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私の生ひ立ち(わたしのおいたち)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-11-22 10:51:04  点击:  切换到繁體中文



私の生ひ立ち 七 狐の子供

狐の子供

 三阪(みさか)先生は私を三年級から四年級へ掛けて教へて下すつた先生でした。人一倍羞恥(はにかみ)の強い私には、小学校から女学校を通じて十幾年間に、真底から馴れて愛して頂くことが出来たのは、この先生だけでした。その優しい三阪先生を上に頂いて居(を)ります時に、私は思ひ出しても不快な脅迫者を前に置いた日送りをして居ました。先生はもとより夢にも御存じのないことです。それはまだ三年生の時のことでした。時間が来て教場へ入るために砂利の敷かれた前の庭で私等は列を作るのでしたが、その時まで運動に夢中になつて居る人達なのですから、それがかなり入り乱れて混雑なものになるのです。私はある日のその時に友達の足を踏みました。その人は靴を穿(は)いて居て私は草履穿(ざうりばき)だつたのです。
「あつ、痛(い)た、鳳(ほう)さん。」
 はつと思つてその人の顔を見ますと、それは柴田(しばた)と云ふ子でした。
「ひどい、これ見なはれ。」
 私がおづおづと柴田の前へ出した足を見ますと、それ程強く踏んだとも感じませんでしたのに、靴の先の釘が少し上へ上つて居ました。
「御免なさいな。」
と私は頭を下げました。
「先生。」
と柴田は先生をお呼びして、そして私の不都合を訴へました。こんなに迄と云つてその靴の先も見せました。
「靴がそんなになる程とは少しひどい。」
と先生は私を見てお云ひになりました。けれどもそれは唯(ただ)原告を宥(なだ)めるのに有効なために私へお云ひになつただけでしたから、私自身は罰らしい苦しい気持でお受けしませんでした。私はそのために一層柴田さんに済まない気がしたのでしたから、時間後に更に詫(あやま)らうとしました。
堪忍(かに)して上げない。」
と柴田は云ふのですから私は仕方がないとそんな場合には思はなければなりませんのに、要のない努力をして心を貫かうとしました。
「ほんなら私の云ふこと聞きまつか。」
「聞きます。何んでも。」
 かう云ひながらも私は限りない不安を感じて居ました。
「あんた毎日おやつを貰ふでせう、お菓子やなんぞ。」
「はあ。」
「それを残して置いてその翌日(あくるひ)学校へ持つて来て私に頂戴(ちやうだい)。毎日よ。」
「はあ。」
 私はよくも考へずに認諾を与へてしまひました。
 私はその日からおやつを半分より食べられないことになりました。半紙で小く包んで翌朝学校へ持つて行つて柴田に渡しました時、その人はどんなに喜んだか知れません。私は半月程の後(あと)にもう義務は済んだかと思ひますので、
「もう堪忍(かに)して下さつて。」
と問ひました。
「もうお菓子を持つて来るのが厭(いや)なんだつか。」
 柴田は恐い顔をした。
「厭と云ふのぢやありませんけれど。」
「鳳さん、私が先生に云ふたらあんた困ることがありますよ。」
「何です。」
「あんた学校へお菓子を持つて来ていゝのだすか。あんたはそないに悪いことしてなはるやないか。」
 私は貢物のやうにして毎日柴田の手へ運んで居る物は、学校で厳禁されて居るものであると云ふことを此(この)時まで気附かずに居たのでせう。どんなに柴田のこの脅迫は私を苦しめたものであつたか知れません。私はものもよう云はずにじつと相手の顔を眺めて居ました。
