私が故郷の街から筑波山を見て過ごした月日は随分と永いことだった。
その麓には筑波根詩人といわれている横瀬夜雨氏がいた。故長塚節氏がいた。
そこから五六里の距離にある故郷枕香の里(古名)の青年間にも文学熱が盛んだった。私もいつかそのお仲間に入って詩や歌を作るようになった。そしてその頃河井醉茗氏の主宰していた女子文壇に投書していた。それを機会に横瀬氏から幼稚な汚い原稿を添削して戴いたり、質疑に対して通信教授をして戴いた。その頃夜雨氏には多くの女のお弟子があった。女子文壇は今の文壇に多くの女性作家を送った。その頃の文壇には、自然主義の運動が勃興していた――私はそうした少女時代の追想に耽りながら、結城の街から自動車に揺られていた。
私がまあ横瀬夜雨氏を訪ねたいと思っていたのは何という永い間の宿望だったろう。
少女時代に東京へ出てしまって、時々国へ帰りはしたが東京にいる間は自由なお転婆な自分であっても、一度故郷へ足を踏み入れると、真綿で頸を締められるような老人連の愛情のとりこになって、周囲から降るような干渉を浴び、一歩も他へ出られない中に、いつでも予定の日数が尽きてしまう。
そういった工合で決して夜雨氏を訪ねる希望が果たせないのだった。
その中にとうとう私は夜雨氏の信用を失ってしまった。余り度々師を失望させたからだ。
乗合自動車は街を出外れると、細い田舎道を東へ東へと疾駆した。動揺の激しい時は、車ごと水田の中に抛り出されそうになった。
麦の穂を渡ってくる青い風は、何という新鮮な野の匂いを誘ってくることだろう。
道の曲がり角、曲がり角には、道しるべのように雨引観世音と刻んだ小さい碑があった。
れんげ草の花が、淡雪のように春の野を埋めていた。
停留所ごとに、小さい赤旗が百姓家の軒に顔を出している。手拭を冠った、野良着のまんまの農家の主婦が、裾をはしょって、急に自動車の行手に立ち塞がったかと思うと、右手を挙げて、「ストップ」と叫んだ。
そしておかみさんは私の隣席へ腰かけた。私は今更のように、自分が故郷にいた頃からの時代の進展を見せられたように感服する。
鬼怒川を渉った頃から、セルの羽織に鳥打ちをかぶった芸人風の男が四五人同乗した。絶えず小唄みたいなものを口ずさんでいた。女が向こうから寒そうに橋を渡ってくると、男達は何とか叫んで媚を送った。
沙沼を見て過ぎると、自動車は下妻の街に入った。東京連鎖劇一座という長方形の色の褪めた赤い旗が、ペロリと一枚、事務所のような建物の前に垂れていた。
その日は曇ってはいたが、水田の彼方に筑波は長い裾をひいて平和な姿に煙っていた。
もうそこから横瀬夜雨氏のお家はいくらもない。古い大きな門を入ると、障子の硝子から此方を覗いている師のお顔があった。
小さい百合子さんが喫驚した顔をして私を見つめていた。
南向きの縁側近くに師の机は据えてあった。洋傘を縁側へ置いて障子をさっと開けた時、まず私の瞳を射たものは、正面の仏壇の夥しい累々とした位牌だった。金色に光っていた。古い先祖代々のであろう。
「余り嘘ばかり云って先生や奥さんの信用を失くしましたから、譬え一時間でも二時間でもお目にかかり度くて参りました」
私はそういって坐った。
「あははははそうなければ信用の恢復ができませんからね……」
師は愉快そうに笑った。
奥さんは桑摘みにゆかれてお留守だった。
百合子ちゃんへおみやげの折紙を出して上げると、百合子ちゃんは真面目くさってそれを開け初めた。開けて見てさも心から嬉しそうに、
「けっけっけ!」と笑った。
私はそんなに悦んで貰った事がない。私はそれだけで今日の訪問にすっかり満足を感じた。
どんな御馳走よりも賛辞よりも、その子供の、「けっけっけ!」という笑い声の純真さに打たれた。
絲子さんという姉さんの方の子が学校から帰ってくる。姉妹で折紙の奪い合いを始める。
奥さんも帰って来られた。私は初対面だった。質実な素朴な、心の細やかそうな、そして勝ち気らしい印象を受けた。
師は昔を懐かしそうにぽつりぽつりと話し出される。今は詩人としてよりも地主として接していられる当面の問題について色々話して下さる。私は時計を気にしいしい時間を過ごした。日の暮れない中に故郷へ帰ろうと思うからだった。
「少し早く家を出て大宝の八幡様を見ていらっしゃい。」
と師はすすめてくれた。それはこの地方で有名な神社だからだった。
奥さんが百合ちゃんをおんぶして私を送って下さる。東京の話、文壇人の噂等をしながら、私設鉄道の大宝駅まで歩く。
水田を渡ってくる風は寒かったが、なだらかな青葉の林に囲繞された淋しい大宝の小駅、私はある満足を持ってそこを発った。
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