再び、夏が廻って来た。彼女の赤い煙突は朝夕煙を吐いた。彼女は二階へ上って毎日隣の邸を眺めた。窓敷居に凭って窓から首をさしのべると紅がら色の裏木戸も見えた。彼女の振分髪の先端には、今年も去年と同じ水色をしたリボンが華奢なはなびらのような姿に結ばれていた。併し、隣の邸からは、彼女の待っているような歌の声も聞えて来なければ、また背の高い青年の姿も現われなかった。………
彼女は一人で月見ケ丘へ行ってみた。港の海は瑠璃色に輝き、船着場には新しい黄色い旗が上がっていた。
(なぜ、あたしの赤い煙突はあのように元気よく煙を吐くのかしら……そんな筈ではないのに!……そんな筈ではないのに!……)
彼女はそんな小さな赤い煙突に裏切られた自分を可哀相に思って泣いた。
秋の初めになって到頭、青年から手紙が来た。
[#ここから引用文。本文より一字下げ。行あけなし]
僕の好きな人――僕はあなたが好きです。けれども、それはいけない事なのだそうです。あなたのお父さんもお母さんもそう仰有って僕をお叱りになったし、また僕のお父さんもお母さんもそう云って僕を叱りました。
僕も明日、イギリスの学校へ入るので、ここの家に、そしてあなたの二階の窓にもお別れします。
もう一生会えないかも知れません。
あなたが何時迄も丈夫でいられるように神様へお祈り致します。さ よ な ら
それから、うちの赤い煙突は、これから後、また煙が出なくなるかも知れませんけれども、心配しては駄目ですよ。あんな小っちゃな煙突が、あなたとどんな拘りがあるでしょう。ねえ、今日からそんなつまらない事は忘れておしまいなさい。きっと忘れてしまわなければいけませんよ。
[#ここで引用文終わり]
彼女は四つ折りの白い厚い紙に書いてあるその文句を読んでいる中に、段々胸の中に大きな穴が開いて、そしてその奥から何時ものとはまるで異う泪が湧きあふれて来るのを感じた。
間もなく、青年の言葉通り、赤い煙突は再び煙を吐くことがなくなった。どうしてだか彼女には全くわからなかった。
けれども彼女は、
(――あたしの赤い可哀相な煙突は煙を吐かない。でも、やっぱりそれが本当だわ。……可哀相な煙突!……そして可哀相な可哀相なあたし!)と満足して、泪でぼんやりした眼で、青年のいなくなった西洋館の屋根を眺めた。
十年の歳月が流れてしまった。
彼女の両親はすでに死んでいた。彼女は結婚して、西洋館の隣とは異う家に住んでいた。町端れの、月見ケ丘に近いところであった。したがって最早や、赤い煙突を可哀相に思うこともなかった。併し、彼女は決して幸福ではなかった。彼女の良人は相当腕のいい機械技師で人間も悪くなかったが、酒を飲むと病弱な妻をひどくいじめた。それに一層悪いことには、彼女は近頃になって、毎日のように執拗な――彼女の肉体の分解が大して遠くはないことを予知させるような熱に襲われて殆ど床をはなれることがなかった。それで良人は家へ帰らない日が多くなった。しまいには一週間にたった一度も帰らないことがあった。そして家計(くらしむき)にも困るようになった。
彼女は子供の時からずっとそうして来たように二階の窓の近くに床をのべさして寝ていた。けれどもそこの窓から見えるものは西洋館の屋根の三本煙突ではなかった。碧い色の海と月見ケ丘のきりぎしとであった。月見ケ丘には恰度月見草がさかりであった。たそがれが迫る頃、彼女は窓敷居に凭掛って首をさしのべて淡黄色い花でいっぱいになった丘の方を眺めた。彼女の顔の両側には最早や大きなリボンを結んだ振分髪は垂れていなかった。長い病気のために、ざらざらに脱けて少なくなった毛が、夕風に悲しげにそよいでいた。
(――可哀相な、可哀相なあたし!……)
彼女は十六の彼女と少しも変らない泪を滾して子供のように泣いた。彼女の感動し易い性質は年と共に決して薄れて行きはしなかった。……併し、到頭その無限の泉のようにさえ思えた彼女の泪も涸れる時が来た。