「悪いことしてなはるのやろ。先生に知れたらどないなことになるか知つてますか。」
 私は泣き出しました。そしたら柴田は背(せな)を撫でました。
「泣かんでもええわ。私云へへんわ。あんたさへもつと何時(いつ)迄もお菓子をくれたなら。」
「また学校へ持つて来るのですか。」
 私は呆れながら云ひました。
「かうしますわ、これから私が毎日あんたの家(うち)へ貰ひに行くわ。三時半頃にきつと拵(こしら)へておいとくなはれ。」
「さう、そんならよろしいわ。」
 私はまたうまうまとこんな約束をさせられてしまひました。
 三時半頃に私が店へ出てのれんの間から外を見て居ますと色の白いひどい吊目の口の前へでた、丁度(ちやうど)狐のお面のやうな、柴田はにこ/\笑ひながら川端筋(かはばたすぢ)を東から出て来るのでした。電信柱の横で私から紙包を受取ると、狐の子供はまた飛ぶやうに帰つて行くのでした。
 一月(ひとつき)も立つて後(のち)に私はまた新しい苦痛に合はなければなりませんでした。私と柴田の秘密を何時(いつ)の間(ま)にか知つた人が出て来たのです。それは和田(わだ)と云ふ人でした。
「あんたは柴田さんに毎日お菓子を上げてなはるんだすな。」
 私は黙つて居ました。
「隠しても知つてます。あんたあんな人にお菓子なんぞ取られてないで私におくなはれ。そやないと先生に云ふ。」
 これもまた脅迫者だつたのです。
「柴田さんには初めに私が悪いことをしたのでしたから。」
「私にさへくれゝば柴田さんがあんたに意地悪をしても私があんたに附いて上げる。」
「かうしませう、私、柴田さんとあなたの二人に上げませう。」
 心弱い私はまたこんな約束をしてしまひました。それから後(のち)の私はもうお菓子も果物も見るだけでした。柴田の方ではもうちやんと和田のことを知つて居ました。そして私への要求がだん/\烈しくなつて来ました。
「お金を包へ入れて頂戴。」
 かう柴田はある時云ひました。私はまたこれを行ふ道を考へねばなりませんでした。私はお祖母(ばあ)さんなどに貰つてありましたお金の中の銅貨を、二三枚だけ更に小銭に変へて貰ひました。毎日二厘(りん)づつ柴田の菓子包へ入れてやりました。私は自分は弱者で強いものにいぢめられて居るのであるとは思ひながら、お銭(ぜに)の入つた包などを貰ひに来るのは、丁度年越しの晩の厄払ひの乞食のやうで、下等な子供であると狐の子供に対する侮蔑は、もとより十分持つて居ました。和田もお銭を入れてくれと云ひ出しました。これも必然の結果のやうに私は思つてゐました。その三月(みつき)程のうちに私は心理的にいろ/\の経験をしました。ある日、
「私は今日までのことが悪かつたと思ひますから先生に自分から申してお詫びをしますからさう思つて下さい。」
 私はかう柴田に云ひました。私にはもうそれを云ひ出すだけの勇気が出来て居たのです。その時柴田が許してくれと云ふのにどんなに骨を折つたでせう。
 私は女学校へ行つて居る頃に、一度街で柴田に逢ひました。柴田は島田を結(ゆ)つて居ましたが顔は昔のあの顔でした。


私の生ひ立ち 八 たけ狩

たけ狩

 和泉(いづみ)の山の茸狩(たけがり)の思ひ出は、十二三の年になりますまで四五年の間は一日も忘れることが出来なかつた程の面白いことでした。他家(よそ)の子には唯事(たゞごと)のやうなそんなことも、遊山(ゆさん)などの経験の乏しい私には、珍しくて嬉しくてならなかつたのです。誰も誰も堺(さかひ)の子供が親達や身内の人に伴はれてする春の浜行きも、私は殆どしたことがありませんでした。私は友染(いうぜん)の着物なども着ないうちに、身体(からだ)の方が大きくなつてしまふことが多かつたのです。
