない時を見計って、幸子さんに向って、僕は久しい歳月の間一時だって幸子さんを忘れたことがなく、どんなに恋しがっていたかを、泪ながらに打ち明けた。ところが、僕がくどくどと掻き口説くのを黙って聞いていた幸子さんは、いきなり、僕の、熱のためにカサカサ乾いた唇へ接吻したではないか。そして――ごめんなさいね。でも、今では、あたし、あんたよりも晃一さんの方が好きなんですもの。」とそう云うのだ。僕は胸を轟かせながら、あらためて云った。――それは僕にだってよく解っている。それに僕はこれから先ほんの僅しか生きられない人間だ。決して、兄貴を振捨てて、縒を元へ戻してくれと云うのではない。それどころか、こうして幸子さんに看護(みとり)されて死ぬことが出来るのを、何より嬉しく思って感謝している位だ。が、そこで、せめてその上の我儘な願と云うのはたとえ仮初であるにせよ、幸子さんが自分の天地(あめつち)をかけての恋人であると信じながらあの世へ行けたなら、どんなにか幸せであろうかと思うのだ。ねえ、お願だから、どうかもう一度昔の通りの恋人らしく振舞っておくれ。もとより、らしく[#「らしく」に傍点]と云うからには、単にその見せかけで結構なのだ。勿論誰にも知らせないで、おっつけ土くれになってしまう僕の体と一緒に亡びてしまう秘密だ。ねえ、どうぞ、この子供っぽい果敢ない望みを叶えてはくれまいか」とね、幸子さんはしばらく思案していた様子だったが、やがてその眼に大きな美しい泪の玉が浮かび上ったかと思うと、こっくりと一つ頷いて――いいわ。……あたし、本当はやっぱり誰よりも旻さんが好きだったの。あんたこそ、あたしのたった一人の恋人よ。」と云った。そして優しく僕を抱いて、幾度も幾度も僕にくちづけしてくれた。僕の心は俄かに怪しくなった。幸子さんのその素振りが、果して芝居であるか、真実であるか、僕には判断が付き兼ねたのだ。幸子さんと僕とは、それから始終、人目を憚っては愛撫し合った。初めの、僕の計画では、二人の媾曳を、まざまざと兄さんに見せつけてやるつもりだったのだが、僕はあべこべ兄さんに対して密夫らしい要心をしはじめた。僕は意気地のない話にも、この自分で書き下ろした芝居の恋に、たあいなく溺れてしまったのだ。
 僕は少年の日の恋を、あらためて復習しはじめた。僕は楽しかった。そして段々元気にさえなった。……それだのに、僕は幸子さんを殺すことになってしまった。あの日だって別に何時もと変ったことはなかったのだが、庭先でほんの鳥渡した心のゆるみから何気なく口にすべらした冗談が、意外に幸子さんの気に障ったらしかった。
 幸子さんが、唐突に走り出したので、何というわけもなく僕もその後から追いかけた。幸子さんは松林の端れの断崖の縁に立って泣いていた。幸子さんは僕の顔を見るとひどくヒステリックになって、如何にも憎々しげに怒鳴った。――卑怯者! 死んでおしまい! 誰があんたなんか愛しているもんか! あんたは自分であたしに芝居をしてくれと頼んだじゃないの。それを今更居直ったりして何と云う悪党なんだ!」僕は絶望のどん底に叩き落とされて、目の前が真暗になった。そうだ、芝居だったのだ!……自分でたくらんだ浅ましい芝居だったのだ! 僕は幸子に詫び[#底本では「詑び」と誤記]た。これからは決してこんなに思い上った真似はしないから、どうかもう少し我慢してこの芝居を続けてくれるようにと、哀訴し歎願した。だが幸子は冷酷にそっぽを向いて諾かなかった。僕はそこで遂に幸子に斯う云った。――よし、それでは仕方がない。この芝居の大詰は模様更えだ。心変りのした憎い女め! 俺は貴様を殺してやるぞ!」そして、僕はそう云い終るが早いか、真蒼になって立ちすくんだ幸子さんを崖の上から突き落してしまったのだ。咄嗟の場合、僕は愛する女を、永劫に人手に渡さぬためには、自分の手で殺してしまうよりほかなかったのだ…………」
 旻は、さて枕に顔を押し当てて、すすり泣いた。
 晃一は、黙って夜具をかぶってしまった。
 風をまじえた雨の、雨戸へふきつける音が聞こえた。

