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嘘(うそ)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-11-26 8:35:04  点击:  切换到繁體中文


「理由?」
「うん。……君は今、私のタイピンの事を云ったね。このタイピンがその理由なのだ。まあ聞きたまえ。面白い話なのだから……」
「え、聞かして――」娘もちょっと面喰った様子で、井深君の顔とそのネクタイピンをば見くらベた。
「去年の春だよ。或る日、日が暮れたばかりでね、私はやっぱり銀座通りを散歩していた……」と井深君は両手の指を膝の上でくみ合せ乍らストオヴの方へ向いたまま話しはじめた。
「何時ものように、一っぺん新橋の橋の袂迄行き尽して、また引き返そうとした時だった。私はふとあすこの博品館の横手の薄暗がりの中に、ぼんやり立って、どうやら泣いているらしい恰度君位の背恰好の女の子の姿を見出したのだ。身形はと云うと、お河童で橙色のジャケツを着て――つまり、君の今のなりと同じようなのだね。悪く思っちゃいけないよ。大して変った風と云うわけじゃなし、同じ身形の人が一人や二人いたって、ちっとも不思議はないさ。――で、ともかく私はその女の子のそばへ行ってきいてみた。女の子はやっぱり泣いていた。そして、姉さんと一緒に銀座迄買物に来たのだが、はぐれてしまって、電車賃もないし、家へ帰れない――とこう云うのだ。……なぜ妙な顔をするのだね? そりゃあ、無論その女の子は嘘を吐いたのさ。併し、私はその時はそれを嘘だと思わなかった。その泣き乍ら物を云う様子は、どうしたって、私の心にそんな冷めたい疑いをさしはさめる程の余裕なぞ与えなかったのだもの。私はすっかり同情してしまって、その子に一円のお金を貸してやった。するとその子は非常に喜んでね。そうしてそのお礼にと云って、持っていた伊太利(イタリー)革の手提の中から一本のネクタイピンを――とり出すと、私がどんなに断っても、自分の手で私のネクタイにさしてくれると云い張って聞かないのだ。私はそれで為方なく、(何と云う無邪気な面白い子なのだろう……)と笑い乍ら、どうせそんな年のいかない女の子が持っているのだから、二十銭位のおもちゃかも知れないそのピンをさして貰うために、腰を屈めて首を差し出した。ところが、どうだろう。女の子はピンをさし終えるが早いか、突然いやに冷めたい手で私の両耳にぶら下がると、私の唇に接吻して、どんどん暗やみの方へ逃げて行ってしまったではないか。私は呆気に取られて茫然としていた。……ところが、それから暫くして気が付いたのだが、私はその女の子のためにふところの紙入を掏られていた。つまり、一本のネクタイピンと素早いキスの代価をうまうまと支払わせられたわけになるのだね。……が、それはそう企んだ先方のとんだ見当違いでね。と云うのは、お恥しい話だが、私はその頃或る事情で甚だお金に困っていた。それで紙入にお腹を空かせて置くのも私の性分でへんにみっともない気がしたので、新聞紙をお紙幣の大きさに切ってどっさり入れて置いたのだよ。本物のお金と来たら五円も入っていなかったろう。……いいかね。そして、それに引きかえて、二十銭位だろうと思ったネクタイピンは後でしらべてみると、どうして立派な物で大丈夫五十円の値打はあると云う品物だった。……尤もその女の子だって、何れもともとは何処からか不当な取引で手に入れたのだろうから、それ程高価な品物とは気が付いていなかったかも知れないのだが。……それにしても、私はどうも気の毒でならないのだ。私にはどうしてもあの女の子がそう大外れた悪者とは思えないのだがね。あんな無邪気らしい――と云っても何分暗かったので顔は到頭はっきり見る事が出来なかったのだけれども。ひどく冷めたい手をしていた事だけは覚えている。