 あの茸狩は牡丹(ぼたん)模様の紫地の友染に初めて手を通した時です。帯は緋繻子(ひじゆす)の半巾帯(はんはゞおび)でした。大戸は下されたままで、横町(よこまち)に附いた土間の四枚の戸が開けられ、外に待つて居る車の傍(そば)へ歩んで出ました頃、まだ街は真暗でした。四時頃だつたと後(のち)に母は云つてました。真先(まつさき)の車は父で、それには弟が伴はれて乗つて居ました。私は母の膝の横に居ました。お菊(きく)さんと云ふ知つた女の人と、その子のお政(まさ)さん、私の従兄(いとこ)二人、兄、番頭、その外(ほか)の人は忘れましたが何でも十何輌と云ふ車でした。両側の家の軒燈(けんどう)のまたたいて居る大道(だいだう)を、南へ南へと引いて行かれるのでした。湊(みなと)の橋を渡りますと正面に見える大きい家で鶏(にはとり)が啼(な)きました。何時(いつ)の間(ま)にか私は母に倚(よ)りかかつて眠りました。
「これ、これ大鳥様(おほとりさま)のお社(やしろ)だよ。」
 肩を叩かれて私が目を見上げますと左手に大きい鳥居(とりゐ)があるのでした。母は車上で手を合せて拝(はい)をして居ました。まだ薄暗いのですが、奥の方へ立ち並んで燈籠の胴が、ほのぼの白く木(こ)の間(ま)から見えました。その暁(あかつき)の大鳥神社の鳥居の大きかつたことは、全(まる)で人間世界を超越したもののやうに九歳(こゝのつ)の私には思はれたのです。帰りには上までもつとよく眺めませうと通つてしまつた後(あと)では思つて居ました。自身の行く山の名も村の名も私はよく知らないのです。今でも知りません。何(いづ)れ国境の山なのでせうが、紀州境ひなのか、河内(かはち)境ひなのか知りませんでした。道の細くなつたり、坂になつた所になりますと私等は車を降りて歩きました。ある丘のやうになつた村では、従兄が母に命令(いひつ)かつて湯葉(ゆば)を買ひに行きました。それから薪屋(まきや)の金右衛門(きんゑもん)さんの家までは、もう半里程だつたやうに思ひます。畑の間の路が少し広がつたと思ひますと、もう其処(そこ)が私の行く家の座敷の庭だつたのです。車を降りた所に縁側があるのでせう、座蒲団(ざぶとん)の並んだ畳が見えるのでせう、私は驚きました。門口(かどぐち)をくぐらないで直ぐ道からお座敷になつて居る家などを、町家育ちの私は初めて見たのです。
何処(どこ)に松茸が出来て居るのでせう。」
と私はお政さんにそつと云つたりして居ました。
「山までは十町程御座います。」
と金右衛門さんは人々に云つて居ました。お茶を飲んで居ますと縁側の前へ村の子供が大勢集つて来ました。母は袋から用意して来たらしい餅菓子を出して、その子等へ二つづつ程分けて遣(や)りました。どんなに田舎(ゐなか)の子は喜んだでせう。私は初めて母のするいいことを見たと云ふやうにその時は思ひました。下駄を藁草履(わらざうり)に穿(は)き変へて、山へと云つて伴はれた時は、天へ上(のぼ)るやうな気分になつて居ました。
此処(ここ)から上つて頂くのです。」
 かう金右衛門さんに云はれました時、私はその絶壁のやうな山を、どんなに驚いた目で見上げたでせう。何かの木のやゝ細い幹を持つて伝ひ歩きをするやうにして人々は上りました。私などは一番後(あと)だつたのでせう、傍(そば)にはお菊さんとお政さんが居ました。二三間(げん)上ると松葉を上に被(かぶ)つた松茸が一本苔から出て居ました。
「あつ。」
と云つたのは三人一所(いつしよ)でしたが、
「さあおとりやす。」