 6

 しばらくして、晃一は蒲団から顔を出すと、穏かな調子で旻へ話しかけた。
 ――旻、お前の話は嘘ではあるまいと思う。」
 旻は返事をしなかった。
 ――だが旻、幸子を殺したのは、少くともお前ではないのだ。なある程お前は殺すつもりで、突き落したかも知れないけれど、幸子は墜落の途中松の木にひきかかって気絶してしまった。その時は未だ死んではいなかったばかりでなく、せいぜい僅かな擦り傷を負った位のものだろう。それをお前達の後をつけて行った一人の男が、幸子の悲鳴におどろいて、その場へ駈けつけて見るともうお前の逃げ去った後だったが、崖の下に幸子がひきかかっているのが見えたので、早速何処かへ行って綱を持って来て、それを頼りに幸子のところへ降りて行った。そして、その男は幸子を助けると思いの外、そこでしばらく思い迷った様子だったが、どういうつもりかあらためて幸子の体を下へ蹴り落したのだ。その男と云うのは僕に外ならない。……何故また、僕がそこでそんな風にして幸子を殺さなければならなかったかと云うのか?……僕は最初から、お前たちの間を信用してはいなかったのだ。我々の様なお互の関係に置かれて、まるきり疑いをさし挾まないですませることは不可能だからね。僕は段々その疑を荷重に感じ始めた。僕は表面に平静を装いながら猟犬のように、お前たちを嗅ぎ廻った。併し、真実お前たちの間に未だ何もなかったのか、それともお前たちの方が役者が一枚上であった故か、容易に僕は尻尾らしいものを掴むことが出来なかった。僕は自分ながら可笑しい程妙な焦燥に堪えられなくなった。まるで、最初からお前達の不義を待ち構えて、ただそれだけの理由で、お前たちをペテンに掛けるために計画的な結婚を敢えてしたのでもあるかのような気持にさえなった。……ところが、やがてお前の病気が重って、幸子は泊りがけで看護に行き度いと云い出した。僕は直ぐに賛成した。僕は女中の一人をスパイに使ってお前達を見張らせた。すると果せる哉、どうやらお前たちが人目をしのんで、接吻したり抱擁し合ったりしているらしい気配があると云う報告が来た。もとより、これがお前の仕組んだ芝居で、可哀相な幸子はただ死にかけたお前に対する憐憫(あわれみ)から心にもない一役を演じたに過ぎないなぞとは、知るべくもなかったのだ。僕は、自分でじかに、お前たちの不仕だらを目撃したいと思った。そこであの日は金曜日だったが、わざと誰にも知られないようにして一日早く出かけて来た。僕は先ず、お前の病室や裏庭のよく見晴らせる松林の中に入って、そこから双眼鏡で様子を窺った。折よく庭さきと縁の上とで親しそうに話し合っているお前たちの姿が映った。お前たちは、やがて何か一口二口云い合いをしたかと思うと、矢庭に幸子が走り出した。お前もあわただしくその後を追った。幸子は裏木戸を開けて、僕の隠れている松林へ向って一散に走って来た。僕は、お前たちに見つからないように素早く松林の奥深くかくれた。ところが、しばらくすると断崖の方から鋭い幸子の悲鳴が聞こえた。続いてバタバタという騒々しい足音と共にお前がひどく狼狽しながら息を切らして姿を現わすと、再び別荘の方へ走って行くのが木の間がくれに見られた。僕は直ぐに事態の容易ならぬのを察して、幸子の悲鳴のした方へ飛んで行った。すると果して、幸子は高い断崖の途中に危くぶら下っているのではないか。僕は大声で助けを呼ぼうとしたが止した。そして急いで松林を出ると、とっつきの百姓家の納屋に忍び込んで、有り合せた井戸綱を一束抱えてとって返した。僕はその綱を手近の木の根に縛りつけて、それに縋りながら、幸子のところ迄首尾よく降りることが出来たが、さて気絶した幸子の顔を見ると俄かに気が変った。――わざわざこんな不貞な妻を助けるなんて、何と云う愚なことだろう。女を殺してその姦夫を殺人罪に陥れてしまえば、それでいいではないか。旻自身が既に彼女を殺したつもりなのだからこれ程容易な話はない。ここで、彼女の生命を助けたりすることはむしろ神様の思召を無にするにも等しい。僕はそう覚悟をきめると力任せに、彼女の体を蹴とばした。彼女はパジャマの片袖を松の枝に残したまま、真逆様に白い波の砕け散っている岩の上に落ちて行った。僕はそのパジャマの袖を取って、それを崖の上に置いて、如何にもそこで幸子とお前との間に格闘でも行われたように見せかけて、その筋の発見を早めようかと思ったがなまじそんな細工をして、お前自身に第三者の介在を気付かれては却って困ると考えて、止めた。僕はそれから、綱をもとの百姓家へこっそりと返して置いて、すぐに汽車に乗って家へ帰った。停車場では降りる時も乗る時も、あらかじめ何時もの僕とは服装を更えて、黒眼鏡までかけていたので、駅員達に見咎められずに済んだ。僕は家へ帰ると、早速、幸子の名宛で別荘へ遅れる旨の電報を打った。決してアリバイにはならないけれども、稍それに紛らわしい効果を持たないでもない。そして翌日になって幸子変死の電報に接して倉皇とした風で、別荘へやって来た。ところが、お前は、殆ど意識不明な程の高熱で、呻吟していた。僕はお前が、前日縁先で、幸子と口論してその後を追ったと云う廉で、幸子殺害の容疑者として拘引されている位に考え、そうであったならば、僕はお前と幸子の関係を説明して、婉曲にお前の有罪を立証する役に立つつもりだったのだが。しかも、幸子は過失死と断定されてしまっていた。僕は少し位不細工でも、たとえばパジャマの袖を崖の縁へ置くなりして、歴然と他殺の証跡を捏造して置くべきだった。僕は少からず失望した。だが、僕はもう一度、考え直した。……瀕死の病人を殺人罪に陥れたところで、しかも彼自身がそれを明らかに意識している場合、実際のところ何の甲斐もない話ではあるまいか。それよりも、むしろ幸子の夫である僕が、彼の犯罪を悉く知っているばかりでなく、彼が不覚にも成し遂げなかった目的を、代って果してやったと、打ち明けた方が、余程効果のある趣向ではないだろうか……」
 旻は低い呻き声をあげた。
 ――兄さん、幸子さんは、ただお芝居をしただけなんだ。幸子さんは兄さんだけを、真実愛していたんだ。それを兄さんは知りもしないで……」旻は激しく咳入った。そして白い枕の上に真赤な血を吐いた。
 ――旻、僕の云い度いと思ったのは、併しそんな意味のことではないのだ。ねえ旻や……」晃一は弟の背中を、そう云いながら、やさしく撫でてやった。

