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或る母の話(あるははのはなし)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-11-26 8:33:17  点击:  切换到繁體中文

  1

 母一人娘一人の暮しであった。
 生活には事かかない程のものを持っているので、母は一人で娘を慈しみ育てた。娘も母親のありあまる愛情に堪能していた。
 それでも、娘はだんだん大人になると、自分の幼い最初の記憶にさえ影をとどめずに世を去った父親のことをいろいろ想像する折があった。
『智子のお父さんは、こんなに立派な方だったのだよ――』
 母親は古い写真を見せてくれた。
 額の広い、目鼻立ちの秀でた若者の姿が、黄いろく色褪めて写っていた。
『ほんとに、随分きれいだったのねえ。――お母さん、幸せだったでしょう?』
『そりゃあ、その当座はね――』
『思い出して、愁(かな)しくなること、あって?』
『死んでから、もう二十年近くにもなるんだもの。それに、この写真みたいに若い人じゃ、まるで自分の息子のような気がしてね。……』
 母親はそう云って笑った。だが、娘は、母親の若よかな靨(えくぼ)のある頬が鳥渡の間、内気な少女のように初々しく輝くのを見た。
『そうね、あたしだって、こんな若いお父さんのことを考えるのは変な気がしてよ。』
『いっそ、お前のお婿さんなら、似合いかも知れない――』
『ひどいお母さん。――でも、お母さんは、どうしてそれっきり他所へお嫁にいらっしゃらなかったの?』
『どうしてって。――お前のお父さんのことが忘れられなかったし、それにあんまり悲しい目に会うと、女は誰でも臆病になってしまうんだろうね。』
『さびしかったでしょう?』
『少しの間さ。すぐにお前が、みんな忘れさせてくれるようになったもの。……』
 母の声は草臥(くたびれ)てでもいるように聞こえた。
 娘は、若い時になら自分よりも器量よしだったに違いない面影の偲ばれる母親が、そんなに早く青春から見捨てられてしまった運命を考えて胸を窄めた。

  2

 その年の春、智子は女学校の高等科を卒業して、結婚を急ぐ程でもなし、遊んでいるのも冗(むだ)だったので、小遣い取りに街の或る商事会社へ勤めた。
 朝霧の中に咲いた花のような姿が、多くの男たちの目を惹いたのは云う迄もなかった。智子は、併し、賢い考え深い生まれつきだったので、何時も上手に身を慎しむことが出来た。
 さて、夏の始めだった。――
 智子は、或る日、事務所と同じ建物(ビルディング)の地下室にある食堂へ昼食をとりに降りた。其処は何時でも混んでいるので、大てい外へ出て食事をする習慣だったが、その日は仕事が忙がしくてそんな余裕がなかった。
 やっと隅っこの方に、たった一つ空いた卓子(テーブル)を見つけて、リバアのサンドイッチと玉蜀黍(コオン)のシチュとを誂えた。ところが、サンドイッチを半分も食べない中に、同じ卓子に彼女と差し向いに、更に一人の客が席をしめた。
『リバアのサンドイッチと玉蜀黍のシチュ。大急ぎで!――』とその客が給仕に命じた。
 智子は顔を上げて、自分とすっかり同じ品を注文する客の方を見た。青い仕事衣の胸からネクタイを着けない白い襯衣(シャツ)の襟をはみ出させている体格のいい青年だった。青年は食事などよりも、もっと他に心を充していることがあるらしい様子で、ぼんやり娘の食物の皿を眺めおろしていた。その恍(とぼ)けた大きな眸とぶつかった時、智子は少なからず狼狽した。
 青年の方でも、俄かに鼻さきへ突きつけられた美しい娘の顔に気がついて、どぎまぎしながら羞明(まぶし)そうに横を向いた。
(はて?――)と智子は考えたのである。確かに何処かで見たことのある親しい眼だった。……直ぐに、それが死んだ父親の写真にうつっている眼ざしだったことを思い出した。
(まあ、それに額の立派なところ迄よく似ているわ――肩幅は少し広すぎるけれど……でも、お父さんは夭折(わかじに)なすったのだから、こんなに元気そうではなかったのに違いない……)
 併し、彼女はあんまり長いこと、知らない若い男を瞶めているのは非常に不躾だと気がついたので、いそいで食事を済ませて卓子から離れた。晩に家へ帰ってから母親にその話をした。
『綺麗な男の人はみんなお父さんに似ているかも知れないね。』と、母親は娘の大袈裟な話ぶりを聞いて、笑い笑い云った。『さもなければ、お前が心の中でその人を好きになったんだよ。好きな人なら、どんな風にだって良く見えるから。……けれどもお父さんは若い娘を狙うような真似なんかしなかった。』
『あら、同じ食べものを誂えたからって、まさか狙ったとも云えなくってよ。お母さんと来たら、随分苦労性ね。大丈夫。あたし、お母さんなんかに些とも心配かけやしないわ。』
 娘は何時になくはしゃいだ調子で答えた。
 次の日、出勤の折、会社の扉口の前で智子は再び青年と出遇した。青年は、恰度廊下を隔てて筋向いになっている自動車会社の事務所から姿をあらわしたところだったが、彼女と顔を見合わせると、周章てて眼を外らせて、まるで慍ったような硬い表情を浮べながら、玄関の方へ歩み去った。
 智子が考えてみるのに、その青年は前から其処の自動車会社に勤めていて、これ迄も幾度かお互に顔を合わせながら、どんな男の社員たちにも殆ど関心をもたなかった彼女だったので、つい見過ごしていたのかも知れなかった。
 その後、彼女は屡(しばしば)彼の姿を気にとめて見かけるようになった。そしてやがて、彼がその自動車会社の技師で浅原礼介と云う名であることや、またこの頃自動車の発動機に就いて、何か新発明を完成させて、相当嘱望されていることなどを知った。