一体手の冷めたい人間と云うものは、西洋の小説なぞにもよく書いてあることだが、たいてい内気でおとなしいものだ。屹度付近の物蔭にあの子を操っている悪い奴が隠れていたのに違いないと思う。……話と云うのはそれだけだよ。で、つまり私はその時以来、このネクタイピンに対する相応の代価を、その女の子に遇ったならば返してやろうと心がけていたのだ。だが、それはどうも無駄らしい。もう時日も大分経ってしまったし、そうかと云って、警察に頼める性質のものではなし、それに第一肝心なその子の人相が私自身にすらはっきりと見とめられてはいなかったのだから。……そうしてみれば、その子に、たとい身なりだけなりと似通っている君に、――そしてまた、変な事を云うようだが、その子だってどうせ銀座辺にそうしていたのだから、やっぱり君たちの知合かも知れない――その君に、この五十円を上げるのは満更無意味でもなかろう。……どうだい?ね、わかったろう。だから、遠慮しないでこれを全部持って行く方がいいよ。」
 井深君は、そう語り終えて娘の方を見た。
 すると、おどろいたことに、娘は両手を顔におし当てて、シクシクと泣いているではないか。そして泣きじゃくりながら云うのである。
「――あたし、……あたし……なんて悪い子なんでしょう。……すみません、すみません。あなたみたいな良い方にそんな事をするなんて……」
 井深君はびっくりした。
「おや、君は何を云い出すのだ? 何を泣くんだ?……」
「あたし……あたしがその悪い子だったのよ。」
「え、君が?!」
 井深君はハタと当惑した。なぜと云って、井深君の今話して聞かせたのは、便宜上、そして無論揶揄半分の気持も手伝って喋った全然根も葉もない井深君一流の作り噺だったのだから。タイピンは、つい一月程前に新しく買ったものである。
(どこまでも途方もない小娘なのだろう……)
 遉の井深君も呆れ返ってしまった。が、なんぼなんでも今更自分でそれをぶち壊わすわけにも行かない。井深君はまるで魔法にでもかかったような頼りない気持で娘の肩に手をかけて云ったのである。
「――もういい。もういい。泣くのはお止し。私は最早や何とも思ってやしないのだから。……いや、それどころか、今も云った通り私はむしろ気の毒にさえ感じていたのだ。」
「すみません。すみません。……あんた本当にいい方ね。あの時だってそう思ったのだけれど。……だけど、あの時のあたしの顔を思い出せないなんてないわ。ねえ、あたしだったでしょう?……あたしの顔、よく見て。ねえ、もっとそばでよく見てちょうだい。……」娘はそう云い乍ら目や鼻や顔が涙ですっかり濡れ輝いている頬を井深君の顔のすぐ前まで持って来た。そして井深君の両手をつかんで、
「それから、あたしの手? ね、ほら、冷めたいでしょう。まるで氷のようだわ……でも、今は冬だから当にならないこと?……」
「うん、……ほんとに、君だったかも知れない。いや、全く君だったようだ。」と井深君はほとほと弱って云った。「しかし、そう判ったらなおのこと結構だ。このお金は当然君の物と云えるわけだ。だから早く蔵いなさい。私はもう帰らなければならないのだよ。」
「嫌だわ、あたし、嫌だわ。あたしはもう五円のお金だって欲しくないの一銭もいらないの……」
「これ程事の道理がはっきりわかってもかい? 何という聞きわけのない子だろう!」
「どうしても嫌だわ。なんでもかんでも貰わなければいけないのなら、いっそそのネクタイピンを貰うわ。」
「莫迦な、こんなピン十円にもなりやしない……」
「あら! でも、あんた、今五十円位するってそう云ったでしょう。」
「うん、それは、併し、買値の話だよ。売るとなるとなかなかそうはいかない。」
「あたし売りやしなくってよ。だから、それをちょうだい。」
「わからずやの子だね――」
 井深君はそれでも為方がないので、タイピンをば取って娘に渡した。
「まあ、素敵!……ちょいと、あたしにだって似合うでしょう。」
