6
私の髭は日ましに青草のように勢いよく延び初めた。今朝目をさまして見ると、もう殆どつけ髭にも劣らない位立派に生え揃っていた。
姉は勿論、怒って、泣いた。けれども私は、固い決心をもって姉のたあいもない我儘に抗った。
――髭を生やすことがなぜいけないのか?
私は、毀れてしまった操り人形のように、あわれにも精も根も尽き果てた様子で、明るい真昼間の日ざしの中で眠りこけている姉の寝姿を見ていると、自分もつい悲しくなるのだが、しかし私は姉をそんなに不幸にしてしまったとしても、それはあくまで自分の罪でないことを、自分の胸に幾度も云いふくめた。……私は、姉の体を食べても大きくなる事が必要だったのだ。して見れば今になって、唖娘の気紛れな感傷のために、大人になることを妨げられなければならない理由は何処にもない筈だ。……人生の曙に立って、私に価値あるものは、哀れな片輪者の泪ではなくして、立派な髭と、そしてあの美しい娘の恋だけである! と。
――自分は先ず自由な一本立ちの生活をしなくてはならない、と私は思い立った。
併し、その前に私は、姉の正体を、姉が一体果して、尋常な路傍の草花売りであるか否かをたしかめたかった。この頃になって気がついた事だが、姉の草花を入れる小さな籠に一輪の花はおろか枯れ葉や花の匂も、ただの一度だって、そこに花なぞの入っていたらしい形跡をみとめ得たためしはなかった。それにそんな籠一杯の花の数が、私達二人の生活を支えるのには、あまりに少なすぎることをも理解するようになったし、私は姉の商売をしているところを見届ける必要があると切実に感じた。
暮方近くになって、姉が眼をさました時に私は姉にたずねた。
――姉さんは、何処で商売するのですか?」
姉は、明かにギクリとしたらしかったが、つとめて平静を装って、窓から遙かの夕焼雲の下にそびえ重さなる街をゆびさした。
――アノ、ニギヤカナ、マチデサ。」
――ほんとですか。姉さんの花を売るところを僕に見せて下さい。」
姉は、すると、いよいようろたえた様子であった。
――バカ! オマエハ、ウチデ、オトナシク、ルスバンヲシテイレバ、ソレデ、イイノダヨ。」
――僕は、いつかしら、屹度姉さんに知れないように、跡をつけて行ってしまいますよ。」と私は云った。
姉は顔色を変えて唸った。そして劇しく、上下に首をふって、泣きじゃくった。
7
哀れな姉は、それでもいつもの時間が来ると、唇と頬とに紅を塗って、草花の空籠を風呂敷に包んで、夕風の吹いている街路へ出て行った。
私はそれを窓から見送っていた。姉は私を疑って、幾度も幾度も振り返りながら、甃石道を遠ざかって行った。
姉の姿が程近い街角を曲り切ってしまうと、私はすぐさまマントを取り上げて、姉の跡を追った。並木の路を一散に走って行ったので、そこの街角を注意深く曲って眺めた時、私はそんなに骨を折る程でもなく、姉の一きわ目立ってみじめな痩せた肩をば、見出すことが出来た。私はマントをすっぽり頭からかぶって、見えつ隠れつ、姉を尾行した。電車道に沿ったり、坂を上ってまた下りたり、裏町のうす暗がりを抜けたりして、長い長い道のりを姉は小刻みな足どりで歩いて行った。そして遂に、私達の家の窓から雲にそびえて見える、あの宏大な建物ばかりが、押し合い、重なり合って並んでいる繁華な町へ出た。色とりどりの美しいイルミネエションの中に陽気な広告の楽隊が鳴り響いていた。私はそんな賑かな街区へ足を踏み入れたのは、全くこれが初めてであったけれども、私はひたすら姉を見失うことをおそれて、高貴なる香水の匂にみちた人波を、押し分け押し分けして、姉を追いかけた。追いかけながら、私はこれ程繁昌な巷に立って見窶(みすぼら)しい唖娘の姉が、取るに足らない草花なぞを売って、果してそれを気にとめて買ってくれる人が少しでもいるのであろうか――これは、いよいよ姉は私を欺いているらしいと考えるのであった。
姉はやがて宏大なるビイルディングの一つをえらんで、些の躊[#底本では旁の「壽」が「寿」、90-4]躇なく這入って行った。そのビイルディングの軒端には「フラワー・ハウス」と云う電飾文字が明滅していた。それで私も黒いマントを脱いで大胆にその玄関へ踏み込んだ。金モールのいかめしい制服を着た門番も、その他の誰も、私を怪しむ様子はなかった。
姉はやはり私に気がつかないまま地下室の方へ降りて行った。階上の立派さに引き更え、地下室の廊下は、灰色の汚れた壁の間に挾まれて息苦しい程細く、そして低い天井に灯っている電燈はおそろしく薄暗かった。姉はその廊下の両側に幾つとなく並んだ木の扉の一つを開けて、その内側へ消えてしまった。酒落た身装の男達が退屈そうに廊下を往ったり来たりしながら、時々それらの扉の前に佇んだ。私は暫くためらった後に、リノリウムの上に足音を忍ばせて、マントをかぶってそっと姉の隠れた部屋へ近寄って見た。