或る日、一人の老婆が彼女を訪れた。町で芸者をしていた、老婆にはたった一人の娘が彼女の良人と一緒にそこの港から姿を消してしまったと云うのである。
――極道な娘でございます。お気の毒なお嬢さま……」と老婆はしょぼしょぼした眼を拭いながら彼女に詫び[#底本では「詑び」と誤植]た。
彼女は――お嬢さま――と云う言葉を聞いて、その老婆を何処かで見たことがあるような気がした。そして、昔あの三本煙突の西洋館にいた炊事婦であったことを思い出した。
……三本の煙突! 彼女の胸は俄に痛み初めた。
――ねえ、お婆さん。もうせんお婆さんのいたお邸の屋根の三本煙突の真中の一本は、何時でも煙を吐かなかったわねえ……」
――煙突でございますって?」老婆は遉に彼女の突飛な質問を解しかねたようであった。
――ええ、そう。……でも、ほら、十年位前にちょっと一年ばかし煙が出ていたことがあったわね。お婆さん御存知?……」
――おやまあ、お嬢さまこそよく憶えていらっしゃいましたこと……」と老婆はようやく思い出して云った。「そうそう、そんな事もございました……なんでも、あの時は恰度御本家の若様が来ていらっしゃった頃でございます……若様は或る日不意に、あの赤い煙突から煙を出すんだと仰有いまして、危いところを梯子をかけて煤で真黒になりながら、赤い煙突の下へ管を通して、無理矢理に煙を出したんでございます。……なあにねえ、お嬢さま、あの赤い煙突は初めっから壊れて――煙穴が続いていないので、ただまあ飾り同様のものだったのでございますよ。……どうしてまあ、わざわざあんな莫迦げたものをつけたのでございますか……」
そこで、彼女の心からはどんな悲しみも消え失せた。
(――飾も同様だって!……初めっから壊れていたのだって!……若しも、あの赤い煙突があたしだったとすれば、あたしは初めっから生まれて来る筈じゃなかったのだわ!……)
彼女は老婆が帰って行って一人になると、古い手筥の中から、久しい間大切にして蔵ってあった四折の厚紙に書いてある手紙を取り出して、それを声を出して読んで見た…………
[#ここから引用文。本文より二字下げ。行あけなし]
僕の好きな人――僕はあなたが好きです。けれども、それはいけない事なのだそうです。あなたのお父さんもお母さんもそう仰有って僕をお叱りになったし、また僕のお父さんもお母さんもそう云って僕を叱りました。
………………
[#ここで引用文終わり]
――あの方はあたしより八つ年が上だったから、これを下すった時は二十五だわ。……まあなんて可愛らしいお坊っちゃんだったのでしょう。二十五にもなってこんな手紙を書いたりして! まるで十八位にしか思えないわ……それに煤だらけになりながら梯子をかけて煙穴のない煙突へ管を通しに上ったりなんかして……可笑しい人ね……そうそう、あたしの肺炎が快くなりかけて、はじめてあの煙突から煙の出ているのを見付けて笑った時、あの人は泣いていたわ……けれども、もう、みんな……みんな……台なしだわ!……でも、若しあの人が何時迄もあの赤い小いさな煙突の下に住んでいてくれたなら、あの煙突はまるで最初から飾物でなぞなかったような顔をして、毎日々々煙を吐きつづけたかも知れなかったのに……」
それから彼女はその手紙を幾つにも幾つにも細かく引き裂きはじめたのであった。……
底本:「アンドロギュノスの裔」薔薇十字社
1970(昭和45)年9月1日初版発行
入力:森下祐行
校正:もりみつじゅんじ
ファイル作成:もりみつじゅんじ
2001年11月16日公開
2002年1月24日修正
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