 7

 それから、一週間程経って旻は死んだ。晃一は、その忌しい別荘にいることが堪えられなくなって、都へ引き上げることにした。それで晃一は、いろいろの道具の整理をした。すると旻の生前使っていた書物机の中から、一通の粗末なハトロン紙の封筒に入った手紙のようなものが出て来た。
 上書に、兄上様――旻。傍に「秘」としてあった。晃一は、それを片手にしてしばらく思いためらった。晃一はその儘火にくべてしまおうかと考えた。が結局、思い切って封を切った。
 ――兄さん。この性の悪いいたずらをゆるして下さい。兄さんがこの手紙をためらいながら封を切ったとすれば、兄さんは、本当に幸子さんや僕を愛していてくれたものと信じます。その兄さんの気持に甘えて、神かけて最後の真実をお話しします。幸子さんの愛していたのは、兄さんではなく、やっぱり僕だったのです。あの日幸子さんは、どう云うものか、ひどくヒステリックになっていて、あのきりぎしの上で僕が幸子さんを捕まえると、幸子さんは泣きながら、僕に一緒に死んでくれと云いました。
 僕は、兄さんを愛しているし、それにいくら僕が永く生きられない身だからと云って、幸子さんの気紛れな感傷につけ込んで心中なんかするのは嫌だから、断然それを拒絶したのです。すると、幸子さんはいきなり何かわめいたかと思うと、身を躍らして崖の下へ飛び込んでしまったのです。僕は、幸子さんを殺しはしなかった。幸子さんを殺したのは、兄さんです!
 では、何故僕は自分で幸子さんを殺したなぞと云い出したのかと、不思議に思うかも知れないけれど、それは只兄さんが死んだ幸子さんの思い出や、形見ばかりに綿々としている様子が、僕にはひどく哀れに思えると同時に、我慢のならない程反感を感じさせたからです。僕は兄さんの居ない世界で、幸子さんと二人で暮せるかと思うとこの上もなく幸せです。
 晃一は、マッチを摺って、その手紙に火を点じた。
 ――なる程。旻は、そんなに迄、幸子を自分のものにして置きたかったのか。旻から幸子を取り返したことは、くれぐれも自分のあやまりだった。
 晃一は、縁側へ出ると、誰もいない海の景色を見つめたまま長いこと考え込んだ。それから海に向って呼びかけた。
 ――けれども旻や、僕は、あの時の光景をはじめから見て知っているのだ。恥しいことだが、お前たちのあとをつけて行って、窺っていた僕は、すぐ傍の木影からすっかり見てしまったのだ。幸子はお前に追いつめられて断崖の縁迄出たのだが、そこでなおも執拗に追い迫るお前を避けようとしたはずみに、足を踏みすべらして、墜落したのだ。お前は驚きのあまり幸子の安否を見届けることもしないで、逃げ帰ったではないか。幸子は、あの崖の途中の突端にほんのちよっと袖を引っかけただけで、真直ぐに落ち込んでしまったのだ。お前が、彼女を殺さなかったと同様に、僕も決して彼女を殺しはしなかった。だが、とにかくこの勝負はどうやらお前の勝らしいね。……安心して眠るがいい。」



底本:「アンドロギュノスの裔」薔薇十字社
   1970(昭和45)年9月1日初版発行
初出:「新青年」1928年10月
入力:森下祐行
校正:もりみつじゅんじ
ファイル作成:もりみつじゅんじ
2000年7月25日公開
2000年8月1日修正
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