木の扉に、いつか私が姉に頼まれて書いてやった覚えのある値段書が、もう色褪せて貼られてあった。[#次の四行は罫線囲み]
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室咲名花 ダ リ ヤ……………………………五十銭 シクラメン……………………………五十銭 菊………………………………………時 価
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そしてそれより少し上の、恰度私の眼の高さ位のあたりに手首の這入る程の円い穴があけてあって部屋の中を覗けるように出来ていた。私はそこから恐る恐る覗いて見た。部屋の中にはうす桃色の灯がともされて、その下にたった一つ粗末な木造の寝台があって、それへ姉が一人で腰かけていた。何時の間に着替えたのか、姉は肩のピンと糊でつっ張った紫と白との疎(あら)い棒縞の衣裳を着ていた。姉の紅で濃く染めた顔はたえ難く愁しく私の心臓をひき裂いてしまった。
――どうです、綺麗な花ですか?」
にやけた山高帽をかぶった不良少年が、私の肩を敲いて通り過ぎた、私は我を忘れて、コツコツと扉を打った。
姉は耳敏くそれを聞きつけると、私の覗いている扉の穴へ向ってニッと笑って見せた。私は周章て、廊下の端(はず)れまで走って、そこのうすくらがりの中へうずくまった。
姉は扉をあけて首をさしのべた。それから玄関へ上る階段のところまで行ってみたが、彼女のお客の姿は何処にも見当らなかったので、落瞻(がっかり)したらしい様子で肩をすぼめて部屋の中へ引き込んで行った。私はそこで再び取って返すともう一度丸穴から覗き込みながらコツコツと扉を敲いた。
姉はやはりいそいそと身を起した。
私は前の時のように廊下の隅っこで、姉の出て来るのを待った。姉は扉から首を出して見て、それからまた階段の方へ歩いて行った。私はその隙に素早く部屋の中へ飛び込んで、寝台の下へもぐった。
二度も誑かされた姉は、溜息を吐きながら戻って来た。私の眼の前に姉の痩せ細った脚がぶら下った。私はあらん限りの勇気を奮い起して、泣きたい心を抑えつけた。
――コツコツ、コツコツ」と扉が鳴った。
姉は懲りもしないで、直ぐに立って行って扉をあけた。
だが、今度は本当にお客様であった。その花を買うお客は頭も顔もつるつる光った肥っちょの紳士であった。紳士は物をも云わずに姉を抱き寄せた。……紳士がどんな見るに堪えない侮辱を姉に加えたか、私は語りたくない。
私はとにかく、突然寝台の下から躍り出してその紳士を襲った。私は紳士の背部深く短刀を突き刺した。……哀れな姉は、紳士の胸の中で気を失って、一緒に床の上に倒れた。
私は短刀を姉の手に握らせた。
それから、私は血に塗みれた手を洗面台ですっかり洗い落として、さて落ちつき払ってその部屋を立ち出(い)でた。
8
私はたえてない楽しい気持で家路を辿った。
何んと云う思いがけない幸福が向いて来たものであろう!
私の勇気は、あらゆる人生の不幸をうち亡ぼしてしまったではないか。
おそらく姉は、今頃は警察の手に抑えられて、そして
――この十万長者を殺したのはお前であろう。ウムよろしい金が欲しさに殺したと云うのだな。」
と云う署長の厳しい問に対して、彼女は何度でも首を縦に振って、狂気のようにうなずいていることであろう。
もう、今夜からは夜更けて姉が帰って来る憂いはない。
可哀相な姉よ!
だが、私は髭もすでに立派に生えたし、これからは誰に憚るところもなく、一人前の大人として世を渡って行くことが出来るのだ。
私は途中で、汽車のシグナルのような赤いランプを一つお土産に買った。
その赤いランプを、今は唯一の主人である我家の窓へとりつけて、私の美しい恋人を呼びとめてやるためであることは云う迄もない。
底本:「アンドロギュノスの裔」薔薇十字社
1970(昭和45)年9月1日初版発行
初出:「新青年」1927年10月
入力:森下祐行
校正:もりみつじゅんじ
ファイル作成:もりみつじゅんじ
2000年2月11日公開
2000年7月25日修正
青空文庫作成ファイル:このファイルは、インターネットの図書館、
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