と譲つてくれましたのが、私にはもの足りませんでした。そのうちもう私は私、お政さんはお政さんと、いくらでも松茸の取ることの出来る所へ来ました。山の外側から内側の窪んだ所へ入つたのでせう。従兄の声や番頭の声がとんきやうに渓々(たに/\)から聞えて来ました。物を云つて山響(やまびこ)の答へるのを聞くのも面白く思はれました。松茸は取つても取つてもあるのですもの、嬉しさは何とも云ひやうがありません。母が何処(どこ)に居るか、弟がどうして居るかとも私は思つて見る間がありませんでした。
「お茶ですよ。」
と呼ぶ声が何処(どこ)からとなしに聞えて来ましたので、私等は暗い木の中から少し上の明るい、幾分道のやうになつた所へ出て来ました。後(うしろ)や横から一人来、二人来して呼び声の起つて居る所を皆がさして行きました。其処(そこ)は山の最も高い所と云ふことでしたが外輪の一角なのです。呼んで居た人、席を二三枚の毛布(けつと)で作つて居る人は、皆金右衛門さんの家の下男でした。大きい松の木の下で、瓦を囲つて枯枝を焚いた上には大きい釜が掛けられてあつて、松茸御飯の湯気がぶうぶうと蓋の間から、秋の青空めがけて上つて居るのでした。其処(そこ)へまた下男の一人は大きい重箱二つを一荷にして舁(かつ)いで来ました。
「さあお子様(こさん)方、お子さん方。」
と呼ばれて毛布(けつと)の上へ草履を脱いで上つた私達は、お重の中のお萩(はぎ)をお皿なしに箸で一つ一つ摘んで食べようとしました。小い従兄は、
「あツ辛(から)。」
と云つて、後(うしろ)向いて木の間から渓の方へ食べかけたお萩の餅を捨てました。塩餡(しほあん)だつたのです。私も面白半分に、
「辛い。」
と真似をして捨てましたが、悪いことをしたと直ぐ思ひました。松茸の御飯や、お汁や、それから堺から待つて来た料理やでおいしいお昼飯は食べましたが、父やその外(ほか)の人の酒宴(さかもり)が、何時(いつ)果てるとも見えませんのが困ることと思はれました。松の木の間からは遠い村里や、続きに続いた山脈の青が眺められました。心が悲しいやうな寂しいやうなものになつて居るのでしたから、弟を誘つたり、従兄を呼んだりして、もう一度松茸を捜しに行くこともしたくないのでした。金右衛門さんの指図で、私等はやつと山を下りることになりました。蜜柑畑へ更に伴はれるのです。酒宴(さかもり)の所で踊(をどり)を見せたりして居たお政さんも一所に行くことになりました。大人達は外(ほか)の道から帰ると云ふことでした。低い山に見渡す果てもない程に多くの蜜柑の木が植つて居ました。青い中に星のやうな斑点が蜜柑に出来た頃です。
「いくらでもおとりなさい。」
と云はれても誰も皆十五六よりは手に持てませんでした。手拭(てぬぐひ)の端へ包んで田舎者のやうに肩へ掛けて歩くのが、どんなに面白く思はれたでせう。しかも私のなどは帰り途(みち)の細い道で、大かたはころ/\と落ちてしまひました。今度の路は金右衛門さんの家の正面でなしに、座敷の左手の庭へ附いて居るのでした。其処(そこ)には鳥兜(とりかぶと)の紫の花が沢山咲いて居ました。

私の生ひ立ち 九 堺の市街

堺の市街

 私はこの話のおしまひに私の生れた堺(さかひ)と云ふ街を書いて置きたく思ひます。堺は云ふまでもなく茅渟(ちぬ)の海に面した和泉国(いづみのくに)の一小都市です。堺の街端(はづ)れは即ち和泉の国端れになつて居る程に、和泉の最北端にあるのです。摂津(せつつ)の国とは昔は地続きでしたが、今は新大和川(しんやまとがは)と云ふ運河が隔てになつて居ます。大和橋(やまとばし)はそれにかかつた唯一の橋です。水に流されて仮橋(かりばし)になつて居たことが二度程ありました。仮橋は低くて水と擦(す)れ擦(す)れでしたから、子供心にはその方を渡るのが面白かつたのでした。河原の蘆(あし)や月見草は橋よりもずつと高く伸びて両側から小い私の髪にさはる程でした。私には年に一度その河原でお弁当を食べる日がありました。それは蚊帳(かや)の洗濯に伴(つ)れて行つて貰ふ日のことです。五張(いつはり)、六張(むはり)の蚊帳を積んだ車の上に私等の兄弟は載せられます。下男やら店の丁稚(でつち)やらがそれを引いて行きますが、さすがに大通りは通らずに、六軒筋(ろくけんすぢ)と云つて両側に酒屋の蔵ばかりの建ち並んだ細い道を行きます。それでも道で人に逢ふと、