 土用に入って最初の夕立がした。恰度退勤時刻だったが、雨支度がなかったので、智子は事務室に居残って、為事(しごと)の余分を続けながら、晴れ間を待っていた。日が暮れ落ちても雨脚は弱らなかった。それで、待ちあぐんで、兎も角建物の玄関迄出て見た。通りがかりのタクシィでもあればと考えたのだが、そんな裏町を退勤時刻過ぎて通り合わせる車は滅多になかった。近所の自動車屋へ電話をかけてみると、生憎みんな出払っていた。
 智子は途方に暮れたまま、青白い街燈の中に銀色に光る逞しい雨の条を眺めていた。
 すると、其処へ彼女の背後から靴音をさせて浅原が出て来た。浅原は、雨だれに向ってしょんぼり佇んでいる智子の姿を一瞥して、鳥渡躊躇したらしく、立ち止まりながら暗いひさしの外を仰いだが、さて上衣の襟を立てると、人道を横切って、そのむこう側に着けてあった小さな二人乗箱型の自動車(クーペ)[#「箱型の自動車」に「クーペ」のルビ]の扉をあけてそれへ乗った。智子も先刻からその自動車には気がついていたのだが、遉に浅原の乗用とは考え及ばなかった。
 浅原は硝子窓の内側から、熱心な眸で智子の方を瞶めた。
 (あの人、乗せてくれるかも知れないわ――)
 智子は、そんな期待を感じて、胸をかたくした。
 だが、そのまま浅原のクーペは軽いエンジンの音を響かせて滑り出した。そして、哀れな智子を置いてきぼりにして、忽ち赤い尾燈(テイルライト)を鳶色の雨闇の奥へ滲[#底本では、さんずいに参]ませながら消えて行った。智子は、苦笑などでは紛らわしきれない程、ひどく当の外れたような物足りなさを覚えた。人けのない、雨のビショビショ降る事務所(オフィス)街の薄暗がりに、たった一人立っている自分が俄かに佗しい気さえした。……
 到頭、智子は本通りまで濡れて行くことに決心した。そこで、袴(スカアト)の裾をつまんで、甃石の上を歩き出そうとした時だった。
 行く途の町角を強いヘッドライトの光芒が折れたかと見ると自動車が一台、沫を上げながら走って来た。そして、智子が、ひょっとしてそれが『空き車』の札を掲げてはいまいかと思って、踏み出した爪先を、ためらっている目の前へ来て、ピタリと停車したのである。『空き車』の札は何処にも見当らなかった。
 ところが、扉を開けて降りて来た運転手が、智子へ慇懃に挨拶をしたのである。
『お待ち遠さまでした。』
『はあ?……』智子はびっくりした。
『タクシィでございます。ただ今、表通りでクーペを御自分で運転していらした紳士の方から、そう云いつかってまいりました。あなたさまではございませんでしょうかしら?』
 智子は、それで漸く合点することが出来た。
『ええ、あたし、――あたしよ。御苦労さま。』
 草色天鵞絨(ビロウド)のクッションの中に身を落ち込ませて、智子はホッとした。すると、何だか曾てない明るい嬉しさと一緒に、おかしさが込み上げて来て、ひとりでクックッ笑えてならなかった。
 郊外の住居へ着いた時に、代金を払おうとすると、すでに浅原から貰ってあると云う運転手の言葉だった。

  3

 秋になって――
 智子から、彼女が浅原と婚約したと云う話を唐突に聞かされた時に、母は遉におどろいた。娘の利発な思慮深い性質を充分信じていたので、その恋愛についても、危懼する必要は殆どないわけだったが、不運な想い出をもった母親にしてみれば、矢張り心もとなく思われたのであろう。

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