 娘は心から喜ばしそうに、そのピンを橙色の胸にさして、ちょっとポーズをしてみせながら明るい蓮葉な声で笑った。
「さあ、ほんとにそれでいいかね。……それでは、それでいいものとして、私はもう帰るよ。」
「待って。あたしも帰るわ。」
 それから二人はその家をカフェ・マンゲツを出た。おもてには雪がさかんに降りしきっていて地ベたはもう隙なく塗りつぶされてしまった。二人とも傘がなかったので、再び雪に塗れ乍ら電車道まで歩いた。娘のお河童頭とオレンジ色のジャケツとは忽ち真白になった。
(あんなタイピンなんか貰うよりも、なぜ外套でも買うことをしないのだろう! 考えれば考える程へんな娘だ――)
 井深君は娘のその痛々しい有様を何とも云えない心持で眺めたのであった。
 電車道に出ると、ふと娘は立ち止まった。そして、ひどく愁しそうな顔をして井深君を見上げて云ったのである。
「あたし、やっぱりお返しするわ、このピン……」
「うん、それがいい。それがいい。そして、やはりお金を持っておいで――」
 井深君は、ほっとした気持で、直ぐ外套と上衣の釦を外してふところに手を差し入れた。すると娘はあわただしくそれを押え止めて、
「嫌よ、嫌よ。お金なんか!……あたし、つまんないわ。」と殆ど泣きそうな声でそう云うのである。
「だって、それでは可笑しいじゃないか――」
「いいの。その代り、お願いがあるのよ。このピンを、もう一っぺん私の手であなたにささせて下さらないこと?……おいや?」
「ちっとも嫌なことはないが、しかし……」
「有難う!」
 娘はちょっと背延びをし乍ら、井深君の首に片腕を巻きつけて、そしてそのタイピンをさした。それからそれが済むと、両手で井深君の耳をひっぱって、井深君に雪だらけの目と鼻と口とで接吻するが早いか、「サヨナラ!」と叫んで、威勢よく雪の中を駆け出して消えてしまったのである……

    *    *    *

「……僕は、それで呆然としてしばらく其場に佇んでいた。……」と井深君は鳥渡言葉を切って、軽い溜息を一つ吐いた。
「なんだ。それでお終いかい? いやはや! 僕たちは何も君のローマンスを聞く筈ではなかったのだが――」と聴き手の一人が苦情を申し立てた。
「それでお終いにしてもいい。――それだと、それっきりだと誠に可憐でいいではないか。……が、残念なことに未だ少しあとがある。……それは、なぜ僕がその場に雪だるまのようになり乍ら呆然と立ち尽してしまったかと云うことだ。君たちに解るかね?」
「なぜだ?」
「つまり、僕は自分の愚しい思い付きの嘘から、そのオレンジ色の娘に如何にして僕のふところの紙入を盗み取るかを教えてしまったからさ――」
「なる程!小娘のために見事にしてやられたのだね。……が、ところで、どっこい、その紙入の中はまた古新聞の束ばかりだったと云うのだろう! こいつあ傑作だね。は、は、は、は……」と始終探偵小説ばかりを愛読している友がしたり顔に云って笑った。
「いやいや、早合点をしてくれては困る。それ程あくどい洒落ではない。――それに、そんな酷い細工をするには、相手はあまりに可愛らしい好い子だった。ざっと二千円。紙入の紙幣は全部本物だったよ……」井深君はそう云って口を噤んだ。
「すっかり本物だって? 二千円!……」不思議な不安の影が居合せた人々の顔に行き渡った。
 井深君は、そこでこうつけ加えた。
「諸君、そんなに妙な顔をするものではない。紙幣は正しく全部本物だったが、安心したまえ。――この話全体は僕が考え出した嘘なのだから。」



底本:「アンドロギュノスの裔」薔薇十字社
   1970(昭和45)年9月1日初版発行
初出:「新青年」1927年3月
入力:森下祐行
校正:もりみつじゅんじ
ファイル作成:もりみつじゅんじ
1999年9月14日公開
2000年11月11日修正
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