「するがやはんの蚊帳洗濯や。」
 かう云はれるのでした。一行(かう)には母などは居ません。手伝ひ人の小母(をば)さん位が重(おも)な人で、女中や雇ひお婆さんなどばかりです。綺麗な水のしやぶしやぶと云ふ音と人々の笑ひさゞめく声と河原の白い砂と川口の向うに見える武庫(むこ)の連山が聯想されます。街の東の仕切になつて居るのは農人町川(のうにんまちがは)です。これは運河と言ふよりも溝の大きいやうなもので、黒い泥の所々にぶく/\と泡立つ水が溜つた臭い厭(いや)な所です。然(しか)しそれには関りもない広い快い田圃(たんぼ)はどの街筋の出口にもかかつた土橋や石橋の直ぐ向うに続いて居ます。河内(かはち)の生駒山(いこまやま)や金剛山(こんがうざん)の麓まで眺める目はものに遮られません。南は国境の葛城(かつらぎ)山脈になつて居ます。近い所には大仙陵(だいせんりよう)が青色の一かたまりになつて居ます。後(うしろ)を向いて街の方を見ますと、ずつと北の方に浅香山(あさかやま)の丘が見え、妙国寺(めうこくじ)の塔が見え、中央に開口(あぐち)神社の塔が見えます。私等が実を拾つて遊ぶ廻り二三丈(ぢやう)もある開口神社の大木の樟(くす)が塔よりも高く見えます。塔は北にあるのも南のも三重屋根です。私はある時友達と一所(いつしよ)に、田圃へ螽斯(いなご)を取りに行つて狐に化された風(ふう)をしました。初めは戯談(じようだん)でしたのですが、皆がもうそれにしてしまふので仕方なしに続けてお芝居をして居ました。私は最初赤いしぶと花をいくつもいくつも取つてお煙草盆(たばこぼん)に結(ゆ)つた髪へ挿しました。
「皆さんも私と一所にあの御殿へ行きませうね。」
と云つて、御陵(ごりよう)の樋(ひ)の口(くち)に続いた森を指さしたりしました。私だけは父が迷信を極端に排斥したものですから、狐や狸のばかし話は嘘であると信じて居るのですが、友達は一人残らず住吉(すみよし)参りをした吉(きつ)つあんの話を真実(ほんたう)のことと思つて居たやうです。私もお菓子を持つて居るから狐が化すといけないと云つて、それを捨てる人、蜜柑は大丈夫だらうと云つて一旦捨てたのを拾ふ人、そんなことはをかしかつたのですが、榎茶屋(えのきちやや)の植木屋に親類のある人が水を汲んで来てくれたのを見まして、私は初めて悪いと思つて誤りました。天王様(てんわうさま)のお社(やしろ)は町から十町程離れてあるのです。堺の人の多くが春の花見をしに行く処です。山桜が社前に十二三本と、後(うしろ)の池を廻つて八重の桜が十本程もある位に過ぎないのですから、まあ大家(たいけ)の庭にも、ある程の春色とも云ふべきものなのですが、其(その)頃の和泉河内の野を一様の金色(こんじき)にして居る菜の花の香にひたらうとするのには好(い)い場所です。其処(そこ)を一町程北西へ隔つた所に方違(かたたがへ)神社があります。方(かた)ちがひさんと堺の人は皆云つてます。立春の日に鶴の羽を髪に挿した女達の参詣する所です。方違神社から真直(まつすぐ)に田圃の中を通つた道を町へ入つて来ますと、其処(そこ)は大小路(おほせうぢ)と云つて堺で一番広い町幅を持つた東西の道路になつて居ます。柳の木が並木とは云へないほどちらほらと植わつて居ます。大小路の東西十町の真中を十字形に通つた南北の通(とほり)が大道(だいだう)と云はれる所です。北は大和橋に続いて居ます。和歌山県の方へ大阪から続いた国道です。大小路の西の堀割(ほりわり)に掛つた吾妻橋(あづまばし)を渡ると、其処(そこ)には南海鉄道の停車場があるのです。堀割の水はもう海へ近い所ですから、引潮の頃にはまるでありませんが、さし潮になると小船をふかふかと動かすやうな浪も立つて居ます。停車場の横に泉洲紡績(せんしうばうせき)の工場があります。赤錬瓦塀の上に地獄のやうな硝子(がらす)かけを立てた厭な所です。夕方と朝に髪へ綿くづを附けた哀れな工女が街々から通つて行く所は其処(そこ)なのです。その前は新田(しんでん)と云つて、埋立地の田畑になつて居ます。停車場から南へ行くと堀割が折れて海へでる所にかかつた勇橋(いさみばし)に出ます。此処(ここ)から北西へかけての海辺を北坡戸(きたばと)と云ふのです。橋の南を真面に行きますと大浜(おほはま)の海岸通になります。旭館(あさひくわん)と云ふ富豪の遊場所(あそびばしよ)の石垣の長いのを通り越すと、もう漁師の家や貝細工を売る小家(こいへ)が並んで居ます。真直に真直に行けば海の中へ突出た燈台に出るまでその道は続いて居ます。昔は大きな船の入つた港だつた堺の海は、新大和川が川上の大和から無遠慮に砂を押し流して来るので、年々に浅くなるばかりで、今は貝を拾ふのに適した波らしい波も立たない所になつたのです。海辺には松も何も生えて居ません。大津(おほつ)の崎が淡路(あはぢ)とすれすれになつて見える遠い景色を好(い)いと見て居るだけの所です。旅館の建ち並んだ後(うしろ)に昔のお台場(だいば)があります。品川のと同じ式で唯(たゞ)海の中にないだけです。春は菫(すみれ)が沢山咲いて居ます。旭館の隣で、何とか云ふ名の小い丘の下に附いた道を曲つて街へ入つて来ますと、其処(そこ)の大道の角に私の家(うち)があります。大道をまた一町南へ行きますと宿院(しゆくゐん)と云ふ住吉神社のお旅所(たびしよ)があります。私の通つた小学校は宿院小学校と云つて、その境内(けいだい)の一部にあるのです。芝居や勧工場(くわんこうば)があつて、堺では一番繁華な所になつて居るのです。小学校の横を半町も東へ行きますと寺町(てらまち)へ出ます。大小路に次ぐ大きい町幅の所で、南へ七八町伸びて居ますが、寺ばかりと云つてよい程の街ですから静かです。向うの突当りが南宗寺(なんしゆうじ)です。千利久が建てたと云ふ茶室があります。私など少し大きくなりましてからは、折々お茶の会に行つたりしました。その隣は大安寺(だいあんじ)で私の祖母の墓があつたのでしたが、今では父も母も其処(そこ)へ葬られてしまひました。旧(もと)は納屋助左衛門(なやすけざゑもん)と云ふ人の家だつたのださうです。南宗寺の智禅庵(ちぜんあん)の丘の下を東から堀割が廻つて流れて居まして海へ出るやうになつて居ます。其(その)海辺は出島(でじま)と云ひます。もとより漁師ばかりが住んで居る所です。蘆が沢山生えて居る所です。蘆原(あしはら)とも云ひます。堀割の向う岸からはもう少しづつ松が生えて居まして、ずつと向うが浜寺(はまでら)の松原になるのです。木綿(もめん)を晒す石津川(いしづがは)の清い流もあります。私はこんな所に居て大都会を思ひ、山の渓間(たにま)のやうな所を思ひ、静かな湖と云ふやうなものに憧憬して大きくなつて行きました。

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